「かっちゃん、待ってよー!」

田んぼの畦道を、走り抜けていく克也(かつや)を、(ゆかり)は、追いかけていた。

ぬかるみのお陰で、サンダルは、泥だらけになっている。それだけじゃない。(あかね)姉ちゃんのお下がりのスカートにも、泥が飛び跳ねて染みをつくっていた。

「俺に、ついてくんな!早く、うちへ帰れ、紫!」

空は夕焼け色に染まり、数羽のカラスが頭の上をすり抜け飛んでいった。

克也の言う通り、もう(うち)へ、帰る時間が来ている。

「忘れろ!何でもない!早く(うち)へ、帰れ!」
 
「かっちゃん!……わっ!」

ぬかるみに足を取られて転んだ紫に、先を走っていた克也が戻ってきて、引っ張り上げた。

「ありがとう……かっちゃん、ねぇ、どうしたの?」

「……次は、俺かもしんない。……だから俺に、ついてくんな……!!」

克也の、その怯えきった顔つきに、紫の小さな胸は不安でいっぱいになった。

「……俺見たんだ。茜を。そして……見つかった。……だから……」

克也は、歯を食い縛る。その先は、言ってはいけないとばかりに。

拳を作る手は、小刻みに震えていた。

紫は、なぜ、姉の名前が出て来たのか分からない。

「かっちゃん……」

(うち)へ帰れ。茜には、言うな」

それだけ言うと、克也は、また、走り出した。何かから逃げるように──。

一人になった紫は、月が登りかけた空を眺めると、転がるように家へと駆け出した。



ーーーーもうすぐ、夏祭りがやってくる。

神社では、五穀豊穣の神様へ、少女による『巫女の舞』が奉納される。

舞手は、代々、紫の家が担当している為、紫の姉、茜が毎晩遅くまで、家族総出で練習に係りきりになっていた。

紫が、少し遅く帰っても、誰も、気付きもしない。紫は、用意されている、ちゃぶ台の冷たい(どんぶり)を食べると、ご馳走様でしたと、小さく呟いた。

一人は寂しかったが、それでも、お祭りが、やって来ると思うと、心が弾んだ。

飴細工、お面、わたあめ、水鉄砲……子供にとっては宝物みたいなモノを扱う屋台が、神社の境内にずらりと並ぶ。

そして、一番人気、傀儡師(にんぎょうつかい)の、寸劇が観られるのだ。

演目は、昔ばなしだったり、浄瑠璃の一節だったり、とにかく、その結末を皆、知っている、物珍しさなどない。

それでも、皆を引き付けるのは、傀儡師の人形さばきの巧みさで、まるで、生きているかのように動く人形に、釘付けになった。

この寸劇目当てに、わざわざ、麓の村や、その先にあるもっと遠い町から、家族連れが集まって来るのだ。

村に子供は、紫と克也、紫の姉の茜を含めて、7人しかいない。

そんな、小さな村の祭りに屋台が現れるのは、相当な人が集まるからで、村の大人達は、その功労者である傀儡師を、特別に接待しようとした。

ところが、いつも断られ、代わりに、祭りの期間中、村はずれのお堂に寝泊まりする事を傀儡師は望んだ。

そして──。

紫の姉、茜は、この傀儡師による寸劇が大好きだった。

「なあ、紫、あたし、あのおじさんに、連れてってもらいたい。あたしも、あの人形達のように、なりたい……」

「茜姉ちゃん、何、言ってるの!人は、人形には、なれないよ!」

「あははは、そうだね。人は、人形にはなれないね」

祭りが近づくたび、茜は、紫に冗談めかして言った。

毎年、紫の隣で寸劇を見る茜は、劇を楽しむのではなく、人形の動きに魅了されているように見えた。他の子供たちの様に、純粋に楽しんでいる様子と違って、仄暗い何かに心を鷲掴みにされているような、黒い渦に引き込まれているような、そんな瞳で寸劇を見る茜に、紫は、不安を覚えていた。

茜が、何処か遠くへ行ってしまいそうで。

いつか本当に、人形になってしまいそうで──。