輝が、膝をついて前に倒れこんだ瞬間、店の客の幾人かが驚いたように振り返った。

「おい、どうした! しっかりしろ!」

 バーの奥にいた客の一人が慌てて駆け寄ってくる。花梨の兄だった。薄暗い中、介抱しているうちに、輝の顔を見て思わずハッとなる。

 花梨の兄は、真っ赤なルージュに染まった輝の唇を訝しげな顔で見下ろしていたのだが、輝は、虚ろな様子で呟いている。

「すみません。ちょっと気分が悪くて……」

 輝は額から嫌な感じの汗を流している。そんな輝を見てマリアは慌てたフリをする。

「大変だわ! 早く、病院に連れて行かなきゃ!」

 マリアの声は悲痛さを装っているのに、どこか楽しげだった。口元が緩んでいる。芝居かがっている。密やかに嬉々としている。

「わたしの弟が入院している病院に連れて行くといいわ。きっと、すぐに受け入れてくださる」

 マリアは知っている。花梨の兄がここの常連だということを。花梨が、弟の見舞いに、明日、見舞いにくることも分かっている。鉢合わせにしてやりたい。だから、彼女は、目を閉じて横たわっている輝の頬を撫でながら告げた。

「輝、しっかりして……。飲み過ぎたのね。悪い子ね」

「アルコールの匂いがします。失礼ですが、彼は、まだ未成年なのではありませんか?」

 花梨の兄の声には険があるというのにマリアは涼やかに微笑んでいる。
 
「この子、ちょっと羽目を外してしまっただけなの。悪いのはわたしなの」

「……はぁ、そうですか」

 呆れたようにマリアを見つめなからも、花梨の兄は気持ちをグッと胸に押し込み、黙り込む。
 
 マリアは、軽蔑の眼差しを強く意識しながら、輝の手を握り締めて歌うように囁いた。
 
「心配しないでね。今夜は、あたしが、一晩中、側についていてあげるからね」

 花梨の兄に手伝ってもらい、すぐさまタクシーに乗せて総合病院に連れて行ったが、毒になるようなものは何も入れていない。急性アルコール中毒と診断された。

 個室のベッドに横たわっている輝の側で、マリアは点滴されていない側の輝の手を両手で握っている。

(あたしは間違っていないわ)

 あの娘から引き離したなら運命は変わる。流れを変えてみせる。何があろうとも二人の仲を引き裂きたい。

(あなたを救えるのは、あたしだけなのよ)

 心の中で、そう呟いた瞬間、輝が呻き声を漏らした。

「……イーリス」

 輝は気を失ったまま呟いている。あの女の名前を口にしている。声は小さいのに熱がこもっている。

「あなた、まさか……」

 マリアは怯えたように輝を見つめた。彼は、またしても切なげに同じ名前を呼んでいる。

「イーリス。今度こそ……。今度こそ!」

 輝は、そう呟いた後、眠ったまま涙をこぼしていたのだった。

     ☆