マル。その名前を久しぶりに呟くと、花梨の瞳から自然に涙がこぼれ落ちていた。

「あっ?」

 花梨は、自分の膝に落ちた涙にびっくりしてしまう。夢を見たらしい。どうしよう。頭の中が混乱している。気持ちの整理がつかない。記憶の波の中で溺れて息が苦しくなっている。
 
 自分のせいで男の子が死んでしまった。口をパクパクさせたまま自分を落ち着かせようと努力する。あれは過去。でも、また同じような事は起こってしまう。

「どうした? 何かあったのか?」

 輝の声がした。放課後の時間帯に車内で居合わせることは珍しい。泣いている花梨を見て心配して近寄ってきたようだ。

 電車の座席に座ったまま、輝を見上げると、彼が、熱心に、こちらを見つめていたのだ。花梨が悲しげに訴えていく。

「死んじゃったの。マルが死んだ夢を見たの」

「マル? あいつは生きているぜ。時々、行方不明になるけど名前を呼ぶと顔を出すぞ」

 輝の言っていることがよく分からなくてポカンとしていた。すると、輝が、次の駅で降りようと手を繋いだのだ。その口調は快活だった。

「案内するよ。マルが元気なところを見たら安心すると思うよ」

「マルのこと輝くんも知ってるの?」

「もちろんだ。俺がランニング中に見つけて名付けたんだぜ」

 えっ? 名付けた?

 言いながら、駅から八分くらいのところにある小さな公園に花梨を付れ出している。すると、象の形の滑り台の脇に小さな白い子犬がいたのだ。輝が得意げに白い歯を見せた。

「ほーらな! マルはここにいるだろう?」

 子犬の名前がマルなのだ。輝を見かけると嬉しそうに尻尾を振った。輝が、子犬を抱き上げながら明るい表情で言う。

「うちの高校の奴等が餌をやっているんだ。マルチーズっぽいだろ? だからマル。花梨ちゃんも、こいつのことを知っていたとはな……」

 それは知らなかった。

(あたしが言っているのは前世の男の子のことなんだけど……)

 花梨がしゃがみこむと子犬がペロペロと指先を舐め始めた。愛らしい目で尻尾を振っている。

「きゃ、くすぐったいっ!」

 犬の腹と背中が泥で汚れていた。少し情けない顔つきも含めて可愛い。マルへの愛しさが泉のように溢れてきて堪らなくなる! 連れ帰りたくなる。

「捨て犬なのかなぁ? 飼う人がいないなら飼いたいな」

 母親がどう言うか分からないが説得してみよう。

 指で、こちょこちょと喉の下やお腹を撫でるとマルは気持ちよさそうに目を細めた。花梨は、衝動的に子犬の鼻にキスを落とす。

「いいなぁ、俺も犬になりてぇわ」

 脇でしゃがみ込んでいる輝がサラリというのでドキッとしてしまう。

 自分が恋愛の夢ばっかり見ているせいなのだろうか。花梨は前世のアルブとのキスを思い出して赤面した。恥ずかしくなりソワソワしてしまう。