「今のあたしには、どうしようもないわ」

 何かを振り払うようにして首を振った後、花梨は長い髪をかき上げて髪をニーテールに結った。薄暗いホテルの部屋の窓際へと向かい、カーテンを開ける。もう一回、眠るつもりはない。また前世の記憶に捕まるのは怖いのだ。
 
 イーリス妃は海賊を愛したエレノア姫へと生まれ変わっている。それが自分の記憶の一部だということは分かる。夢と現実の境界線が曖昧になって、どんどん浸食されているかのようだ。

(こんなふうにして、忘れていたはずの前世の記憶を少しずつ思い出していくのかしら)

 朝の四時半になろうとしている。早朝の海の色は何だか寂し気だし、ホテルの周辺はシンとしているけれど、頭をスッキリさせたくて浜辺へと出ていった。ホテルの庭から続く長い階段を下っていくと、人陰がまばらに見えた。

 まだ夜が明けないうちから、ジャージ姿で浜辺をジョギングをしている人がいる。地元の男の子のようだ。坊主頭で日焼けしている。野球部なのかもしれないと思っていると、急に、シャドーボクシングを始めた。犬を連れた老女もいる。とはいうものの、海も空も砂浜も、すべてモノトーンに近いように見えるぐらい薄暗かった。

(人が少ないせいかな。異世界にいるみたいだな)

 それでも、次第に明るくなっていた。朝日が昇る前の微妙な空の色が美しい。海の色もそれに呼応しているかのようで、自然に触れていると心が癒されていく。花梨は、砂の上をゆっくりと進んだ。使われていない小さな木造のボートを発見した。その近くまで来た時、ボートの脇に革靴が落ちているのを見かけたので、恐る恐る、そのボートを覗き込んでいく。

 まさか、こんなところに人がいたなんて……。一瞬、死体が遺棄されているのかと思った。その人はタキシード姿でボートの中で仰向けで眠っている。

 目を凝らして面差しを確認してみると、何と、そこにいたのは輝だった。

 なぜ、こんなところに?

「大丈夫? どこか怪我でもしたの?」

 揺り起こすと、輝はぼんやりとした顔で花梨を見つめた。目の焦点が合っていないのか、幼い子供がするようにギュッと手で目をこすっている。

「えっ? ここはどこだ? 俺、こんなところで何をやっているんだ?」

「こっち台詞だよ。どうしたの?」

 輝に向かって尋ねると、眠そうな声で答えた。昨夜、アテもなくふらふらしているうちに寝込んでしまったというのである。

「俺、パーティーとか苦手で、かなり疲れていたらしいんだわ」

 そう言うと、輝は、ガバッと起き上がった。

「今、何時? やべぇ、遅刻する! 確か、早朝に撮影が!」

「撮影?」

「遊園地の海賊船の中で撮ることになっているんだよ。一般のお客さんの入園の時間までに撮り終えなきゃいけない。五時に集合なんだ。今、何時だ?」