「ダメよ。まだ完治してないのに……。というか、無理を言って早めに退院したんだよ」

 花梨が小さく睨むと、輝は叱られた子供みたいに唇を尖らせた。普段は、大人びているけれど、こうしていると年下なんだなと感じる。
 
「あーあ、早く泳ぎてぇなぁー。花梨の水着姿を見てぇよ」

 輝は、ちょっといやらしい顔つきを浮かべてからキャミソール姿の花梨をじっと眺めている。悪戯な微笑を浮かべる様子は無邪気そのものだった。
 
「あたしの水着が見たいなら室内でも見せるよ」

「えっ、マジ?」

「うん、あたしで良ければ」

「いいに決まってる! あっ、いや、やっぱり、そういうのは止めとく。俺は服を着ている花梨も好きなんだ。海に行っても泳ぐのは無しだ。水着は他の奴も見るから、やめとこう」

 なんていうか、すごく分かりやすい人だ。花梨はクスッと笑みをこぼす。
 
「あーら、輝くん。早く治って良かったわね」

 退院する手続きをしていたら、通りかかった看護婦さんが驚いたように言ったのだ。
 
「ええ、俺も、一時は死ぬかと思いました」

 そう言って軽やかに笑っているが、医師によると、重篤な後遺症が残らなかったのは奇跡だという。
 
 あの事件の犯人の男は捕まっている。ノイローゼの男。自称東大生。事件の前日が誕生日だったらしい。
 
 二十歳になっていたので彼の名前と経歴はマスコミの報道で流れた。
 
 東大に入るために浪人していたという。犬のマルを殺したのも輝に嫌がらせの手紙を書いていたのも彼だった。人生がうまくいかなくて他人に八つ当たりをしていたのだ。頭のおかしい男は、こんなことを言っていたらしい。
 
『僕はこいつの本性を知っている。僕は、前世でこの男に何度も殺されている。復讐して何が悪い! 僕は、こいつのせいで何度も死んでいるんだぞ! こいつが僕の命を奪ったんだぞ』

 その台詞は、この男がライラだった事を示しているのだろうか? それならば理解できる。

『僕は、こいつに殺される前に何とかしようと思っただけだ!』

 そんな意味不明な言葉を取調室で繰り返して無罪を主張しているらしい。

 考え方を変えてみたなら、痴漢行為を咎められて警察に連れて行かれたことや、こうして、卒人未遂で捕まったことで彼は社会的に行き場を失う。

『あいつが僕の人生を奪った……。いつも、あいつが僕を殺てきたんだよ』

 妄想による殺人と断定されて、男の罪は軽くなるかもしれない。いずれにしても、裁判は、もっと先のことだ。

 幸いなことに犯人の親は都内に土地を有する資産家だった。父親は東大を卒業したエリートで、私立の名門学校を経営していたということもあり、多額の見舞金がモデル事務所と家族に支払われた。しかし、おそらく、輝の腹部の傷跡は一生残ることだろう。