「みんな、姫様とお話してみたいと思っています。ですが、聖様のつがいとなれば、そう簡単に口を利くことは許されません。聖様はそんな風に禁じる方ではありませんが、臣下たちの間では暗黙の決まりのようになっていますから」
「そうだったんですね……」
「姫様の世話役の桜火は、ここではそれなりの地位があります。そして、ご存知かもしれませんが、玄信は聖様の右腕です。蘭丸と菊丸は特別に守護龍として任務を命じられていますが、他の臣下たちにとって姫様は気安く話せるお方ではないのです」
彼女の言葉は、凜花自身も感じていたことではあった。
蘭丸と菊丸はともかく、ここでは他の臣下に色々と命じている玄信と桜火ですら、凜花に気安く話しかけるようなことはない。
特に、ずっと傍にいる桜火は、あまり他の者を寄せつけようとはしなかった。
凜花の部屋には、相変わらず聖が許可した者以外が入れないこともあいまって、臣下たちとはそうそう会話をする機会もないのだけれど。
「でも、姫様がお話になられたいのでしたら、遠慮なく話しかけてみてください。みんな、最初は戸惑うかもしれませんが、きっと姫様のお人柄に惹かれると思います」
「そんな……」
「あら、姫様。私はもう、姫様のお人柄に惹かれていますよ」
風子が社交辞令を言うような女性ではないのは、昨日でなんとなくわかった。
けれど、自分自身のどこを見てそう思ってくれたのかがわからず、凜花は困ったように笑みを浮かべることしかできなかった。
「さぁ、お仕事を始めましょう。ぴぃらぁとやらはありませんので、包丁で皮を剥けますか?」
「頑張ってみます……!」
平成生まれで、令和の時代を生きてきた。
そんな凜花にとって、ピーラーは当たり前にあったもの。
包丁を使って野菜の皮を剥いたことはなかったが、彼女が丁寧に教えてくれたおかげでなんとか芋の皮を剥くことができた。
芋とはいっても、レタスのような黄緑色の皮で、ナスのような形をしている。凜花が知っている芋とは全然違い、これが芋だと言われなければわからないだろう。
驚きはしたものの、初めて入った調理場では知らなかった食材をたくさん目にし、それだけでも楽しかった。
凜花が剥いた芋の皮は分厚く、風子からは「これから頑張りましょう」と笑われてしまったが、彼女と過ごす時間は凜花を明るい気持ちにさせてくれた。
「調理場での仕事は楽しいか?」
「うん、とっても!」
凜花が仕事を与えられてから半月。
聖からの問いに、凜花は笑顔で答えた。彼も安堵したように微笑む。
最初は分厚く剥くことしかできなかった野菜の皮も、日に日に薄く剥くことができるようになってきた。
しかし、風子の話ではもうすぐピーラーが完成するのだとか。
彼女はあの日に言っていた通り、早々に聖に頼んで道具屋を呼び、ピーラーを作るように依頼した。
その際、凜花は説明を事細かくさせられた。ピーラーを知っているのが凜花しかいないのだから、それは仕方がない。
ところが、風子は下界で使っていた他の調理器具のことも尋ねた上、道具屋にそれらも作るように言い渡したのだ。
これには、説明させられる凜花も作らされる道具屋も、さすがに参った。
とはいえ、そんなに簡単に完成するわけでもないため、ひとまずピーラーができるのを待ち、それから他の道具について相談することになった。
彼女は、ピーラーの完成を待ちわびている。
道具屋は困惑しながらも、大口の仕事だと喜んでいるようでもあった。
それに、凜花が話す調理器具に興味を示したのは風子だけではなく、料理係たちもみんな少しずつ興味を持ち始めた。
おかげで、いつしか自然と料理係たちと会話ができるようになっていた。
もっとも、風子がさりげなく凜花の話をみんなに聞こえるようにしていたことには気づいている。
仕事だけではなく会話のきっかけまで与えてくれた彼女には、感謝しかない。
「やはり、風子に頼んで正解だったな」
「うん。風子さんはもちろんだけど、聖さんのおかげだよ。本当にありがとう」
聖が瞳で弧を描く。
「凜花が喜んでくれるのなら、これくらいお安い御用だ。むしろ、もっと早くこうしてやれたらよかったんだが、時間がかかってすまなかった」
「ううん。風子さんが仕事熱心な人だってことは、この半月でよくわかったから。お城の仕事を置いてこられないのも当然だよ」
「玄信も風子も、夫婦揃って仕事好きだからな。あのふたりは休むということを知らないんだ」
「それは聖さんもでしょ?」
凜花の言葉に、彼が片眉を上げてどこか不服そうにする。
「バカを言え。俺は仕事より凜花と過ごす方がずっといい。できることなら、仕事のことなど考えずに凜花と毎日一緒にいたいくらいだ。あんな奴らと一緒にするな」
聖が無責任な人ではないことは、もう知っている。
けれど、その言葉が嘘ではないこともわかっていた。
「そんなことしたら困る人がたくさんいるでしょ」
「そうだな。天界の治安を守るためにも俺が責任を放棄することは許されない。だが、凜花と四六時中を共にしたいと思っているのは本心だ」
真っ直ぐな想いを向けられて、凜花は心がくすぐったくなる。
さらにはふわりと笑いかけられて、胸の奥が甘やかな音を立てた。
彼から目が離せない。
覚えたての感覚に戸惑うばかりで、どうすればいいのかわからない。
それでも、凜花はもうとっくに気づいている。
聖に心が惹かれている――と。
彼の優しい微笑みを前にすると、胸の奥がきゅうっとなる。
嬉しいのに微かに苦しくて、幸せなのにわずかに切なくなる。
そして、聖ともっと一緒にいたい……と思うのだ。
ただ、つがいになる覚悟を決めるには、もう少しだけ勇気が足りない。
彼の傍にずっといたいと思う気持ちは、確かに心に強くあるのに……。つがいの契りを交わすということの重さに向き合うのは、まだ上手くできずにいた。
そのことに罪悪感を抱えることもあるけれど、聖は決して急かしてこない。
彼は、自分の想いを隠すことはなかったが、凜花の心が決まるまで待ってくれるつもりでいるようだった。
それを知っているからこそ、凜花の中には焦りが芽生え始めていた。
凜花が調理場で働くようになって、一か月が過ぎた。
聖を除けば、これまでは桜火と玄信、蘭丸と菊丸くらいしか接することがなかったが、調理場に入るようになったことで臣下たちとの会話がぐんと増えた。
最初は仕事のためだった会話は徐々に世間話にも及び、今ではみんな天界で流行っているものなどを教えてくれたりする。
天界のことをなにも知らなかった凜花にとって、ひとつひとつのことが興味深く、会話により花が咲いた。
さらには、最初は料理係だけだった話し相手も少しずつ増えていった。
臣下たちは互いに付き合いが長いらしく、料理係の知り合いや友人が屋敷内のあちこちにいるため、自然と凜花も会話に入れてもらえるようになったのだ。
普通なら、学校や会社での友人や知人もこんな風に増えていくのだろう。
凜花にはこれまで経験のないことだったが、それがかえって新鮮でもあった。
臣下たちとの会話が増えたことによって居心地が好くなった分、天界での生活にも馴染めてきている。
元は、臣下たちとの仲を取り持ってくれた風子のおかげだが、凜花が彼女にお礼を言うと『姫様のお人柄ですよ』なんて返されてしまった。
そんなはずはないとわかっている。
しかし、凜花は風子の気遣いが嬉しくもあった。
道具屋に頼んでいたピーラーは、数日前にようやく出来上がった。
凜花が形などは説明したとはいえ、天界では未知の道具。
最初から見た目だけはそれらしいものが完成したが、いざ使ってみると凜花の知っているものとは使い心地がまったく違い、何度も作り直してもらうはめになった。
風子に急かされていたため、道具屋は大変だったに違いない。
けれど、凜花の必死の説明と使用感の感想、道具屋の努力の甲斐があって、最終的には凜花が下界で使っていたピーラーと遜色ないものが出来上がった。
凜花にとっては当たり前だった道具。下界では百円均一でも手に入る程度のもの。
ただ、道具作りはまったく素人の凜花の説明で目にしたこともないものを作るのは、至難の業だっただろう。
これがプロの仕事か……と感心した三日後には、さらに追加で三個のピーラーが届いた。
風子を始め、料理係たちは『下拵えがうんとラクになった』と大喜びしている。
天界の者にとって珍しいピーラーは大人気で、みんなが使いたがるほど。
下拵えなんて下っ端の仕事なのに、皮剥きに立候補をする者が後を絶たなかった。
これには、凜花は驚きながらも笑ってしまった。
ちなみに、次はフライパンが欲しいと言われている。
『ふらいぱんがあれば、焼き物にとてもよさそうだもの。これまでは炭で焼くことが多かったけど、色々なものに使えそうね』
風子はワクワクした様子だったが、凜花はフライパンの作り方なんてまったくわからない。ピーラーとは違い、熱を通す調理器具は簡単には完成しないだろう。
それでも、みんなが喜んでくれるかもしれないと思うと、凜花の中には使命感のようなものが芽生えていた。
「姫様、このお菓子は食べたことがありますか?」
今日も夕食の支度が始まる時間に合わせて調理場に行くと、料理係から声をかけられた。彼女はまだ十代にも見える外見で、この中では一番若いようだった。
「いえ、初めて見ました」
「さっき分けていただいたのですが、姫様もおひとつどうぞ」
「ありがとうございます」
「これは、木の実を混ぜ込んだ饅頭です。餡がおいしいんですよ」
ころんとした小さな饅頭をひとつ分けてもらい、凜花は手でそっと割ってみる。
中には、白い餡とともにたくさんの木の実が詰まっていた。
一口かじってみると、餡のほんのりとした甘さと木の実の香ばしさが鼻から抜け、思わず笑顔になった。
「おいしい! これ、なんていうお菓子ですか?」
「小粒饅頭とか粒饅頭などと呼ばれています。老若男女に人気なんです」
その場にいた料理係たちも、みんな嬉しそうに頬張っている。
凜花も淹れてもらったお茶を飲みつつ、初めて食べた饅頭の味を楽しんだ。
それから、いつものように夕食の支度に取り掛かる。
まだ下拵えや皿洗いしか任せてもらえないが、贔屓されないことがかえって凜花のここでの居心地を好くしている。
恐らく、これも風子の采配だろう。
下拵えの担当の料理係たちは若い者が多く、それ故に馴染みやすい気もする。
とにもかくにも、聖と風子が作ってくれた居場所は凜花にやり甲斐を与えるとともに、笑顔にしてくれた。
そんな平穏な日々を送っていた、ある午後のこと。
「お待ちください! 紅蘭様!」
部屋の外がなんだか騒がしくなり、聞き覚えのある名前が耳に飛び込んできた。
「うるさいわね」
「いくら紅蘭様であっても、姫様のお部屋にはお通しできません。聖様のご命令に背くことがどういうことか、紅蘭様もよくおわかりのはずです」
きっと、ふすまの向こうには紅蘭がいるのだろう。
凜花は少しだけ戸惑ったが、蘭丸たちと仲良く活けていた花を台に置き、すぐに立ち上がった。
「なりません、姫様」
「桜火さん……」
「紅蘭様とお会いになれば、またなにを言われるか……」
「でも、きっと紅蘭さんはなにか不満があるんですよね? このままだと、紅蘭さんは何度も来られると思いますから……」
制止する桜火に苦笑を返した凜花が、緊張しつつもふすまを開けた。
「あら」
「こ、こんにちは……」
自分でも気づかないうちに緊張していたらしく、紅蘭の視線を受けた凜花の声が裏返ってしまった。
彼女の目には、冷ややかな雰囲気が宿っている。
「あなた、本当に聖と契りを交わすつもりなの?」
紅蘭の質問は、声音同様とても不躾なものだった。
「紅蘭様、そういったお話はお控えください」
「桜火さん、いいんです」
「しかし……」
すかさず止めに入った桜火に、凜花が強張った表情で笑みを浮かべる。
「えっと、ここだと人目があるので中に……」
「それはいけません。いくら姫様でも、聖様のご命令には背いては……」
「じゃあ、お庭ならどうですか? それなら部屋の中じゃないですし」
「……わかりました。ですが、私共もお傍にいさせていただきます」
「そんなに警戒しなくても、別に殴ったりはしないわよ。聖に言ってもこの子に会わせてくれないから、こうして来ただけよ」
紅蘭の話しぶりから、彼女は何度か凜花に会うことを望んだのかもしれないと感じる。しかし、聖が許さなかったようだ。
それがどういう意味か。凜花にとってはデメリットになりうる可能性があるのはすぐにわかったが、凜花は紅蘭とともに庭に出ることにした。
「……どこまで行くつもり?」
庭に出て歩いているだけだった凜花に、彼女が呆れたようなため息をつく。
「すみません……。じゃあ、とりあえずこのあたりで……」
どこまで行くのかなんて、凜花は考えていなかった。
自分から庭に誘っておいて紅蘭とどう話せばいいのかもわからず、ただ歩くことしかできなかったのだ。
ふたりから少し離れて、桜火と蘭丸たちがついてきていた。
桜火は警戒心をあらわにしており、蘭丸と菊丸はどこか心配そうな顔をしている。
「あの……」
「あなた、私がどうしてここまであなたにこだわるのか知りたい?」
凜花がおずおずと切り出せば、彼女がじっと見つめてくる。
「はい……」
「聖からなにも聞いてないのね」
紅蘭に対して、疑問がなかったわけではない。
にもかかわらず、彼女のことがよくわからないままだったのは、聖も桜火たちもそこに触れようとしなかったからである。
訊けば答えてくれたのかもしれないが、凜花はなんとなく尋ねられずにいた。
「私は、龍王院の分家の者なの」
「龍王院?」
「それも聞いてないの?」
目を見開いた紅蘭が、小首を傾げた凜花に向かって鼻で笑う。
「龍王院は聖の名前よ。天界の中でも力を持つ一族で、聖はその本家の龍なの。分家はたくさんあるけど、龍王院の直系はもう聖しか残っていないわ」
「聖さんだけって……」
「天界は聖が龍神になる前まで争いばかりだったの。そのときに、直系の者が暗殺されたのよ」
突如出てきた物騒な言葉に、凜花の顔が強張る。
「でも、力のある聖が天界を治めるようになったことで、目に見える争いはほとんどなくなった。千年前に凜が亡くなったときには一度大きな争いが起きたけど、そのあとはずっと今みたいな感じが続いているわ」
そんな凜花に構わず、彼女は滔々と話していた。
「龍王院の血が龍の中でも強いのはもちろんだけど、それだけ聖に力があるからよ。なにより、天界では彼を慕う龍はとても多いの。聖の存在が争いばかりだった天界の均衡を保っているのよ」
凜花はこれまで、龍神という存在がどういうものなのかをよく知らなかった。
というよりも、わからなかったのだ。
屋敷の中にいる者たちはみんな聖を慕っているし、彼が主だというのもわかる。
街に出たときに聖が受けていた視線を考えれば、彼はみんなの上に立つ者だというのも理解はしていた。
ただ、それはなんとなく会社の社長のような、凜花が知っている立場に近い形なのだと思い込んでいたのだ。
しかし、紅蘭の話を聞けば、それとはまったく違うことが伝わってくる。
「龍はね、古来から特別な生き物だと言われているの。小さな息吹ひとつで風を呼び、啼き声で竜巻や雷雲を起こし、怒りとともに雷を落とす――と」
要するに、自然に干渉できるということだろうか……と凜花は想像する。
竜巻や雷雲、雷は、龍が生み出すものなのか……と。
けれど、残念ながら想像はどこまでも想像でしかなく、あまりピンと来なかった。
「龍の中にはそれすらできない者もいるけど、聖は別格よ。龍はそれぞれに性質があって、私や桜火は火を操るのが得意なの。でも、聖は違う。火も水も風も雷も……大地や空さえも操れるわ。聖がその気になれば、街ひとつなんて息吹で壊滅できる」
一方で、それだけ大きな話だということは理解できる。同時に、凜花の中にあった小さな不安を嘲笑うように煽られた。
「龍たちにとって、聖は尊敬と同時に畏怖の念を抱く存在なの。龍神という存在そのものというより、聖自身がそうなのよ。龍の力がないあなたにはわからないでしょうけど、普通なら近づくことも許されないような存在だと言われているわ」
そして、それはおもしろいほど激しくなっていく。
「そういう存在のつがいになる覚悟があなたにあるの?」
「そ、れは……」
即答できなかった凜花に、紅蘭が嘲笑を零す。
「ほらね、所詮はその程度なのよ」
彼女は、冷たい言葉で凜花を追い詰めていく。
けれど、凜花も負けてはいなかった。
「確かに、私にはまだつがいがどういうものかはわかりませんし、ピンと来ていません。だから、覚悟なんて決められません」
「そうでしょうね」
「でも……前に紅蘭さんに会ったときとは違って、今は聖さんのことをもっと知りたいと思ってます。聖さんともっと一緒にいたいって感じてます」
紅蘭を真っ直ぐ見つめる凜花に、彼女が意表を突かれたような顔をする。
「……あなた、少し変わったわね」
「え?」
きょとんとすると、紅蘭は「でもだめよ」と凜花を睨む。
「私は、凜の親友だったの。聖のつがいに選ばれたのがあの子だったからこそ、聖を諦めようと決めたわ。それなのに、千年も待っていた聖のつがいが人間ですって? 番う相手が人間であること自体は今までもあったけど、聖のつがいなら話は別よ」
さらには、憎しみに満ちた双眸を向けられた。
「天界では、聖が決めたことなら誰も逆らったりはしない。ましてや、つがいの話ならなおのこと。龍にとってつがいというのは、何者であっても当人たち以外の干渉を許さないものだからよ。でもね、これだけは覚えておいて」
彼女の表情がほんの一瞬和らぎ、次いで冷酷な笑みを湛えた。
「聖に愛されているのはあなたじゃない。あなたの中にある、凜の魂よ」
凜花の顔が強張る。
「あなたの中に凜の魂がある限り、聖はあなたじゃなく凜を愛し続けるわ」
心には紅蘭の言葉が深く突き刺さった。
聖がくれた言葉を、凜花は信じている。
あのときの彼の瞳は揺るぎなく真っ直ぐで、紡いでくれた想いはきっと嘘ではないと感じたからである。
その一方で、不安と疑問もあった。
自分の魂が凜のものなら、彼女の魂はこれからもずっと自分の中にあり続けるのだろうか――と。
その答えは、凜花にはわからない。
黙ったままの凜花を残し、紅蘭は凜花の傍を離れる。
すぐに桜火たちが駆け寄ってきたが、凜花はしばらくの間なにも言えなかった。