晴明が気づいて声をかけた。宰相はあたりを見回すが、確かに逃げ惑う人の中に戸部尚書である陳張明の姿がない。

「先ほど確認した時は、確かにおりましたが……永福」

「はい」

 宰相は、広間の官吏たちにもぐりこませていた永福を呼んだ。彼はこの春の耳目で中書省に入った宰相直属の新人官吏だ。

「戸部尚書はどうした?」

「あれ?」

 言われて初めて、永福は張明がいないことに気づいたようだ。

「おかしいな。確かにさっきまで……」

「肝心のやつから目を離して何をしていた!」

 きょろきょろしていた永福が、宰相に雷を落とされて首をすくめた。晴明が踵を返す。

「急いで藍晶宮を調べろ。この状況で張明がいなくなったとなれば、行く先は藍晶宮に違いない」

「陛下!」

 広間を出ようとした晴明のもとに、その藍晶宮を見張っていた衛兵がまろびながらやってきた。

「どうした」

「藍晶宮に、その、戸部尚書が、皇太后様をお連れになって、入られました」

「なに?!」

 その場にいた者たちに緊張が走る。宰相が悲鳴のような声をあげた。

「なぜ、その場で止めなかった!」

「お止めしようとしたのですが、尚書が皇太后さまに短刀を突き付けておられたので、手が出せず……」

「だからと言って……!」

「よせ、翰林」

 衛兵をどなりつけた宰相を、晴明がとめる。

「それで、尚書は何か言っていたか?」

「はい。晴明陛下に、お一人で藍晶宮へ来い、との伝言です」

「なるほど。こんなに熱い誘われ方は初めてだ」

「何をのんきなことを。皇太后さまにもし何かあったら……!」

 晴明を振り返った宰相は、思わず言葉を止めた。表情だけは笑顔だが、晴明の目は冷たく底光りをしている。自分の背筋に冷たいものが走るのを、宰相は感じた。

(龍可陛下……!)

 晴明からあふれる威圧感はまさに、亡き皇帝陛下、龍可そのものだった。

「そんなことはさせない。右軍はそのままここの者たちを牢へ。左軍は一緒に来い!」

 晴明が声をあげて、後宮へと向かった。

  ☆

「来たようですな」

 藍晶宮のまわりに人の気配が集まるのを感じて、張明は立ち上がる。そして、椅子に座ったままの皇太后を見下ろした。

「さて、陛下はお一人でこられますかな」

「あの子は、大義を間違える子ではありません」

「そうでしょうか」

 うっすらと笑みを浮かべた張明を、皇太后は静かに見つめる。

「あなたを守るためなら、陛下は素直にこちらの要求をのんでくださるでしょう。本当にお優しい方にお育ちだ。あなたは、親としては完璧だった」

 内容は褒めていても、声ににじむ皮肉を隠そうともしない。

「だが、一国の主はそれでは駄目なのですよ。だから養育は乳母や教師に任せろと言ったのに、あなたはがんとして自分で育てることを押し通した。その結果が、あのひ弱な皇帝です。あなたは、最悪の皇帝を作ってしまった」

「国民は、すべて皇帝の民。子も同然です。その子たちを愛しく思えない人物が頂点に立つ国など、とても幸せな国とは思えません」

「あんなひ弱な皇帝になにができます」

 小馬鹿にするように、張明は笑った。だが、張明を見る皇太后の視線の強さは変わらない。

「あなたは、本当の晴明を知らないのです」