「娘を権力に売ったのですね」
「人聞きの悪い。お前だって、妃となれば、贅沢な暮らしができるじゃないか」
「だからって、じじいの妻なんて絶対嫌ああああああ!」
「じじいではないというに。それに、運というものはいつでもあるものではない。目の前に現れた時に迷わず掴む者だけが、成功を手に入れることができるのだ」
「それは商売の話でしょう? 結婚までそんな風に扱われては、私の気持ちは」
「紅華」
ふいに、父の声が低くなった。
「もう決まったことだ。この婚姻で、我が家は貴族の仲間入りをし、ますます発展していくだろう。お前の一存でどうこうできるものではないことくらい、わかっているだろう?」
「でも……」
それが事実だということがわかるだけに、紅華の反論は弱い。紅華が黙り込んだのを見た汀州は、また笑顔に戻る。
「いや、めでたいめでたい」
そう言って勝手に話を締めくくると、軽い足取りで汀州は部屋を出て行った。残された紅華は、ふくれっ面のまま父親のいなくなった椅子にどすんと座り込む。
紅華の実家、蔡家は、貴族でこそないが、陽可国随一の商家と言われる財産家だ。その財産は国に次ぐ規模と言われ、経営を通じて他国との交流も広く深い。その蔡家の一人娘だ。紅華には、幼いころからすでに掃いて捨てるほどの縁談が来ていた。
だが父は、そのどれにもうなずくことはなかった。彼は、紅華を後宮に入れるつもりだったのだろう。
紅華が妃として後宮に入れば、その実家も必然的に貴族の地位を得ることができる。それこそが汀州の狙いだったのだ。だから、婚姻が許可される十六歳になってすぐに後宮入りが決まったのだ。父親がどんな手を使って紅華を売り込んだかしらないが、蔡家の財産が決め手になったことは想像に難くない。
「はあ……もういいや、どうでも」
しばらくしてのろのろと立ち上がった紅華は、しょんぼりしながら自分の部屋に戻った。
☆
その日はあっという間にやってきた。
紅華は、新品の馬車に揺られながらぼんやりと暮れていく外の風景を眺めていた。
紅華が着ているのは、金糸銀糸の刺繍が豪華に施された緋色の婚礼衣装だ。この日のために特別に仕上げてもらった逸品で、紅華はこの服にずっと憧れていた。これを着る時は、弾んだ心持ちで愛する人のもとへ向かうものだと思っていたのに。
そんなことを考えていると頭の中に蹴り飛ばした男の顔が浮んで、またふつふつと腹が立ってきた。
紅華が蹴り飛ばした男――李欄悠に初めて会ったのは、一年ほど前にたまたま出かけた茶会だった。偶然話しかけられて、二人はすぐに意気投合した。李家は最も古い家柄の貴族の一つだったが、欄悠は他の貴族のように家柄を自慢したり威張り散らしたりもしなかった。本物の矜持を持った貴族だと、紅華は尊敬すら覚えていた。彼があふれるほど来ていた縁談の相手の一人だと知った時には、運命だと思った。
欄悠は、紅華が蔡家の一人娘だという事を知った後も、他の求婚者のようにあからさまに自分の家の話をひけらかすことはなかった。ただひたすらに紅華に優しくしてくれた。紅華の知らない素晴らしい景色を見せに連れて行ってくれたり、突然様々な美しい贈り物をしてくれたり。
それらはすべて、紅華を懐柔するための演技だったのだ。
今思えば彼は、最初から蔡家の娘だと知っていて近づいてきたのだろう。紅華の父が蔡家と李家の婚姻を許さなかったので、矛先を紅華に向けたに違いない。
そんなことも気づかずに浮かれていた過去の自分を、紅華は張り倒したい気分だった。
「人聞きの悪い。お前だって、妃となれば、贅沢な暮らしができるじゃないか」
「だからって、じじいの妻なんて絶対嫌ああああああ!」
「じじいではないというに。それに、運というものはいつでもあるものではない。目の前に現れた時に迷わず掴む者だけが、成功を手に入れることができるのだ」
「それは商売の話でしょう? 結婚までそんな風に扱われては、私の気持ちは」
「紅華」
ふいに、父の声が低くなった。
「もう決まったことだ。この婚姻で、我が家は貴族の仲間入りをし、ますます発展していくだろう。お前の一存でどうこうできるものではないことくらい、わかっているだろう?」
「でも……」
それが事実だということがわかるだけに、紅華の反論は弱い。紅華が黙り込んだのを見た汀州は、また笑顔に戻る。
「いや、めでたいめでたい」
そう言って勝手に話を締めくくると、軽い足取りで汀州は部屋を出て行った。残された紅華は、ふくれっ面のまま父親のいなくなった椅子にどすんと座り込む。
紅華の実家、蔡家は、貴族でこそないが、陽可国随一の商家と言われる財産家だ。その財産は国に次ぐ規模と言われ、経営を通じて他国との交流も広く深い。その蔡家の一人娘だ。紅華には、幼いころからすでに掃いて捨てるほどの縁談が来ていた。
だが父は、そのどれにもうなずくことはなかった。彼は、紅華を後宮に入れるつもりだったのだろう。
紅華が妃として後宮に入れば、その実家も必然的に貴族の地位を得ることができる。それこそが汀州の狙いだったのだ。だから、婚姻が許可される十六歳になってすぐに後宮入りが決まったのだ。父親がどんな手を使って紅華を売り込んだかしらないが、蔡家の財産が決め手になったことは想像に難くない。
「はあ……もういいや、どうでも」
しばらくしてのろのろと立ち上がった紅華は、しょんぼりしながら自分の部屋に戻った。
☆
その日はあっという間にやってきた。
紅華は、新品の馬車に揺られながらぼんやりと暮れていく外の風景を眺めていた。
紅華が着ているのは、金糸銀糸の刺繍が豪華に施された緋色の婚礼衣装だ。この日のために特別に仕上げてもらった逸品で、紅華はこの服にずっと憧れていた。これを着る時は、弾んだ心持ちで愛する人のもとへ向かうものだと思っていたのに。
そんなことを考えていると頭の中に蹴り飛ばした男の顔が浮んで、またふつふつと腹が立ってきた。
紅華が蹴り飛ばした男――李欄悠に初めて会ったのは、一年ほど前にたまたま出かけた茶会だった。偶然話しかけられて、二人はすぐに意気投合した。李家は最も古い家柄の貴族の一つだったが、欄悠は他の貴族のように家柄を自慢したり威張り散らしたりもしなかった。本物の矜持を持った貴族だと、紅華は尊敬すら覚えていた。彼があふれるほど来ていた縁談の相手の一人だと知った時には、運命だと思った。
欄悠は、紅華が蔡家の一人娘だという事を知った後も、他の求婚者のようにあからさまに自分の家の話をひけらかすことはなかった。ただひたすらに紅華に優しくしてくれた。紅華の知らない素晴らしい景色を見せに連れて行ってくれたり、突然様々な美しい贈り物をしてくれたり。
それらはすべて、紅華を懐柔するための演技だったのだ。
今思えば彼は、最初から蔡家の娘だと知っていて近づいてきたのだろう。紅華の父が蔡家と李家の婚姻を許さなかったので、矛先を紅華に向けたに違いない。
そんなことも気づかずに浮かれていた過去の自分を、紅華は張り倒したい気分だった。