しばらく迷った後、睡蓮は、はい、と頷いた。それを見て紅華もうなずくと、そ、と竹の扉をあけた。

 扉の向こうは、すっきりとした小さな庭だった。その向こうに黒い宮がぽつんと立っている。

(ここが……天明様の住まい)

 きらびやかな後宮とは違い殺風景ですらあるその光景に、紅華の胸が切なくなる。豪華な石造も凝った壁の模様も何もない。

 ここは、打ち捨てられた皇子の宮なのだ。

 その宮の前で、天明と晴明がなにやら言い争っていた。二人は、普段の様子からは想像もつかないくらいに緊迫した雰囲気の中にいた。今にもお互いに殴り合いそうな剣幕だ。紅華たちが入ってきたことにも気づいていないらしい。

「いいもなにも、すでに貴妃は決まってしまったんだ。いまさら帰ってくれとは言えないじゃないか!」

(私?)

 詳しくはわからないが、自分のことが話に出ていると気づいて、紅華は足をとめる。

「じゃあ、睡蓮はどうするんだ? もういらないとでもいうのか?」

(睡蓮? どういうこと?)

 ちらりと見ると、睡蓮が真っ青な顔をしていた。なにか心当たりがありそうだが、今は聞いている暇はなさそうだ。紅華は、睡蓮によりそって支えながら天明たちの様子を見守る。

「ずっと……ずっとあいつはお前の事だけを」

「天明!」

 めずらしく晴明が声を荒げる。

「僕だって、諦めてはいない!」

「じゃあなんでたった一人の妃に睡蓮を選ばなかったんだよ!」

「選んでいたさ! 皇帝になる前からずっと! 何度も朝議にかけていたじゃないか! だから、皇帝になるときに宰相と約束を」

 天明は、がしがしと頭をかいた。

「紅華を後宮にいれることを条件に、次は睡蓮も後宮に、というあれだろ? 慌ただしい時だったとはいえ、晴明らしくもない失態だな。……宰相がそんな口約束守ると思うか?」

 ぐ、と晴明が唇をかむ。天明はその様子を苦々しい顔で見つめた。

「よりにもよってお前本人が、さんざん口にしてきた後宮に妃は一人、を翻したんだ。これ幸いとばかりに、次はこっちの令嬢、今度はあっちの令嬢を、と、妃嬪が後宮に山ほど入ってくるぜ。たとえ妃になれたとしても、そんな場所で睡蓮が幸せになれるとでも思っているのかよ?!」

「す、好きだと打ち明けることもできなかったお前に言われたくない! お前だって睡蓮を愛しているんだろ! だからあの時、彼女を奪うようなことを言って僕を挑発したんじゃないのか?!」

「はあっ?! ……ああ、愛していたさ! でもそれは……!」

「睡蓮!」

 愕然とその言葉を聞いていた紅華は、ふらりと倒れていく睡蓮を目の端に捕らえて思わず叫んでいた。

 その声に、天明と晴明は、は、と我に返って振り返った。二人の目に、紅華に支えられた睡蓮が映る。

「紅華……様……」

 真っ青な顔をしていた睡蓮は、それでも倒れることなく紅華を見つめる。その目には、涙がいっぱいにたまっていた。

「睡蓮……」

「私……私は……」

 言うが早いか、身を翻して睡蓮は走り去る。

「待って!」

 ちらり、と振り返ると、男二人は固まったように呆然と立ち尽くしている。その二人を置いて、紅華は睡蓮を追いかけた。


  ☆


「睡蓮!」

 追いかけていくと睡蓮は、庭の池のほとりでたよりなく座り込んでいた。

「睡蓮、大丈夫?」

 駆け寄ると、涙で濡れた顔をゆるりとあげて紅華を見上げる。

「すみません……紅華様……私……」

「いいから。まずは、落ち着いて」

 紅華は、袖で睡蓮の頬をぬぐう。

「すみません……」

「謝ることなんて何もないわ。だからもう、泣かないで」

 細い体を抱きしめて、紅華は睡蓮の背中を何度もさすった。そうしてしばらくいると、ようやく睡蓮は落ち着いてきた。