人の気配を感じて、晴明はゆっくりと目をあけた。目の前には、心配そうな睡蓮の顔がある。その睡蓮は、晴明の意識が戻ったことに気づいて身を乗り出した。

「陛下、ご気分はいかがですか? 気持ち悪くはないですか? どこか、痺れているところは……」

「最高の気分だ」

「陛下?」

「目覚めて最初に見るものが、君の姿とは」

 か、と頬を染めた睡蓮は、しかしすぐに我に返る。

「……紅華様をお呼びしましょうか?」

 睡蓮の言葉に、晴明が眉をひそめる。

「何故?」

「紅華様もとても心配しておられました。ご夫婦なら当然ですわ。すぐ、お知らせしてきます」

「待って……っ」

 晴明が、ゆっくりと寝台に起き上る。あわてて体を支えようとした睡蓮の手をぐいとひいて、細い体をその胸に抱え込んだ。

「な……にを!」

「僕が愛しているのは、今でも君だけだ」

 広い胸の中で、くしゃり、と睡蓮の顔が歪んだ。

「……でも、晴明様には、貴妃様が」

「愛している、睡蓮」

 熱を含んだ声で囁かれて、睡蓮はきつく目を閉じた。

「僕が悪いんだ」

 晴明は、愛おしそうに睡蓮の長い黒髪をすく。睡蓮は身を硬くしたままだったが、その手を振り払おうとはしなかった。

「妃は一人と僕が言い張ったせいで、紅華殿が無理やり貴妃にされてしまった。まんまと、翰林の口車に乗せられてしまったんだ。あれほど、妃は睡蓮たった一人だと言い続けてきたのに……」

「それは、陛下の立場を考えたら当然のことです。宰相様が悪いわけでは」

「そうかもしれない。でも、何度も言うけれど、僕の妃は君だけだ。その想いは今でも変わらない」

「晴明様……」

 睡蓮の目からとめどなく涙があふれて、晴明の胸を濡らしていく。

「陛下には、陛下にふさわしい高貴なご身分の妃があまたにおられます。ですから」

「僕の気持ちは、迷惑?」

 睡蓮の言葉を最後まで聞かず、晴明が聞いた。睡蓮は、何も答えずにただただ嗚咽をもらす。その体を、晴明は強く抱きしめた。

「お願いだ。僕のことをあきらめないで。もう少しだけ、待っていてほしい。必ず、君を僕の妃にしてみせる」

「いいえ……いいえ。もう、私のことは、忘れてください」

「睡蓮」

「もう、いいのです」

 睡蓮は、ぐ、と晴明の胸を押して体を離す。

「紅華様は、素敵なお方です。私も大好きなお方。きっと、陛下の皇后を立派につとめてくださいますでしょう。これで、私も安心できます」

「睡蓮」

 晴明は、目をそらしてしまった睡蓮の手を握って離さない。腕に食い込む強い力は、そのまま晴明の激しい気持ちのあらわれだった。

「愛している」

「私は……」

「愛して、いる」

 うつむいていた睡蓮の細いおとがいに指をかけると、晴明は涙にくれるその顔を上向けた。

  ☆

「…………」

「…………」

 次の朝。顔を合わせた紅華と睡蓮は、何かあったと一目でわかるお互いの顔を見てしばし無言になった。

「お、おはようございます。紅華様」

「あ、うん。おはよう」

「お支度がお済みでしたら、朝餉をお持ちしますわね」

「……今日は、お茶だけでいいわ」

 元気のない紅華に睡蓮は何か言おうとしたが、結局何も言わずにお茶を入れ始めた。

「ねえ、睡蓮」

「はい、なんでしょう」

「お茶を飲んだら、庭を散策しない?」

 振り向いた睡蓮は、温かいお茶を紅華の前に置きながら、はい、と答えた。

  ☆

 庭には緩い風が吹いていて心地よかった。目的もなく歩いていた紅華は、いつの間にかいつかの牡丹の庭に来ていた。

(ここは、いつか天明様が連れてきてくれた庭ね)

 ただふらふらと歩いているつもりだったが、もしかしたら無意識のうちにこの場所を思い出していたのかもしれない。

「紅華様、もしや天明様と何かお話になりましたか?」

 振り向くと、心配そうな目で睡蓮が見ていた。