手元の茶碗を見つめたまま、隣に座った天明に紅華は言った。

「天明様は、たしか晴明様のお母上に育てられたって……」

「そう。母をなくした俺を、母の妹は晴明と一緒に育ててくれた。姉にとって妹は憎しみの対象でしかなかったが、妹の方は姉のことを慕っていたんだな。醜聞の末にいなかったことにされた俺を、姉の忘れ形見として手放すことができなかったんだ」

「手放す……というより、見殺しに、ですね」

 天明は、片方の眉をあげて少しだけ笑んだ。

「実家とも縁を切られて後ろ盾もないのに皇帝の血をひく子供など、厄介ごとの種になるだけだ。俺も、その時殺されているはずだった。だから、表に出ない、という約束で俺は生かされた」

 紅華は、手にした茶碗を握りしめる。

「それを知ったのは、十になる前だったかな。それまで俺は、晴明と双子なんだと思ってた。あいつが皇太子なんだから、俺は晴明の弟なんだろう、と。それくらい、皇后は俺を大切に育ててくれた。住んでいた宮から出てはいけない、と言われても、その理由を考えたこともなかった」

「宮……もしかして」

 紅華は、いつか天明の話してくれた牡丹の庭の離宮を思い出していた。

『その宮には、一人の男が閉じ込められている』

『その男は、決してその宮から出ることができない。一生』

 天明はいびつな笑みを浮かべて頷く。

「本当の俺は、あの時母と一緒に死んだ。今生きているのは、ま、おまけの人生、ってところか。せいぜい楽しんでなるようになれ、だ」

「それで、影武者を?」

「やらされているわけじゃない。幼いころから、晴明のふりをして女官をだますのが楽しかったんだよ」

 ことさらに明るく話す天明の言葉に、紅華の胸がしめつけられるように苦しくなる。

(この人は……)

 天明の享楽的な行動の理由を、紅華はようやく理解した。

 万が一のことがあれば天明は、晴明のためにためらいなく命を投げ出すつもりなのだ。未来に期待するものが何もない亡霊の天明の手の中にあるのは、『今』だけだ。

 震える声で、紅華は言った。

「でもそれは、天明様の身を危うくすることです」

「もともといない人間が本当にいなくなるだけの話だ。何の問題もない」

「問題ですっ……!」

 叫びながら顔をあげた紅華を見て、天明が目を瞬いた。

「そんな風に言わないでって言ったじゃないですか! 天明様は、ここに、いるのに! 影なんかじゃないです! 天明様は……生きてるんです……これから、も……」

 声を詰まらせた紅華とは対照的に、天明の声は穏やかだった。

「なぜ、お前が泣く」

「……天明様が、あんまり、悲しいことを言うから……」

 天明は少しためらうと、紅華の涙を、そ、と親指でぬぐって目を細めた。

「俺はいいんだ。晴明を守って、あいつがこの先もずっと生き続けていくこと。それが、何も持たない俺のたった一つの存在価値なんだから」

 先ほどよりも格段に優しくなった声音で、天明は語りかける。

「何もないなんて……!」

 言いかけるが、紅華は反論する言葉をみつけられない。それは、悲しいくらいに真実だ。わかっていても認めたくないもどかしさが、涙となってさらにあふれる。

(この人は……なんて、寂しくて、優しい人)

 本来なら存在しない自分。その自分を大切にしてくれた皇后と晴明だけが、今の天明にとってのすべてなのだ。それを考えれば、どれほど二人が天明を愛して育ててきたかを推し量れる。

 そしてきっと天明も、その二人を心から愛しているに違いない。だからこそ、晴明を守るために命すら惜しまない。
 
 どこが自分勝手なものか。紅華は、いつか自分が天明にぶつけた言葉を心底後悔した。

(私は……何も、知らなかったのに)

「俺のために、泣いてくれるのか」

 かすれたつぶやきに、紅華は袖で覆った顔をあげた。

「だって……!」

 直後、紅華の唇にやわらかいものが触れた。びくり、と紅華は体を震わせる。

 重ねた唇を離して天明が囁いた。

「忘れろ。俺が勝手にやったことだ。お前は何も悪くない」

「嫌です」

 紅華は、間近にある天明の目を濡れた強い瞳で見つめて言った。

「紅華?」

「忘れません。……決して」

 凛としたその声に、天明は泣きそうな顔ではんなりと笑った。

「そうか」


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