「皇太后……いや、今は前皇太后か。その人が、牡丹が好きだったんだ」
天明がどんな表情をしているのかは見えないが、その口調はすっかりもとの飄々としたものに戻っていた。
多少は気に障るかもしれないと覚悟しての言葉だったが、天明の怒気は予想以上だった。
天明に告げた言葉に嘘はない。天明がやけに自分自身を軽んじていることが、紅華には腹立たしかった。なぜそんなに腹立たしいのか、紅華本人にもわからなかったが。
けれど、天明がそれ以上を口にしないのなら、紅華ももう触れない方がいいだろう。謝る機会をなくしてしまった紅華は、天明のふった話題を続ける。
「前皇太后と言われますと……天明様の祖母にあたられる方ですか?」
「そう。祖父だった皇帝に『まるで牡丹のように美しい』と言われたことが嬉しかったらしくてな。それで様々な牡丹を植えるうちに、こんなにたくさんになったらしい」
「美しい人だったと聞きました」
紅華の言葉に天明は、振り向いて少し首をかしげた。合わせた視線を、紅華はそらさなかった。
「あまり会ったことはないけれど、綺麗というか、覚えている限りは豪快な女性だったな」
「今はどちらに?」
「ずいぶん前に亡くなったよ。今は父上と同じあの墓所に眠っている」
「あの……晴明陛下や天明様のお母様方はどちらに?」
後宮の妃たちは、時の皇帝の逝去と共にこの後宮を去る決まりだ。身分の低い寵姫なら尼寺へ追いやられるのが常だが、皇子を産んだ身であれば、いずれかの宮に暮らしていることだろう。
天明は、少し間をおいて答えた。
「俺の母は俺を産んですぐに亡くなった。晴明の母は、この離宮の宮の一つに暮らしている」
「すみません」
とたんに恐縮した紅華に、天明は笑う。
「俺は母の記憶なんてないから気にしなくてもいい。母が死んでから俺を育ててくれたのは、晴明の母親だった」
「皇太后様が?」
「ああ」
天明は、遠い目をして言った。
「今はまだ喪中でお互い行き来するわけにはいかないけれど、喪が明けたら訪ってやるといい。きっと、喜ぶ。そういう人だ」
皇太后のことを語る天明の顔は優しかった。先ほどの怒気など欠片も残っていない。
(この方にはまだまだわからないことがたくさんある。いつか、それを知ることができるのかしら)
紅華は、ぼんやりと天明を見上げる。
「どうした?」
自分を見上げる紅華に気づいて、天明は不思議そうな顔をする。
「いえ」
あわてて視線をそらした紅華の目に、遠慮がちに声をかけてくる女官が見えた。
「あの、お話中失礼いたします。皇帝陛下」
「どうしたんだい?」
やんわりと振り向いた顔は完璧に晴明だ。
(切りかえの早いこと)
半分あきれて半分感心して、紅華はその横顔を見ている。
「あちらのあずまやに、お茶を用意いたしました。どうぞ、貴妃様と共にお休みください」
「気が利くね。ちょうど喉が渇いてきたところだよ。ありがとう」
女官は天明に微笑みかけられると、顔を真っ赤にして、いえ、とかとんでもございませんとか言いながら下がっていった。
「晴明ではないと、試しに言ってみるかい?」
天明が、面白がる口調で紅華を煽る。
「もっっっのすごく言ってみたい気持ちはありますが、それがまずいことくらい私にもわかります」
「バレてもいいのに」
「そういうわけにはいきません」
「どうして?」
「そんなことしたら天明様、ただではすみませんよ? 晴明陛下のふりをしているなら、言動には十分気をつけてくださいませ。そうでないと、いくら私が黙っていても、いつか誰かが気づくかもしれないじゃないですか」
「俺を、守ってくれるのか」
言い方はアレだが、言われてみればそういうことだろう。
「そうですね。大変不本意ですが」
渋い顔つきになった紅華に、天明はくつくつと笑った。
「本当に、紅華はかわいいな」
「はあ?」
おもいがけない言葉に、紅華はつい声をあげた。
天明がどんな表情をしているのかは見えないが、その口調はすっかりもとの飄々としたものに戻っていた。
多少は気に障るかもしれないと覚悟しての言葉だったが、天明の怒気は予想以上だった。
天明に告げた言葉に嘘はない。天明がやけに自分自身を軽んじていることが、紅華には腹立たしかった。なぜそんなに腹立たしいのか、紅華本人にもわからなかったが。
けれど、天明がそれ以上を口にしないのなら、紅華ももう触れない方がいいだろう。謝る機会をなくしてしまった紅華は、天明のふった話題を続ける。
「前皇太后と言われますと……天明様の祖母にあたられる方ですか?」
「そう。祖父だった皇帝に『まるで牡丹のように美しい』と言われたことが嬉しかったらしくてな。それで様々な牡丹を植えるうちに、こんなにたくさんになったらしい」
「美しい人だったと聞きました」
紅華の言葉に天明は、振り向いて少し首をかしげた。合わせた視線を、紅華はそらさなかった。
「あまり会ったことはないけれど、綺麗というか、覚えている限りは豪快な女性だったな」
「今はどちらに?」
「ずいぶん前に亡くなったよ。今は父上と同じあの墓所に眠っている」
「あの……晴明陛下や天明様のお母様方はどちらに?」
後宮の妃たちは、時の皇帝の逝去と共にこの後宮を去る決まりだ。身分の低い寵姫なら尼寺へ追いやられるのが常だが、皇子を産んだ身であれば、いずれかの宮に暮らしていることだろう。
天明は、少し間をおいて答えた。
「俺の母は俺を産んですぐに亡くなった。晴明の母は、この離宮の宮の一つに暮らしている」
「すみません」
とたんに恐縮した紅華に、天明は笑う。
「俺は母の記憶なんてないから気にしなくてもいい。母が死んでから俺を育ててくれたのは、晴明の母親だった」
「皇太后様が?」
「ああ」
天明は、遠い目をして言った。
「今はまだ喪中でお互い行き来するわけにはいかないけれど、喪が明けたら訪ってやるといい。きっと、喜ぶ。そういう人だ」
皇太后のことを語る天明の顔は優しかった。先ほどの怒気など欠片も残っていない。
(この方にはまだまだわからないことがたくさんある。いつか、それを知ることができるのかしら)
紅華は、ぼんやりと天明を見上げる。
「どうした?」
自分を見上げる紅華に気づいて、天明は不思議そうな顔をする。
「いえ」
あわてて視線をそらした紅華の目に、遠慮がちに声をかけてくる女官が見えた。
「あの、お話中失礼いたします。皇帝陛下」
「どうしたんだい?」
やんわりと振り向いた顔は完璧に晴明だ。
(切りかえの早いこと)
半分あきれて半分感心して、紅華はその横顔を見ている。
「あちらのあずまやに、お茶を用意いたしました。どうぞ、貴妃様と共にお休みください」
「気が利くね。ちょうど喉が渇いてきたところだよ。ありがとう」
女官は天明に微笑みかけられると、顔を真っ赤にして、いえ、とかとんでもございませんとか言いながら下がっていった。
「晴明ではないと、試しに言ってみるかい?」
天明が、面白がる口調で紅華を煽る。
「もっっっのすごく言ってみたい気持ちはありますが、それがまずいことくらい私にもわかります」
「バレてもいいのに」
「そういうわけにはいきません」
「どうして?」
「そんなことしたら天明様、ただではすみませんよ? 晴明陛下のふりをしているなら、言動には十分気をつけてくださいませ。そうでないと、いくら私が黙っていても、いつか誰かが気づくかもしれないじゃないですか」
「俺を、守ってくれるのか」
言い方はアレだが、言われてみればそういうことだろう。
「そうですね。大変不本意ですが」
渋い顔つきになった紅華に、天明はくつくつと笑った。
「本当に、紅華はかわいいな」
「はあ?」
おもいがけない言葉に、紅華はつい声をあげた。