貴妃未満ですが、一途な皇帝陛下に愛されちゃってます

「紅華殿」

「は、はい」

「父上が亡くなって、これから後三カ月の間、私は喪中に入る。だから私たちの結婚式は、喪が明けてから執り行うことになった」

「はい」

 それは予想していたことなので、紅華は驚かなかった。

「それまで君は、正式な貴妃ではないにしろ妃嬪に準じる立場になる。ここで好きに過ごしてくれて構わないよ。何か不自由があれば、睡蓮に言ってくれ。彼女は、前皇帝の代から女官長を務めている信頼できる女性だ。頼りになる」

「わかりました」

「それから、今日はこれを」

 そう言いながら、晴明は懐から小さな箱を取り出して紅華に渡してくれる。紅華の手の平には少しあまる細長い箱だ。紅華は、晴明を見上げた。

「これは?」

「開けてみて」

 紅華は、その箱を開けてみる。と、中には細かい細工の施された美しい翡翠のかんざしが入っていた。紅華の住まう翡翠宮にかけて選んだのかもしれない。

「まあ」

「先日、菫を持ってきたら天明に笑われてしまったからね。何か貴妃に相応しいものを、と選んできたんだ。喜んでもらえるかな?」

 商家の娘である紅華には、それがどれほど高価なものなのか一目でわかった。見当のついたその値段に言葉を失う。それと同時に、そのかんざしに欄悠の顔が重なって見えて、紅華は複雑な気分になった。

「こんな高価なもの……いただいてよいのでしょうか?」

「もしかして、迷惑だったかな」

 しょんぼりしてしまった晴明を見て、紅華はあわてて首を振る。

「いえ、あの、ありがとうございます。これほどに綺麗な琅玕、初めて見ました。とても嬉しいです」

 その言葉に安堵した晴明は、顔をほころばせた。

「お世辞でも、そう言ってもらうと嬉しいね。紅華殿も知っての通り、私には今まで妃がいなかった。だから紅華殿とどうやって距離を縮めていったらいいのかわからなくて……こんなもので気をひこうとしている私を、笑わないでほしい」

「晴明様……」

 照れたように笑う表情は、とても演技とは思えない。だが、いまだ晴明を信じ切れない紅華は、ぎこちなく笑う。

「わたくしも、晴明様のお慰めとなれるように精進したいと思います」

「ありがとう。それはそうと、まだ言葉遣いが堅苦しいね。もっと気楽に話してくれていいんだよ」

「でも……」

「ね、紅華殿」 

 晴明が、身を乗り出して紅華を見つめる。

「私たちは政略結婚でもあるし、会ったばかりの君を愛しているとはまだ言えない。けれど、これから時間をかけてお互いに歩み寄って、できればお互いが一緒にいて安らぎを感じられるような関係を築いていきたいと思っている。もちろん、君がそういう関係を嫌でなければ、という前提だけれど。そんな皇帝は、嫌かな?」

「とんでもありません! 私もその方が嬉しいです」 

 紅華が言うと、晴明も嬉しそうに笑った。

「よかった。頼りない夫と思われたらどうしようかと思っていたんだ。どうかよろしくね」

 晴明の不器用ながらも真摯な態度は、紅華の不信な心を少しづつ、だが確実に溶かしていった。

(信じても……いいのかも、しれない)

「こちらこそ、お願いいたします」

 紅華は、ようやく心からの笑みを浮かべることができた。

  お互いの近況など他愛もない話をしたあと、晴明は腰を上げた。

「今日は、紅華殿のことをいろいろ聞けて楽しかった。そろそろ時間なので、失礼するよ」

 紅華も、晴明を見送るために立ち上がる。

「朝議ですか?」

「ああ。朝議のあとは、父上の墓前参りだ」

 新皇帝の陵墓参りは、一週間の間続く。それが終わると魂上げの儀式があって、ようやく民衆も墓前参りができるようになるのだ。

「あの……私も同行してよろしいでしょうか?」

「紅華殿が?」

「はい。前皇帝陛下の葬儀は密葬だったので、正式な妃でない私は参列できませんでした。ですが、本当なら夫となるはずだった方です。なにより、晴明陛下のお父上であられますので、墓前ですがきちんとご挨拶をしたいのです」

 紅華の言葉を、晴明はなぜが驚いたように聞いていた。わずかな沈黙の後、晴明が嬉しそうに微笑む。

「ありがとう。ただ、まだ私と一緒に正式な墓前参りをするわけにはいかないから、天明に頼んでおく。あとでこちらに寄こすから、一緒に行ってくるといい」

「天明様、ですか?」

 先日の天明とのやり取りを思い出して、紅華はげんなりとする。そんな紅華の様子には気づかずに、晴明は力強く頷いた。

「彼なら、安心して紅華殿を任せられる」

「え……そうなのですか?」

「ああ。私が誰よりも信頼している男だからね」

 紅華は目を丸くする。

 晴明がそこまで言うなら、よほど二人の間には強い結びつきがあるのだろう。しかし、紅華の中では天明の評価は高くない。というより、かなり低い。ゆえに、あまりに晴明が彼に信頼をおいていることが心配にもなってしまう。

(晴明陛下、騙されてない?)

 けれど、にこにこと笑顔で言う晴明に、そんなつっこみはできない。

「わかりました。よろしくお願いいたします」

「ふふ。紅華殿は、やっぱり天明の言った通り、良い人だね」

「……おそれながら、一体どのようなことをお聞き及びなのでしょうか」

「たいしたことじゃないし、心配しなくても悪口でもないよ」

「はあ……」

 では、と言い置いて、晴明は戻っていった。

(何を話したのかしら、あの男)

 どうやら悪いことではないらしいが、あんな醜態を見せてしまったあとでとても褒め言葉が出たとは思えない。

(悪口言われたならわかるけど)

 もんもんとする紅華は、入れ替わりに戻ってきた睡蓮が、お茶を片付けている様子を、じ、と見つめていた。

 後宮に来て三日。その間、睡蓮はかいがいしく紅華の世話をしてくれた。細やかに気遣ってくれるその様は、ただ女官長としての責務を果たしているだけとは見えない。おそらく誠実な性格なのだろうということは、紅華にもよくわかる。

 その睡蓮が、なぜ、晴明にだけそっけない態度をとるのだろう。思い返してみれば、宰相の部屋で初めて二人に会った時もその様子に違和感を感じていた。

 もしも睡蓮が晴明のことを嫌っているのなら、やはり晴明にはなにかしらの問題があるのではないだろうか。

 それが気になっていて、晴明を信じ切れないのも確かだ。

 紅華は、思い切って聞いてみることにした。

「ねえ、睡蓮。晴明様って、お優しい方ね」

「はい、とてもお優しい方ですよ」

 振り向いた睡蓮は、笑顔で答えた。

「それに、周りの状況や人の動きをよく見ている方です。穏やかなその様子に、官吏の中には覇気が足りないなどと言う者もおりますけれど、決して優柔不断などではなく、いざという時には行動力も決断力もあり、皇帝としての資質を強くお持ちのお方だと思います」

「そ、そうなの?」

 よどみのなく答える睡蓮の言葉に、紅華は少し驚く。睡蓮がそこまで晴明をほめちぎるとは思っていなかったのだ。

「睡蓮は、晴明様のことを、その、お嫌いではないの?」

「いえ? 何故ですか?」

 睡蓮は、意外なことを言われたように紅華を見る。

「だって、晴明様に対しては笑顔を見せないし、なんとなく態度が硬いような気がして……だから、もしかしたらあまり晴明様のことをよく思っていないのでは、と」

「そんなことは……ありません」

 紅華の言葉に、視線をさまよわせながら睡蓮が答えた。

「そうなの? では、睡蓮から見て、晴明陛下って素敵な方かしら?」

 核心部分を聞いた紅華に、睡蓮は、ふ、と遠い目になる。だがそれも一瞬。にこりと笑顔になった。

「はい。もちろんです」

「そうなのね。よかった」

 紅華が見ていた晴明の姿は、どうやら嘘ではない本当の姿らしい。

「でも今日は、少しお顔の色が悪いようだったわね」

 先ほどの様子を思い出して紅華が言うと、睡蓮も美しく柳眉をひそめた。

「ええ、お疲れのご様子でしたわ。新皇帝として今はとてもお忙しい時期ですから」

「ちゃんとお部屋に戻られているのかしら。さきほどのお茶、確か疲れを癒すお茶よね」

 なぜか睡蓮は、ほんのりと頬を染めた。

「ご存じでしたか」

「私の実家、何でも扱っていたから茶葉にもわりと詳しいの。陛下がとてもおいしそうに飲まれていたし、きっとお気にいられたのに違いないわ。ぜひ、陛下のお部屋にも届けておいてさしあげて」

「かしこまりました。きっと、陛下もお喜びになります」

 ほころぶように、睡蓮が微笑む。

(嫌いな人にはそんな風に気遣わないものね。やっぱり気のせいだったんだわ)

 紅華が安堵した時、また扉を叩く音が聞こえた。

「はい。……あら」

 睡蓮が扉をあけると、そこにいたのは天明だった。

「またあなたですか。だめですよ、後宮内をあまりうろつかれては」

「いきなりご挨拶だな」

「睡蓮、私が頼んだのよ」

 呆れたように言った睡蓮に、あわてて紅華が声をかける。けげんな顔になった睡蓮に、紅華は先ほど晴明に墓前参りを頼んだことを話した。天明は、得意げに胸を張る。

「そういうこと」

「よろしいのですか、天明様?」

 睡蓮が心配そうに天明をみあげた。

「晴明に頼まれたし、なんとかなるだろう」

 紅華は、部屋に入ってきた天明の前に立つと、深々と頭を下げた。

「この度は誠にお悔やみ申し上げます」

 天明にしても、父親を亡くしたのは晴明と同じだ。先日の一件でいろいろ気になるところはあるが、まだ天明にそう言っていなかったことが、実は紅華は気になっていた。

 その姿に、少しだけ天明は瞬くと、柔らかい笑みを浮かべた。

「ああ。ありがとう」

 また難癖でもつけてくるかと身構えていた紅華は、天明から返ってきた素直な言葉と表情に拍子抜けする。

(あ、晴明様にそっくり)

 穏やかに笑みを浮かべた天明は、確かに驚くほど晴明に似ていた。

(ということは、天明様も顔はいいのよね。性格は難アリみたいだけど)

 本当は、先日の天明の言葉についても聞きたかった。けれど、睡蓮のいる場所ではなんとなく聞き辛い。

「急にお呼びたてしてしまいまして、申し訳ありませんでした」

「かまわないさ。気遣いは無用だ」

 今日の天明の様子は、先日の無礼さが嘘のように貴族然とした態度だ。それならそれで、紅華も普通の皇族と同じように対応することができる。

(やっぱり第二皇子なだけあるわよね)

 紅華が感心していると、天明はにやりと笑った。

「こんなに素敵なお嬢さんのお相手なら、何を置いても最優先で遂行するよ」

(前言撤回)

「それに……俺も、ちゃんと父上に挨拶はしておきたいし」 

 睡蓮は納得したようにうなずいたが、紅華は首をかしげる。

 天明は、紅華と違って密葬にも参列しているはずだ。その時にきちんとお別れをしたはずではないだろうか。

 その疑問が顔に出ていたのだろう。天明が苦笑しながら言った。

「ああいう堅苦しい儀式が苦手でね。すっぽかした」

「え?! なんてことするんですか!! 皇帝陛下の葬儀ですよ?!」

 紅華すらも、正式な妃ではないからと出席の許されなかった式だ。それを苦手だからといってすっぽかすとは。

「だよな。俺もそう思う。だからやっぱり、真面目に挨拶をしてこようと思ってね」

「当然です。ご一緒に行って、亡き陛下に心から謝ってください」

「厳しいなあ」

「天明様がおかしいんです!」

 ぷりぷり怒りながらも、紅華は仕度を着替えるために隣の部屋に入った。用意を終えて戻ってきた紅華は、思わず言葉を失った。

(え…なに、ソレ)

 待っていた天明は頭全体を覆う覆面を被っている。顔が見えなくなるので、紅華の実家にあやしげなものを買いに来る貴族がよくかぶっていたものだ。

 またぞろ文句を言おうとして、ふと気が付いた。

(あ、そっか。私がまだ正式な貴妃じゃないから、お忍び扱いってことなのね)

 ましてや天明は第二皇子だ。夫の晴明を差し置いて別の皇子と出かけるのは、あまり外聞がよくないのだろう。

 そう考えると、いらぬ支度をさせた天明に少しばかり申し訳ない気になって、紅華は頭を下げた。

「お待たせいたしました。よろしくお願いいたします」

「じゃ、行こうか」

 そうして連れ立って、紅華たちは陵、つまり皇帝の墓へと出かけた。

  ☆

 宮城からしばらく馬車に乗ると、小高い丘が見えてきた。

「あれですか」

「ああ。代々の皇帝が眠る陵だ」

 それは、少し高い丘の上にあった。綺麗に整備された階段は、見上げるほどにながい。輿に乗っていくという手段もあったが、紅華は自分の足で歩くことを選んだ。

 入り口を守る近衛に身分を告げて、紅華たちは汗をぬぐいながらそこを登り始める。

「おっと。大丈夫か?」

 足元のふらついた睡蓮を、天明が支えた。そのまま支え続けようとすると、睡蓮がその手を押し返して首を振る。

「私は大丈夫です。それより、紅華様をよろしくお願いいたします」

 天明は紅華を振り返る。

「紅華殿は大丈夫か?」

「足には自信があります。商人にとって俊敏さは大事な要素ですから」

「だってさ、女官長。貴妃に負けていたら立場がないぞ。がんばれよ」

「天明様は平気そうですね」

 覆面をしているのに、息を乱している様子もない。紅華たちと違って男であるということを差し引いても、かなりの体力があるようだ。

「これくらいで息があがるほどやわじゃないさ」

 紅華の考えを裏付けるように、天明が言った。

「天明様はともかく、先ほどの陛下の顔色はあまりよくありませんでした。ちゃんと、お食事を召し上がっておられるようですか?」

 そう聞いたのは睡蓮だ。その顔を見れば、彼女が心から晴明を心配しているのがわかる。

「多少は仕方ないだろう。父上はまだ亡くなる気はなかったみたいで、後継に関してなんの用意もしてなかったし。晴明も、まさかこんなに早く皇帝になるとは思ってもいなかったからね」

「天明様なら適当に手を抜くことも得意でしょうけれど、陛下はとてもまじめな方ですからきっと限界まで頑張ってしまわれます。どうか、目を光らせていてくださいましね」

 真面目な睡蓮の言葉に、天明は肩をすくめた。

「わかってるよ。ほら、無駄話をしていると、いつまでたっても辿り着かないぞ」

 苦労して長い階段を上りきると、色とりどりの花があふれあたりには香の良い香りが漂っている。

 紅華は、疲れも忘れて感嘆のため息をもらした。

「美しいところなのですね。彼岸とは、こういうところなのでしょうか」

「そうだな。良い場所だ」

 呼吸と身だしなみを整えた紅華は、持ってきた供え物を祭壇に置くと、静かに目を閉じた。

(まみえることはありませんでしたが、あなたの妃になる予定でした)

 他にどう話しかけていいのかわからない。一度も顔を見ることなくいなくなってしまった皇帝は、紅華にとっては遠い存在でしかなかった。

 けれど、確かにこの国を支え導いてくれた存在だ。知らず、身の引き締まる気がす
る。

 神妙な顔で祈りをささげた後、ふと視線を巡らせると、わずかにうつむく天明と顔を伏せて涙を流す睡蓮が目にはいる。嗚咽を堪えてはらはらと涙を流すその姿は、色気すら感じるほど美しかった。

 天明の様子はわからないが、一般的な葬送では睡蓮のように人前でも涙を流し、場合によっては大声をあげて号泣することもままある。

(天明様だって、お父様がなくなったんだから泣いてもおかしくはないのに)

 そう思った紅華は、もう一つの可能性を思いついた。

 もしかして、天明が今日覆面をしてきたのは、泣き顔を見られたくないのだろうか。

 だとしたら。

(案外かわいいところがあるじゃない) 

 無礼なだけかと思った天明だが、そんな一面もあるのかと紅華は少しだけ天明に対する印象を改めた。

 しばらくめいめいで祈りをささげたあと、紅華たちは墓前を後にした。

「睡蓮」

「はい」

 陵を降りながら、紅華は遠慮がちに声をかけた。

「前の皇帝は、どんな方だったのかしら」

「龍可陛下……ですか?」

「ええ。私は一度も会えなかったし。睡蓮なら、きっとお近くにいることも多かったでしょう」

 睡蓮は、天明と一度視線を交わすと、考えながら話しはじめた。

「そうですね。思いやりの深い方だったと思います」

「そうなの?」

 皇帝に対しては怖いという想像しかもっていなかった紅華は、意外な気がした。

「はい。近寄りがたい雰囲気をお持ちでしたし確かに厳しいお方でしたが、その実、とても細やかな気配りをなさる方でした」

「そういうところは、晴明とよく似ているな」

 隣を歩いていた天明が口をはさんだ。睡蓮はうなずく。

「そうですね。晴明陛下は、龍可陛下ほど畏怖を与えられる方ではありませんが……」

 言いかけて、睡蓮は、は、としたように口を閉じた。天明は、睡蓮が言いかけてやめた言葉を続ける。

「だから、晴明が皇帝になることに反対する一派もいるんだよな」

「そうなんですか?」

 紅華は天明を見上げた。
「皇位の跡目争いなんて、ない方がめずらしいくらいだ。現に今だって」

「天明様」

 ふいに、睡蓮が言葉を遮った。

「あまり紅華様を脅かすのはやめてください」

「俺は、紅華殿のためを思って言ってるんだ。怖かったら、いますぐ実家に帰ってもいいんだぜ? なんなら俺が送ってってやる」

 挑発的に天明が言った。紅華の耳に、以前の天明の言葉がよみがえる。


『一刻も早く後宮を去れ』


「天明様は、私が貴妃になることに反対ですの?」

「正直言えば、是、だな」

 適当にごまかされるかと紅華は思ったが、天明はあっけらかんと答えた。

 紅華自身、自分が誰よりも貴妃に相応しい淑女などとは思っていない。だが、ほとんど自分のことを知らない天明にここまではっきりと言われる理由もわからない。

(こないだ取っ組み合いしかけたこと、まだ根に持ってしるのかしら。それとも)

「それは、私が貴族ではないからですか?」

 せいぜいがところそんなところしか思い当たらない。

 自分へと顔を向けた天明を、紅華は、じ、と見上げる。覆面の中に見える瞳は、存外澄んで美しかった。

 わずかな沈黙のあと、天明は苦笑交じりにいった。

「そうだな。身分のない妃ほどあわれなものはない。あんたのためだ」

「天明様」

 睡蓮のきつい声が飛ぶ。

「紅華様、天明様の言うことなど気にしないでください」

「え、ええ」

「紅華様なら、きっと陛下を支えられる素晴らしい貴妃となられます。どうか、陛下をお願いいたしますね」

 真剣な、それでいてどこか憂いを含んだ表情で睡蓮が言った。

「これから先、この国を背負っていく陛下には、紅華様のようなお優しくて強さも兼ね備えた妃の支えが必要なのです」

「え、そんな」

 なにかすごく褒められたような気がする。天明が、わざとらしく大きなため息をついた。

「やれやれ。父上を亡くしたばかりで傷心なのは、俺も同じだ。俺にも、紅華殿のような美妃の慰めが必要だとは思わないのか」

「だったら、素直に泣いたらどうですか? 袖の先くらい貸して差し上げますわよ」

「大の男が小娘みたいにわんわん泣けるかよ」

「だからといってそうやって陽気に振る舞われてお心を隠すのは、天明様の悪い癖ですね。ほんっとに素直じゃないんだから」

 足もとを注意しながら降りていた紅華は、天明の足がとまったことに気づいて振り返る。たたずんだまま、覆面の下から天明が、じ、とこちらを見ていた。

(う。怒ってる? 言いすぎたかしら)

 ぽんぽんと失礼なことを口にする天明だったから、紅華もつい口が過ぎてしまったらしい。

 謝ろうかどうしようかと迷いながら天明を見ていると、ふと、その視線が紅華の後ろに向いた。紅華がその視線を追うと、数人の官吏が階段を上がってくるところだった。先頭にいるのは、晴明だ。紅華に気づいて、ふわりと笑う。

「紅華殿、来てくれたんだね。ありがとう」

「はい。今、墓前にご挨拶をしてきたところです」

 紅華たちは端によけて晴明たちに道を譲り、膝をついて頭をさげた。

「私もこれから行ってくる。気をつけてお帰りね、紅華殿」

「陛下もどうか、お疲れのでませんように」

「ありがとう」

 そうして晴明は、階段をあがっていった。後からついていく官吏たちは、全くこちらを気にしない者、ちらちらと紅華を伺う者、様々だ。肩で息をする官吏も多い中で、晴明は先ほどの天明のように息も乱さずに階段をのぼっていく。

(この階段を毎日……ああ見えて晴明様って、意外に体力あるのね)

「では気をつけてまいりましょうか、お嬢様方」

 晴明の言葉をまねたのか、ばか丁寧に天明が言って立ち上がった。少し前のきまずい空気は、そこにはもうなかった。

 紅華はただ、はい、と答えて立ち上がった。

  ☆
 広間には、多くの官吏が詰めていた。今日は、皇帝の御霊上げの儀式だ。

 皇帝が身罷ってから一週間。これでようやく、亡くなった前皇帝、黎龍可は天に上る。

 御霊上げ自体は晴明のみで行う儀式だが、その後にある新皇帝の宣言は公の式のため、紅華も妃の一人として皇帝の近くに席を用意されていた。

 晴明の姿を待つ間、紅華は集まった人々を見るともなく眺める。

(あそこにいらっしゃるのが、陛下のご兄弟の方々ね)

 官吏とは反対の位置に、白い喪服姿が何人か見える。おそらく前皇帝の妃や息子たちだろう。向こうからもちらちらとこちらを見ている視線を感じた。

 さりげなくそちらを観察していた紅華は、あることに気づいてきりりと眉をあげる。

(天明様がいない?!)

 少し距離があってはっきりとは見えないし、あまり凝視することもできない。けれど紅華は、その中に天明の姿を見つけることができなかった。

(また抜け出したのかしら。もうっ。苦手だからでなくていいというものでもないでしょうに)

 貴妃未満の自分が言うのもなんだが、天明も第二皇子としての自覚が足りないのではないだろうか。

 あとで説教してやろうと悶々と考えているうちに、大きな扉が開いて晴明が出てきた。その姿を見て、紅華は目を見開く。

 身内の人々と同じく白い喪服に身を包み、表情を引き締めた晴明は普段の優しい態度からはかけ離れた凛々しさをまとっていた。

 開いた扉から堂々とした態度で入ってきた晴明は、人々の前を横切って皇帝の席までの数段を上がると、渋い顔をしている紅華を見て微かに目を瞠った。それから、紅華にだけ見えるように、人差し指を小さく口元にあてていたずらっぽく笑う。紅華は、扇で顔をおおってその要求を了承したことを現した。

 それを確認すると、晴明は広間に振り向いて声を張る。

「たった今、父上は天へとお上りになった。皆の者も、御苦労であった」

 それを聞いて、官吏たちも神妙な顔つきになる。うなだれるものも多かった。その様子をゆっくりと見渡してから、晴明は重々しく続けた。

「しばらくは、我々もこの悲しみから逃れることはできないだろう。だが、その悲しみの中でも、我々は顔をあげ、この国を守っていかなくてはならない」

 は、としたように、それぞれの官吏たちが晴明を見上げる。その視線を受け止めて、晴明はうなずいた。

「いまこそ我々は一つとなり、陽可国のためにつくそう。それこそが、父のため、そして国民のためとなる。新しく皇帝となった私に、どうか力を貸してほしい。そして、共にこの国を導いていこう」

 朗々とした声に、官吏たちはほとんど無意識のうちに首を垂れた。それを見て、宰相も満足そうにうなずいている。

 その姿には、皇帝として人を強くひきつける魅力が確かにあった。

(すごい……)

 その姿からあふれ出る圧倒的な力に、無意識のうちに紅華は扇を握りしめながら視線をそらしてしまった。

 だから、気づいた。

 うなだれる官吏たちの中に、一人だけなぜかちらちらと視線を天井に向けている者がいることに。

(?)

 つられて紅華も頭上を見上げる。紅華たちのいる玉座の上には、手の込んだ細工の施された大きな天蓋が飾られていた。

 それが、なぜかゆらゆらと揺れている。

(どこからか風が……)

 考えて、紅華はどこの窓も開いていないことに気づいた。

「陛下!」

 素早く椅子から立ち上がった紅華は、上を気にしながら晴明に手を伸ばす。気づいた晴明も紅華の視線を追って天井を見上げた。

 その瞬間、二人の視線の先でその天蓋ががくりと傾いて落下を始めた。とっさに晴明は自分を押し飛ばそうとした紅華の手を引いて胸に抱え込むと、横に飛びすさって倒れ込む。間一髪、二人のいた場所に、天蓋が落ちて派手な音を立てた。きらびやかな破片が、あちこちに飛び散る。

「っ!」

「陛下!?」

「陛下!!」

 場が騒然とした。

「ご無事ですか?!」

 そばに控えていた衛兵や宰相が晴明をとりかこむ。晴明は、両手を床について少し体を起こすと、自分の真下にいた紅華に声をかけた。

「大丈夫だ。紅華殿は?」

「私も、大丈夫です」

(近い……!)

 体が密着した状態になった紅華は、すぐ目の前にある晴明の顔に、そんな場合ではないとわかっていても鼓動が跳ねる。全身に感じる体の重みは、苦しく思うほどではないが意外にずっしりとしていた。

「よかった」

 そう言ってするりと起き上ると、晴明は手をひいて紅華を起こす。その仕草に、ふと紅華は晴明を見上げた。

 晴明は厳しい顔であたりに集まった官吏たちを見回した。

「さわぐな。官吏たちは下がらせて、すぐにここを片付けろ」

「陛下はこちらへ」

 宰相が、指示を別の官吏にまかせて、いそいで晴明と紅華を裏の扉へと誘導する。

 広間を出る時に振り返った紅華は、あれほど綺麗だった天蓋がばらばらになっているのを目にした。幸い気づいてよけることができたが、直撃されていたらただの怪我ではすまなかったかもしれない。今さらながらに背筋が冷たくなる。

「陛下、紅華様」

 別室で控えていた睡蓮が、青い顔で走り寄ってきた。心配する睡蓮を連れて、四人は近くの一室に入る。

「陛下、お怪我は」

 部屋に入ると、心配そうに宰相が聞いた。

「心配するな、翰林。俺だ」

 晴明のふりをやめた天明が、大きく息を吐きながら長椅子に座る。それを聞いた宰相は、すばやく紅華と睡蓮に視線を飛ばす。睡蓮が無言でうなずくと、宰相は急に態度を変えて天明に向いた。

「お前か。今日は、晴明陛下ご本人のはずではなかったか?」

「あれだけ大勢の前に出るのは危険だろう。最近、頻繁だったからな」

「だったら、せめて私には変更のあったことを知らせておけ」

「まだ、俺たちの見分けがつかないのか」

「ついたら大変だろう。だいたい、前陛下でさえできなかったんだ。見分けのつくものなど、いるものか」

「……そうだな」

 天明は、ちらり、と紅華を見た。それに気づかずに、宰相は部屋を出ようとする。

「すぐ、典医を呼ぶからおとなしくしてろ」

「必要ない」

 宰相は、足をとめて振り向いた。

「だが」

「けがもないし、少し休めば大丈夫だ」

「……本当にいいのか?」

「ああ」

「では、ここで少し休むがいい。私は陛下のところに行ってくる。蔡貴妃様」

 宰相は、紅華に向き直る。

「お騒がせをいたしました。落ち着いたようでしたら、よろしければお部屋まで送らせましょう」

 紅華は天明の様子をうかがう。すました顔をしているが、その額には脂汗が浮かんでいた。

「わたくしも、もう少し休んでから戻ります」

「かしこまりました。睡蓮、蔡貴妃を頼んだぞ」

「はい」

 そう言うと、宰相はもう一度天明の様子を一瞥してから部屋から出て行った。
「紅華様は、どこか痛むところはありませんか?」

 紅華の身を案じる睡蓮が聞いた。

「私は大丈夫。けれど、天明様が」

「別に? 俺も、平気だ」

 平然と天明は答えた。

(嘘ばっかり)

 紅華は天明にとことこと近づくと、背もたれに体を預けたままのその左肩をぽんと叩いた。

「うげっ!」

 ふいうちを食らった天明が、飛び上がりながら叫んだ。

「落ちた天蓋にあたっていたのですね」

「ててて……気づいたのか」

「起こしていただいた時に、左側をかばわれたので、もしや、と」

「天明様、失礼します」

「な……睡蓮! やめろ!」

 睡蓮は天明の衣に手をかけると、くるくるとその服を脱がし始めた。

「何をする! 睡蓮、あ、こら」

 天明は抵抗するが、紅華が指摘した通り片側にうまく力が入らないらしく、あっという間に片袖を引かれて肩がむき出しになった。
 みれば、天明の肩から背中にかけて青くなりかけている。

「やっぱり」

「睡蓮……いくらいい歳だからって、もう少し女性としての照れとか恥じらいとか持ち合わせていないのか。そんなことだから行き遅」

「折れてはなさそうですが、これはかなり痛みますね」

「いててててて!」

 けがをしている方の腕を乱暴に裏表確認されて、天明が再び悲鳴をあげた。どうやら天明の言葉に少しばかり立腹したようだ。

(睡蓮でも怒ることがあるのね)

 紅華は、興味深くその様子を見守った。

「貼り薬を持ってきます。待っていてください」

 出血のある怪我がないことを確認すると睡蓮は、薬をもらうために部屋を出て行った。

「すみません、私がもうちょっと早く気づいていたら避けられたかもしれないのに」

 うなだれる紅華に、服を戻しながら天明が笑う。

「むしろ、晴明じゃないと気づいていたのに、よく助けてくれたな」

「当たり前です。あれ、直撃してたら、下手すれば死んでましたよ」

「そりゃ、殺すためにやったんだろうし」

 天明の言葉に、紅華は、目を見開く。

「え? まさか……あれは、事故、ではないのですか?」

 天明は、ちらりと紅華を見たが、すぐにまた服装を整えるために視線を戻す。

「違う。と、俺は思う」

「一体、誰が……」

「言ったろう。跡目争いなんてめずらしくもないことだ」

「でも、だからって殺すなんて」

「皇帝辞めてください、はいわかりました、なんてお行儀よく話がつくと思うか? ぐだぐだ言わせずに死んでもらうのが一番手っ取り早いだろう」

「でも……ということは」

「うん?」

 青ざめた紅華は、次の言葉をためらった。天明は、だまって紅華を見つめている。

「その理屈で言ったら、陛下を狙ったのは次の皇帝になれる……天明様が一番怪しいのではないですか?」

 陽可国は長子が皇位を継ぐことになっている。第一皇子の晴明が皇帝になりその子がない今、皇太子は第二皇子の天明だ。

 紅華の言葉に天明は大きく目を見開くと、声を上げて笑い出した。

「そうだな。そうか、俺が晴明を殺そうとしたのか。なるほど」

 紅華は、小さくため息をついた。

「違いますよね。もしそうならそんな怪我を負うわけないし……もしかして、天明様も同じように命を狙われたりしています?」

 楽しそうにくつくつと笑いながら天明は続けた。

「さあ、どうかな。それより、晴明を殺そうとして死んだのが俺じゃ、皇帝暗殺をたくらんだやつらもさぞ拍子抜けするだろうな」

「そんなことを言って。一歩間違えば、こうして笑っていることなどできなかったのですよ?」

「その時はその時だ」

「死んでしまったら取り返しがつきません!」

「なあ、紅華」

 いきなり呼び捨てにされて、紅華はびくりと体をこわばらせた。ひじ掛けに片腕をついて、天明は薄く笑っている。

 その表情は、同じ顔をしていても晴明とは全く違うように紅華には見える。まっすぐに見つめてくる細い目を、紅華は怖いと思うと同時に、美しいとも思ってしまった。

(この人は……何を考えているのだろう)

 自分の死すらもまるで玩具の一つとしか考えていないような天明に、紅華は胸をざわつかせた。