後宮は閑散としていた。
本来なら、時の皇帝のための妃や女官で溢れかえる華やかな場所だ。だが今この後宮にいる妃は紅華一人だけで、綺麗に磨かれた玉造りの廊下も、ときおり通りかかる女官や侍女の軽い衣擦れの音だけが響いている。
「静かね」
窓から明るい庭を見ながら、紅華が言った。
「そうですね。でも、昨日までは大変な騒ぎでしたのよ」
紅華の前に、ことりと睡蓮がお茶を置く。爽やかな青い香りが広がった。
「たった三日でここまできれいにすっきりしちゃうのって、すごいわ」
茶碗を持ち上げると、ちょうど飲み頃の熱さだった。紅華はゆっくりと口に含む。
皇帝崩御から三日。葬儀と晴明の即位式は滞りなく終わり、紅華もこうして後宮へと無事に居を移すことができた。
紅華の住まう翡翠宮は、壁紙や窓の引幕も新しくされ、蔡家から持参した調度品が揃えられている。部屋の中に漂う上品な香の中には、新品の布の匂いがかすかに混ざっていた。
「蔡貴妃様には、慌ただしくて申し訳ありません。ご不自由はありませんか?」
「いいえ、いたれりつくせりで申し訳ないくらい。あ、でも、ひとついいかしら」
「なんでございましょう」
「私はまだ正式には結婚してないんだから、貴妃と呼ばれるのは少し照れくさいわ。結婚するまでは、できれば紅華と呼んでほしいの」
「まあ」
睡蓮は、少しだけ目を丸くすると微笑んだ。
「かしこまりました。では、紅華様と呼ばせていただきますね」
その時、女官が廊下から声をかけた。
「蔡貴妃様、失礼いたします」
「どうしたの」
「陛下がお越しになります」
「陛下が? え、急に? どうしたらいいのかしら」
紅華は、あわてて立ち上がる。
その他大勢のつもりで後宮へ来た紅華は、実際のところ皇帝とどのように過ごすかなど考えてもいなかった。
「落ち着いてください、紅華様。こちらへ。まずは御髪を整えましょう」
あたふたする紅華の身支度を整え、睡蓮は知らせに来た女官にお茶の用意などをてきぱきと支持する。ほどなく、再び扉が叩かれた。
「はい」
睡蓮が扉を開けると、晴明が入ってきた。紅華を見つけて、にこり、と笑う。
「やあ、紅華殿」
「こんにちは、陛下。まだお忙しいのではないですか?」
紅華の言葉を聞く晴明は、どことなくやつれて見えた。
「そうだね。朝議も多いしもうしばらくは忙しいかな。でも、あまり顔を出さないと、紅華殿に忘れられてしまうからね」
少しやつれた頬で微笑む晴明は、えも言われぬ色気に包まれていた。
「まあ、そんなご心配は無用でございますわ。お会いできて嬉しゅうございます」
「私も、こちらへくる時間を心待ちにしていたんだよ」
晴明は、睡蓮に促されて長椅子に座る。
(あら……?)
その睡蓮の様子に、紅華はどことなく違和感を覚えた。
椅子に案内して茶を用意する睡蓮の表情や態度は、どことなく硬い。普段、自分や他の女官と話す時も、睡蓮は柔らかい雰囲気で笑顔を絶やさない。その睡蓮から笑みが消えていた。
(皇帝陛下だから緊張しているのかしら? それとも……)
「今日は紅華殿に報告があるんだ」
「あ、はい。どんなお話でございましょう」
我に返った紅華に微笑むと、睡蓮が目の前に置いたお茶を晴明は優雅な手つきで持ち上げた。温かさが胸にしみたのか、一口飲んで、ほう、とため息をつく。安堵が広がるその表情があまりにも優し気で、紅華は我知らず見とれてしまった。
(美しい方……)
気を利かせたのか、そのまま睡蓮は部屋を出ていった。睡蓮の様子は気になるが、それよりも今は皇帝陛下と二人だけという事実の方に緊張が高まる。
本来なら、時の皇帝のための妃や女官で溢れかえる華やかな場所だ。だが今この後宮にいる妃は紅華一人だけで、綺麗に磨かれた玉造りの廊下も、ときおり通りかかる女官や侍女の軽い衣擦れの音だけが響いている。
「静かね」
窓から明るい庭を見ながら、紅華が言った。
「そうですね。でも、昨日までは大変な騒ぎでしたのよ」
紅華の前に、ことりと睡蓮がお茶を置く。爽やかな青い香りが広がった。
「たった三日でここまできれいにすっきりしちゃうのって、すごいわ」
茶碗を持ち上げると、ちょうど飲み頃の熱さだった。紅華はゆっくりと口に含む。
皇帝崩御から三日。葬儀と晴明の即位式は滞りなく終わり、紅華もこうして後宮へと無事に居を移すことができた。
紅華の住まう翡翠宮は、壁紙や窓の引幕も新しくされ、蔡家から持参した調度品が揃えられている。部屋の中に漂う上品な香の中には、新品の布の匂いがかすかに混ざっていた。
「蔡貴妃様には、慌ただしくて申し訳ありません。ご不自由はありませんか?」
「いいえ、いたれりつくせりで申し訳ないくらい。あ、でも、ひとついいかしら」
「なんでございましょう」
「私はまだ正式には結婚してないんだから、貴妃と呼ばれるのは少し照れくさいわ。結婚するまでは、できれば紅華と呼んでほしいの」
「まあ」
睡蓮は、少しだけ目を丸くすると微笑んだ。
「かしこまりました。では、紅華様と呼ばせていただきますね」
その時、女官が廊下から声をかけた。
「蔡貴妃様、失礼いたします」
「どうしたの」
「陛下がお越しになります」
「陛下が? え、急に? どうしたらいいのかしら」
紅華は、あわてて立ち上がる。
その他大勢のつもりで後宮へ来た紅華は、実際のところ皇帝とどのように過ごすかなど考えてもいなかった。
「落ち着いてください、紅華様。こちらへ。まずは御髪を整えましょう」
あたふたする紅華の身支度を整え、睡蓮は知らせに来た女官にお茶の用意などをてきぱきと支持する。ほどなく、再び扉が叩かれた。
「はい」
睡蓮が扉を開けると、晴明が入ってきた。紅華を見つけて、にこり、と笑う。
「やあ、紅華殿」
「こんにちは、陛下。まだお忙しいのではないですか?」
紅華の言葉を聞く晴明は、どことなくやつれて見えた。
「そうだね。朝議も多いしもうしばらくは忙しいかな。でも、あまり顔を出さないと、紅華殿に忘れられてしまうからね」
少しやつれた頬で微笑む晴明は、えも言われぬ色気に包まれていた。
「まあ、そんなご心配は無用でございますわ。お会いできて嬉しゅうございます」
「私も、こちらへくる時間を心待ちにしていたんだよ」
晴明は、睡蓮に促されて長椅子に座る。
(あら……?)
その睡蓮の様子に、紅華はどことなく違和感を覚えた。
椅子に案内して茶を用意する睡蓮の表情や態度は、どことなく硬い。普段、自分や他の女官と話す時も、睡蓮は柔らかい雰囲気で笑顔を絶やさない。その睡蓮から笑みが消えていた。
(皇帝陛下だから緊張しているのかしら? それとも……)
「今日は紅華殿に報告があるんだ」
「あ、はい。どんなお話でございましょう」
我に返った紅華に微笑むと、睡蓮が目の前に置いたお茶を晴明は優雅な手つきで持ち上げた。温かさが胸にしみたのか、一口飲んで、ほう、とため息をつく。安堵が広がるその表情があまりにも優し気で、紅華は我知らず見とれてしまった。
(美しい方……)
気を利かせたのか、そのまま睡蓮は部屋を出ていった。睡蓮の様子は気になるが、それよりも今は皇帝陛下と二人だけという事実の方に緊張が高まる。