「欄悠!」

 走って行く先に愛しい人を見つけた紅華は、嬉しそうに彼の名前を呼んだ。その声に気づいて、欄悠は顔をあげる。

「ここだよ、紅華」

 彼は、いつものように朗らかな笑顔で紅華を迎えてくれた。変わらないその笑顔に、紅華は安堵と共に満面の笑みを浮かべる。

「来てくれたのね。嬉しいわ」

「君に会えるなら、いつだってどこへだって行くさ。愛しい紅華。ああ、そのかんざし使ってくれているんだね。高かったけど、思い切って買ってよかった。思った通り、君の黒髪に映えてとても綺麗だよ」

 紅華の髪に飾られているのは、白い玉に青い房の付いた美しい細工物のかんざしだ。欄悠がそのかんざしにそっと触れて、紅華は笑みを浮かべる。

「ありがとう。この色合い、とてもきれいで気に入っているの」

「なかなか手に入らない貴重なものなんだ。苦労して手に入れたかいがあったよ。ところで、急にどうしたんだい?」

 どうしてもすぐに会いたいと文をもらって、欄悠はいつも彼女と待ち合わせに使っている河原へとやってきたのだ。

 紅華は、表情を引き締めて欄悠を見上げた。

「欄悠、私と逃げて!」

「え?」

 はっしと腕をつかまれて、欄悠はきょとんと聞き返す。

「逃げる? どこへ?」

「どこへでもいいの。欄悠と一緒なら。私……私、後宮へ上がることになってしまったのよ」

 とたんに欄悠の顔がこわばる。

「後宮って……それ、本当かい?」

「ええ。今日、ご使者の方が正式にうちへ通達にくるわ。でも私、お嫁に行くなら欄悠じゃなくちゃいや! だからお願い! 私と逃げて!」

「そうか……後宮に、ね」

 泣きそうな顔でしがみついてくる紅華を、欄悠は自分の体から押し離す。紅華が見上げた欄悠は、見たことのない冷たい表情をしていた。

「欄悠?」

 急に雰囲気の変わった欄悠に、紅華はけげんな顔になる。

「逃げる? 冗談じゃない。蔡家の恩恵のない君に、一体何の利益があるって言うんだい?」
「……どういうこと? まさか、あなたも……」

 戸惑う紅華の顔が、次第に青ざめていく。

「どうもこうも」

 欄悠は、紅華から離れるとため息混じりに笑った。

「せっかく君と結婚して蔡家の財産を好きに使えるようになると思ったのに、相手が皇帝じゃ、他の求婚者たちにやったみたいな妨害もできやしない。あーあ。恋愛ゴッコもこれで終わりだ。君に取り入るためにかけた金も時間も、全部無駄になったよ」

 愛し合っていると信じて疑わなかった恋人の豹変に、紅華は声も出せずに立ちすくむ。

「だいたい、後宮には俺の姉が淑妃として入っていること、知ってるだろ? 俺が後宮と面倒起こすと、姉の立場も悪くなるって考えなかったかよ。今後はもう、一切俺と関わらないでくれ」

 それだけ言うと、さっさと紅華に背を向けた。

「あ、そうだ」

 だが、数歩歩いて、呆然とする紅華のもとに戻ってくる。

「欄悠、やっぱり……」

 ぱ、と紅華は笑顔になる。

 きっと今までの言動は、欄悠の冗談だったのだ。悪い冗談だが、謝ってくれたのならしかたないと許してあげよう。

 けれど欄悠は、表情も変えずに、紅華の頭にあったかんざしを抜き取った。結っていた髪がふわりとほどける。

「これ、返してもらうね。君を釣るためならと思って奮発したのに、結局無駄になっちまった。せめてこれだけでも返してもらうよ」

 そして今度こそ、振り向かずに去っていく。

 突然のことに頭が真っ白になっていた紅華には、たった一つだけわかったことがあった。

 彼だけは違うと信じていた。他の婚約者のように、家の財産目当てではないと。紅華だから愛してくれていると。

 それがすべて、計算された嘘だったと、紅華は悲しくも悟ったのだ。

「……っの、大嘘つき!」

 気が付いた時には、紅華は自分に向けられた広い背中に飛び蹴りをくらわせていた。

 
「今日は宮城からの使者がくるから、おとなしくしていろと言っただろう」

「はい、と言った覚えはありません」

 どっしりと椅子に腰かけて言った蔡汀州の前で、立ったままの紅華は、ぷい、とそっぽを向く。

 ただでさえ失恋の痛手に落ち込んでいるのだ。この上、父親のつまらない説教など聞きたくもなかった。

 なにがあったのか、埃まみれで髪を乱し怒り心頭で帰ってきた娘をしげしげと見ながら、汀州はため息をつく。

「まあいい。お前抜きでも話はついた。お前の後宮入りだが、来月に決まったぞ」

「行く気はありません」

「本当にお前は変わり者だな。後宮の妃に選ばれたとなれば、国中の娘が歓喜するというのに」

 苦笑する汀州に、紅華はかっと目を見開いてその顔を睨みつけた。

「皇帝とはいえ、お父様と同じ歳ではないですか! そんな年寄り、絶対に嫌です! それにもう皇帝陛下には寵妃様が十人だか二十人だかいらっしゃるのに、なんで今更私が?!」

「お前今、父を年寄り扱いしたな」

 遠慮のない娘の言葉に、父は密かに傷ついた。だが、すぐに立ち直って続ける。商人はいつまでもぐずぐずしないものだ。

「陛下は俺と同じでまだまだ活動的なお方だ。それに、以前の後宮といえば、百人もの寵妃がいたらしいぞ」

「そんなはるか昔のことはどうでもいいです! だいたい皇帝なんて輩は、権力をかさにきてわがまま放題のがんこじじぃと相場が決まってるじゃないですか!」

「紅華……普段、一体どんな物語を読んでいるんだ」

「それほど間違ってはいないでしょう? なんで私がそんな(ピー)じじぃに……!」

「お前が、蔡家の一人娘だからだ」

 まただ。その意味をよく理解している紅華は、口をつぐむ。

(どいつもこいつも蔡家蔡家蔡家って! 好きでこの家に生まれたわけではないわ!)

 そうは思っても、さすがにそれを自分の父に言わないだけの分別はある。紅華とて、父や家族が嫌いなわけではない。ただ、常に自分につきまとう蔡家という肩書が嫌なだけだ。

「とはいえ、さすがにこちらもお前の歳を考慮して、最初は皇太子妃として打診したのだがな。それは、宮城から断られた。なぜか知らんが、皇太子妃はまだいらんそうだ」

「若ければいいというわけでもありません!」

「何と言おうと、宣旨が下ったことは動かぬ事実だ。断れば、お前どころか私の首まで吹っ飛ぶ。あきらめるんだな」

 そう言われてしまえば、紅華にはそれ以上何も言う事は出来ない。汀州は嬉しさを隠せない顔で言った。

「これで我が家も、貴族と縁続きか。それも、皇族とは! いや、めでたいめでたい」

「娘を権力に売ったのですね」

「人聞きの悪い。お前だって、妃となれば、贅沢な暮らしができるじゃないか」

「だからって、じじいの妻なんて絶対嫌ああああああ!」

「じじいではないというに。それに、運というものはいつでもあるものではない。目の前に現れた時に迷わず掴む者だけが、成功を手に入れることができるのだ」

「それは商売の話でしょう? 結婚までそんな風に扱われては、私の気持ちは」

「紅華」

 ふいに、父の声が低くなった。

「もう決まったことだ。この婚姻で、我が家は貴族の仲間入りをし、ますます発展していくだろう。お前の一存でどうこうできるものではないことくらい、わかっているだろう?」

「でも……」

 それが事実だということがわかるだけに、紅華の反論は弱い。紅華が黙り込んだのを見た汀州は、また笑顔に戻る。

「いや、めでたいめでたい」

 そう言って勝手に話を締めくくると、軽い足取りで汀州は部屋を出て行った。残された紅華は、ふくれっ面のまま父親のいなくなった椅子にどすんと座り込む。

 紅華の実家、蔡家は、貴族でこそないが、陽可国随一の商家と言われる財産家だ。その財産は国に次ぐ規模と言われ、経営を通じて他国との交流も広く深い。その蔡家の一人娘だ。紅華には、幼いころからすでに掃いて捨てるほどの縁談が来ていた。

 だが父は、そのどれにもうなずくことはなかった。彼は、紅華を後宮に入れるつもりだったのだろう。

 紅華が妃として後宮に入れば、その実家も必然的に貴族の地位を得ることができる。それこそが汀州の狙いだったのだ。だから、婚姻が許可される十六歳になってすぐに後宮入りが決まったのだ。父親がどんな手を使って紅華を売り込んだかしらないが、蔡家の財産が決め手になったことは想像に難くない。

「はあ……もういいや、どうでも」

 しばらくしてのろのろと立ち上がった紅華は、しょんぼりしながら自分の部屋に戻った。

  ☆

 その日はあっという間にやってきた。

 紅華は、新品の馬車に揺られながらぼんやりと暮れていく外の風景を眺めていた。

 紅華が着ているのは、金糸銀糸の刺繍が豪華に施された緋色の婚礼衣装だ。この日のために特別に仕上げてもらった逸品で、紅華はこの服にずっと憧れていた。これを着る時は、弾んだ心持ちで愛する人のもとへ向かうものだと思っていたのに。

 そんなことを考えていると頭の中に蹴り飛ばした男の顔が浮んで、またふつふつと腹が立ってきた。

 紅華が蹴り飛ばした男――李欄悠に初めて会ったのは、一年ほど前にたまたま出かけた茶会だった。偶然話しかけられて、二人はすぐに意気投合した。李家は最も古い家柄の貴族の一つだったが、欄悠は他の貴族のように家柄を自慢したり威張り散らしたりもしなかった。本物の矜持を持った貴族だと、紅華は尊敬すら覚えていた。彼があふれるほど来ていた縁談の相手の一人だと知った時には、運命だと思った。

 欄悠は、紅華が蔡家の一人娘だという事を知った後も、他の求婚者のようにあからさまに自分の家の話をひけらかすことはなかった。ただひたすらに紅華に優しくしてくれた。紅華の知らない素晴らしい景色を見せに連れて行ってくれたり、突然様々な美しい贈り物をしてくれたり。

 それらはすべて、紅華を懐柔するための演技だったのだ。

 今思えば彼は、最初から蔡家の娘だと知っていて近づいてきたのだろう。紅華の父が蔡家と李家の婚姻を許さなかったので、矛先を紅華に向けたに違いない。

 そんなことも気づかずに浮かれていた過去の自分を、紅華は張り倒したい気分だった。

 すべてが紅華の気持ちなどおかまいなしに、蔡家として話が進む。とはいえ、この時代に女と生まれたからにはそういうものだと理解はしているつもりだった。

 けれど紅華は、欄悠に出会って知ってしまった。

 愛する幸せを。愛される喜びを。

 結婚とは、そんな幸せな日々が続いていくものだと思っていた。たとえ政略結婚の形をとっていても、この人となら、一生を仲睦まじく暮らしていける幸せな結婚ができると思っていたのに。

 裏切られたことを知った今は、ただただ腹立たしいだけだ。

 結局、紅華の結婚は自分の意思とは関係ないものになってしまった。しかも、相手は自分の親と同じ歳ときた。どんなに美しく彩られた車に乗っても憧れていた晴れ着を着ていても、心は憂鬱なままだった。

(終わったわ。私の人生)

 紅華がぐちぐちとふてくされていると、急に車がとまった。

「どうしたのかしら」

「ちょっと見てまいりますわね」

 車内に同乗していた侍女が、外へと出て行く。しばらくして、その侍女が数人の男性を連れて戻ってきた。紅華の姿を見つけると、全員その場に膝をついて礼をとる。


「蔡紅華様であらせられますね」

 服装からしてどうやら官吏らしい。どの男たちの顔にも、紅華以上の困惑の色が浮かんでいた。

「この度は、ご入宮、まことにお喜び申し上げます。ですが……」

「何かあったのですか?」

 ただならぬその様子を見て紅華が不安げに聞くと、その官吏はあたりをうかがいながら低い声で言った。

「実は、本日……皇帝陛下が崩御されました」

「……は?!」

  ☆

「お、あの車じゃないか?」

 長いこと窓に張り付いていた天明が、何かを見つけて開いた窓から大きく身を乗り出した。

「天明、あまり顔を出すな。落ちるぞ」

 言いながら晴明も、席を立って窓際に近づく。

 今まさに宮城へと近づいて来るその車は、黒塗りに金の装飾模様が施された手のかかったものだ。大切な一人娘の嫁入りのために、新しく新調されたものだろう。その後ろにも、おそらく嫁入り道具を運んでいるに違いない何台もの車が連なっている。

 だが、本来それを迎える官吏や侍従の姿はほとんど見えない。

「さすが、蔡家だね。見事な車だ」

「本当ならもっとにぎやかに迎えるものなんだろうけど、父上も間の悪い時に死んじまったもんだよなあ。かわいそうに。どんなお嬢さんなんだろう」

「蔡家の一人娘、紅華……十六歳、か。こんな事態に、混乱していないと良いが」

 晴明は、近づいて来る車を見て複雑な表情でつぶやいた。それを見て天明は、く、と笑った。

「もしかしたら、若返った結婚相手に今頃浮かれているかもしれないぜ?」

「不安でたまらずに泣いているかもしれない」

「心細いのはお互い様だな、晴明?」

「……私は」

「どんと構えていろよ。なんてったってお前は、陽可国の新皇帝なんだから」

 大きなため息をついて晴明は、窓の枠に体を預けるときらびやかな馬車を見つめた。

「妃はいらない、と言っても、もう許されないだろうな」

「二十四歳で妃が一人もいないなんて、ってずっとぶちぶち言われてたからな、お前」

「さすがにこうなったら、宰相の条件を飲むしかないだろう」

 それを聞いて、天明が低い声で言った。

「お前、本当にいいのか?」

 無言で晴明が天明に目を向ける。心のうちを見透かすような天明の視線に、晴明の表情が歪んだ。容赦なく、天明が続ける。

「お前がそんなあやふやな態度しか取れないなら、俺がもらうぞ」

 晴明が口を開こうとした時、部屋の外から晴明を呼ぶ声が聞こえた。結局、晴明は何を言う事もなく視線をそらす。そんな様子に、天明は肩をすくめて明るく言った。

「さて、ご対面といこうか?」

「そうだね」

   ☆
 皇帝崩御、と聞いて紅華は、てっきり家に戻るように言われるのかと思った。だが官吏たちは、なぜかそのまま彼女を宮城へと連れてきた。

 あれよあれよという間に、小さな部屋に通される。

 執務室らしいその部屋の机に座っているのは、陽可国の宰相、朱翰林。紅華は、手を組み合わせて頭を下げると礼をとった。

「蔡紅華、ただ今まかりこしました」

「よく来られた。本来ならめでたい席だが、こんなことになってしまって申し訳ない」

 宰相もどことなくそわそわしながら言った。

「では、皇帝陛下が崩御なされたというのは、本当なのですか?」

「まだ公表はしておらんが……本当だ。朝方、側近がお部屋にお起こしに行った時には、すでに冷たくなっておられたそうだ。外傷もなく毒の可能性も低いという事からみて、おそらく心の臓が急に止まられるご病気が原因らしい」

「おいたわしいことです。亡き陛下には、心よりお悔やみ申し上げます。わたくしも陛下のもとに嫁ぐ日を指折り数えて心待ちにしておりましたのに……とても残念です」

 紅華は、うつむき涙をぬぐう。ふりをした。

 型通りの悔やみを述べてはいるが、心はすでに実家に戻っている。

(相手がいなくなっちゃったんだもん、しょうがないわよね。次こそは政略結婚じゃない相手に出会えるかもしれない。いいえ、出会うのよ! そして、幸せな結婚をするの!)

「そうか紅華殿もそう思っていただけるか?」

 すると、宰相がずい、と身を乗り出してきた。

「? ええ、本当に」

「それは好都合……いや、よかった」

 宰相は、じ、と紅華を見つめた。

「あの?」

「いや、実はな。皇帝が亡くなった時は、その後宮は全て解体する定めとなっている」

「はい。存じております」

 後宮は、その時代の皇帝の子孫を残す役目を担っている。決して同じ寵妃が次の皇帝に受け継がれることはない。それを知っているから、紅華は実家に戻る気満々なのだが。

「この後の納棺と新皇帝の即位式が終われば、龍可陛下の後宮は明日にも解体される。紅華殿には、その後に後宮に入っていただきたい」

「……それは、どういう……?」

 嫌な予感が胸をよぎり、紅華の声が思わず低くなった。

「幸い、紅華殿はまだ皇帝陛下、ああいや、元皇帝陛下の正式な妃にはなっていない。こうして宮城へ赴かれたのも何かの縁。ぜひそのまま次の皇帝である、晴明様の貴妃となっていただきたい」

「は……はあっ?! いえ、あの、その……」

「驚かれるのも無理はない。だが、皇太子であられた晴明様には、いまだ妃が一人もおらん。まずは紅華殿に後宮に入っていただいて……」

「いえ、でもわたくしは龍可皇帝の」

「陛下は、もうおらん」

 そこだけやけにしみじみと、宰相は言った。

「陛下を亡くされた晴明様も、後宮で紅華殿がお待ちいただければ少しは慰めになるであろう」

「はあ……あの、でも皇太子妃はまだ必要ないと断られたそうですが……」

「皇太子であられた晴明様には、確かに妃はおらんかった。だが、皇帝となられたなら話は別だ。これから後宮には、また新しい嬪妃たちがそろうであろう」

 微妙に話をそらされた気がして、紅華はわずかに眉を顰めた。そんな紅華に気づいているのかいないのか、宰相は淡々と続ける。