43
学校が終わり、珍しくどこにも寄らずにバスに乗って帰ることにした。バスは今日も前方の一人掛けの座席に老人が2人乗っていた。それ以外の客は僕と奈津だけで、僕と奈津は決まりきったように一番後ろの長いシート座席に座った。バスは乱暴に発車した。ギアチェンジのとき、クラッチが上手く入らなかったのか、カクンとバスが前に揺れた。
どのバス停にも当たり前のように客は待っていなかった。自動音声のアナウンスが次々と流れていった。3つのバス停の前を通過しても、奈津と僕は無口なままだった。別に、なにかを話したいと思うこともなく、国道12号線の景色を眺めていた。
「ねえ、この間、進路の話したでしょ」と奈津はこう話を切り出した。
「そうだね」
「前も言ったけどさ、私さ、もう競争とか、そういうの嫌。大学受験するなら、勉強もこのまま続けなくちゃいけないでしょ?」
「そうだね。あそこに通ってる奴らと同じように競争を続けなくちゃいけないね」
「うん。みんな、割といい大学行くためにこの学校来てるようなものだからね。クールな顔してさ。みんな成績落とさないことに必死」
「必死だよね。そして、みんな楽しくなさそうなんだよな。受験なんてさ、所詮一つのイベントでしかないのにさ。今から成績のこと考えすぎなんだよ。だから、俺みたいな勉強しない劣等生のことを冷たい目で見下して馬鹿にしてくるんだよ」
僕がそう言うと、奈津は笑いながら、言い過ぎだよと言った。
「だけど、中学校の時とまた違うよね。中学生のときはバカが勉強してバカにされたけど」
「バカバカ言うなよ。バカだけどさ」
僕がそう言うと奈津は弱く笑った。
「ごめん、ごめん。私が言いたいのは、周りから馬鹿にされながら、中学で頑張ってせっかく進学校に入ったのに、そうやって頑張って入った高校でまた馬鹿にされるモガミを見てると、私も辛くなるってこと」と奈津はそう言った。
窓の外を見るとバスは、すでに歌志内市内を走っていた。道の駅の温度計には22℃と表示されていた。
「俺はさ、どこに行ってもなんか知らないけど、悪目立ちして、馬鹿にされるんだよね」
「モガミってさ、そういうところあるよね」
「そうだよね。俺はきっと、これから先も馬鹿にされるよ。いろんな人に。大学は上手くやれたとしても、社会人になったら、今度は頭が終わってる上司や同僚たちに馬鹿にされるんだよ」
「モガミに限らずさ、社会に出たら、頭が終わってる人が支配的なことって多そうだよね。だって、学校ですらそうでしょ。みんな自分のことばかり考えて、少しでも正しいことを指摘されて、自分の権利を侵されると思ったら、その人を罵る。少しでも変わった行動をしたら、馬鹿にする。馬鹿が多数派だったら、残念だけど馬鹿の言うことがどんなに間違ってても、それが正しくなっちゃうんだよね」
「そうだね。そんな社会の中で生きてると思うとゾッとするときがあるんだよね。社会が怖くて」
「あーあ。私は嫌だな。そんな社会に大人になっても身を置くのは。私さ、生きてるだけで、ずっとそんなことがついて回って来るなら、もう、自分の意志で社会からリタイアしたい」
奈津はそう言い終わるとため息をついた、奈津を見ると真剣な表情をしていた。
『社会からリタイアしたい』
奈津のその言葉が頭の中に妙に残った。
奈津と僕が降りるバス停の名前のアナウンスが流れ、奈津は降車ボタンを押した。バスに乗り込んで最初の方に話さなかったのを少し後悔した。定期券を運転手に見せ、バスを降りた。
僕に続いて奈津もバスを降りてきた。バスから降りてきた奈津を見ていると、急に二人でどこかに行きたくなった。誰も知らないどこかに――。
奈津が降りたあと、ブザーが鳴り、バスの扉が閉まった。バスはエンジンを吹かして乱暴に発車していった。
僕は右手で奈津の左手を繋いだ。そして、走り始めた。
「えっ」
奈津を見ると、奈津は驚いた表情をしていた。僕はそれを無視して走り続けた。奈津の手を引く右腕は伸び切っていた。お互いの走る振動で繋いだ手が上下にたわむのを感じる。
右側に振り向くと、奈津のショートボブが無造作に揺れているのが見えた。奈津の左腕も伸び切っていた。制服のスカートの裾も視界の隅に見えた。奈津は驚いた表情をしていた。
「ねえー、どこいくのー?」
奈津はそう言っているけど、僕は奈津の言葉を無視して走り続けた。
右手に見える公園や誰も居ない交差点、人がほとんど住んでいない2階建ての小さな団地が小刻みに揺れる。ゆるい下り坂で足がもつれそうになる。浅い緑色に覆われた山並みの奥に雲ひとつない6月らしい空が広がっていた。時折、冷たい風が向かいから吹いた。鼻から息を吸うと若草の匂いがした。
駅前通りから坂を下り、道道に出た。そして左に曲がる。奈津は握っていた僕の右手を離した。奈津を見ると、奈津は走るスピードをゆっくりと下げ、駆け足から歩くようになり、やがて立ち止まった。両膝に両手をあて、上半身を前のめりにして息を整えていた。
「待って――」
奈津はそう言ったあと、大げさに「はぁはぁ」と声を出して呼吸していた。奈津が呼吸するたびに肩が上がっていた。
僕も息が乱れていて、額に軽く汗をかきはじめていた。右手には奈津の左手の柔らかい感触が残っていた。
僕と奈津が息を整えている間、2台の車しか通らなかった。そして人は誰も通らなかった。スノードームの中のように街並みが水の中で静かに揺らいでいるようだった。本当に16時過ぎなのかと疑うほど、人の暮らしや、人の動き、人の気配を感じなかった。
僕は奈津の方まで歩み寄った。二人でその場で立ち止まったまま、呼吸を整えている。二人の呼吸音しか聞こえない。
「ちょっと。急だよ」
「ごめん」
「急だよ。――急すぎ」と奈津は言った。奈津の息はまだ整ってはいないように見えた。
「息、整った?」
「え、また走るの?」
「いや、歩こう」と僕はそう言ったあと、右手で奈津の左手を再び繋いだ。奈津の左手は弱く汗で湿っていた。
ゆっくり歩き始めた。相変わらず車通りは少なく、時々、一台の車が高速で通り抜け、そのたび、風圧を感じた。バブル崩壊前に作ったスイス風の市営住宅が右側に何棟か並んでいる。
一時期、この街は炭鉱の次の産業として、観光に力を入れようとした。スキー場を作ったり、温泉施設を作ったり、街の外装をスイスのチロル地方風にして観光の目玉にしようとした。そうした建物が古い建物と一緒に残っている。
奈津は何も言わなかった。どこに行くのとか、そういうことも話さなかった。奈津はただ黙って、僕に手を引かれて歩いている。黙々と川に沿って作られた道道を歩いた。少し歩くと悲別ロマン座の長くて大きな三角屋根が見えてきた。
44
昔、炭鉱が栄えていた頃、悲別ロマン座は映画館だったらしい。トタン屋根の赤色は色あせて小豆になっている。悲別ロマン座は昔、倉本聰が作ったドラマのロケ地になった。
どんな話かよく知らないけど、この建物が物語の中で重要な役割をしたことを小学校のとき、何かの授業で聞いた。
悲別ロマン座の向かいの高台には、住友の立坑櫓がひっそりと建っていた。3階くらいの高さがある白色の筒の上に緑色の歯車が付いている。筒の外側には歯車を頂点に緑色の鉄骨が三角形を描くように機械的に建っている。その周囲は背の低い雑草が生い茂り、どこから来たのかわからない木の枝が無造作にコンクリートの上に置いてあった。
僕と奈津は悲別ロマン座の敷地に入った。悲別ロマン座の前は芝に覆われた広場になっていて、他の公園と同じように定期的に手入れされているようだった。
道道側に昔、炭鉱で使っていた錆びたトロッコが幅が狭いレールの上に乗っかっていた。
悲別ロマン座は正面からみると、昔、映画館であった風格が残っている。大きな三角屋根が手前に張り出し、入口前は巨大な雨よけのようになっている。久々に見た悲別ロマン座は鉄筋コンクリートでできた白川郷の合掌造りのように見えた。
中央に10枚くらいガラス扉があり、左右にはポスターが貼れるガラスケースがある。相当昔には公開中の映画のポスターや公開予定のポスターが貼られていたのだろう。建物の左右には悲別ロマン座より、背丈があるエゾマツが何本も生えていた。
悲別ロマン座の入口横に、茶色い看板が建っている。そこにはこのように書かれてた。
昨日悲別で
少年が生まれ
今日悲別で
少女と出逢った
明日悲別に
小さな灯がともる
「昨日、悲別で」
倉本聰
45
僕と奈津は手を繋いだまま、悲別ロマン座の裏側に向かった。建物の裏側にはステージが作り込まれていて、野外イベントができるような作りになっている。ステージの前には何年前に置かれたのか、もうわからない木製のテーブルと長椅子が置いてあった。
僕と奈津はファミレスのボックスシートに座るように自然にお互いに向かい合って座った。
「リタイアしよう」
「え?」
「俺もリタイアしたいんだよ。一緒にリタイアしよう。こんな世界」と僕はそう言った。奈津はキョトンとした表情をしていた。
「一緒に自殺でもするの――?」
「自殺はしないよ」
僕はそう言ったあと、奈津に微笑んだ。
「自殺なんかしなくたって、人と社会と関わることを最小限にすればさ、リタイア出来るよ」
「社会との関係を断ち切って、社会的に自殺するってこと?」
「そう。そういうこと。社会的自殺」
「社会的自殺。――まだ16にもなってないのに?」と奈津はそう言った。奈津はにやけた表情をしていた。
「いや、真面目な話さ、そう思わない? 何、笑いそうになってるのさ」
「ごめん。社会的自殺ってなんか面白くて。まだ若いのに」と奈津はそう言って笑った。
「中二病でしょ?」
「中二だね」
「社会的自殺っていいかもね」
「だろ? いい考えだと思わない? 最初から諦めちゃおうよ。面倒な未来」
「うん。すごくいい。私と一緒に社会的自殺してくれるんでしょ?」
「そうだよ。社会的自殺しよう」
「わかった。いいよ」と奈津はそう言った。さっきまで柔らかく笑っていた奈津の表情が急に真顔になった。
「――これから先の未来を考えたら、たまに死にたくなるよね」
「そうだね。俺もそう思うよ」
また風がぶわっと吹き上げた。そのへんにある木々の葉が擦れて、きれいなざわめきが周囲を包んだ。奈津の耳にかかった肩ほどのショートボブの髪先が風と一緒に右に流れた。
「たまにね、砂漠に一人、ほっぽりだされたようにやるせなくなるときがあるの。動くのも面倒だし、動いても良いことがないって思ったりしちゃう感じ。わかる?」
「うん。わかるよ」
「それって、きっと社会的プレッシャーがそうさせてるんだと思うんだよね。日本って出る杭は打たれるでしょ? 私、そういう出る杭が打たれるのを見たり、しっかり収まる杭にもなりたくないのかも。その決まりきった生き方して、人並みに生きることを意識すると息ができなくなりそう」と奈津はそう言ったあと、上を向き、空を見ていた。そして、軽く頬を膨らませたあと、大きく息を吐いた。
「だからね、私、もう、こんなの嫌なの。ずっとこの繰り返しは嫌。この世の中が嫌だし、お金に縛られて生きるのも嫌。――なんでさ、世の中ってこんなに不条理なんだろうね」
「誰かがそういう風に世界を作ってるんじゃない? わからないけど」
「私ね、運命に逆らいたいと思って生きてきたの。きっとこれから先もそうするんだと思う。だから、過去も忘れられないし、未来に憂鬱になる。だからと言って、その場で立ち止まりたくないから、今は勉強して、それなりの人生送れるような準備をしているんだと思う。だけど、そんなの私の人生に必要なのかなってたまに思うんだ」
「そうだね」
「だからね。もっと、自分の意思で自分の人生決めたいし、もっとゆっくりしたいんだ。モガミとならそれができると思うの。私。だからさ、質素でいいから、何気ない日常をゆっくり過ごしたい」
「そうなんだ。俺も同じ気持ちだよ」
「ねえ。――私のこと助けて」と奈津は弱々しい声でそう言った。奈津を見ると涙目になっていた。そのあとすぐ、一粒の涙が奈津の頬を伝った。
「――いいよ。ずっと一緒に居よう」と僕はそう言ったあと、ボロボロのテーブルに右肘をつき、右手の小指を奈津の方に差し出した。奈津も右手の小指を差し出し、僕の小指と結んだ。
「ねえ、その根拠は?」
「根拠?」
「うん、永遠に一緒に居れる根拠を示してよ。私と一緒に社会的自殺するんでしょ」と奈津はそう言ったあと、優しく微笑んだ。
僕は次の言葉が思いつかず、そのまま奈津を見つめた。奈津の瞳は大きくて、このまま意識が吸い込まれてしまいそうになるくらい綺麗でどんな透明よりも澄んでいた。
「――ねえ、私、ずっと思ってたんだけど、タイムスリップしてるでしょ?」と奈津は平らな声でそう言った。小指と小指は、結ばれたままだった。
一瞬ドキッとした。どう答えたらいいかわからなくなって、僕はとっさに小指の力を緩めた。
「ねえ、聞いてる?」と奈津はそう言って、笑った。
「ごめん」と僕は咄嗟に謝った。
「どうしたの?」
「――いや、なんて言えばいいんだろうって思って」
「中2の2月にわかったよ」と奈津はそう言った。僕はさらに返す言葉が思いつかなかった。
「陰キャなんて言葉、知ってるはずないよね。この時代の人が」奈津は冗談とも本気とも取れないような表情をしていた。
「――そうだね」
「そうでしょ。私、残念だけど、そういうところ鈍感じゃないの」
奈津はそう言ったあと、ニコッとした表情をしていた。
「でさ、どうやってタイムスリップしたの? 中2のあの日でしょ。図書館に初めて誘ってくれた日」
「――そうだよ。あの日の前日に生まれ変わったんだよ。俺は」
「やっぱりそうなんだ。いつの時代から戻ってきたの?」
「2020年」
「未来人だね」と奈津はそう言って笑った。奈津の瞳は純粋な少女みたいだった。そんな目で僕は奈津に見つめられている。
「そうだね。ナツを図書館に誘った日は、タイムスリップして1日目だったよ」
「へえ。本当にタイムスリップしたんだ」
奈津は完全に僕のことを面白がっている。というか、なんで奈津はタイムスリップを信じているんだろう――。
「あっ」
「え、なに?」
「――つまりさ、ナツも陰キャって言葉を知ってるってことだよね?」
「そうだよ。だって、私も2020年を知ってるから」と奈津はさらっとそう言った。僕は頭の中で話が追いつかなくなった。
「――私ね、3回成功させてるの」
学校が終わり、珍しくどこにも寄らずにバスに乗って帰ることにした。バスは今日も前方の一人掛けの座席に老人が2人乗っていた。それ以外の客は僕と奈津だけで、僕と奈津は決まりきったように一番後ろの長いシート座席に座った。バスは乱暴に発車した。ギアチェンジのとき、クラッチが上手く入らなかったのか、カクンとバスが前に揺れた。
どのバス停にも当たり前のように客は待っていなかった。自動音声のアナウンスが次々と流れていった。3つのバス停の前を通過しても、奈津と僕は無口なままだった。別に、なにかを話したいと思うこともなく、国道12号線の景色を眺めていた。
「ねえ、この間、進路の話したでしょ」と奈津はこう話を切り出した。
「そうだね」
「前も言ったけどさ、私さ、もう競争とか、そういうの嫌。大学受験するなら、勉強もこのまま続けなくちゃいけないでしょ?」
「そうだね。あそこに通ってる奴らと同じように競争を続けなくちゃいけないね」
「うん。みんな、割といい大学行くためにこの学校来てるようなものだからね。クールな顔してさ。みんな成績落とさないことに必死」
「必死だよね。そして、みんな楽しくなさそうなんだよな。受験なんてさ、所詮一つのイベントでしかないのにさ。今から成績のこと考えすぎなんだよ。だから、俺みたいな勉強しない劣等生のことを冷たい目で見下して馬鹿にしてくるんだよ」
僕がそう言うと、奈津は笑いながら、言い過ぎだよと言った。
「だけど、中学校の時とまた違うよね。中学生のときはバカが勉強してバカにされたけど」
「バカバカ言うなよ。バカだけどさ」
僕がそう言うと奈津は弱く笑った。
「ごめん、ごめん。私が言いたいのは、周りから馬鹿にされながら、中学で頑張ってせっかく進学校に入ったのに、そうやって頑張って入った高校でまた馬鹿にされるモガミを見てると、私も辛くなるってこと」と奈津はそう言った。
窓の外を見るとバスは、すでに歌志内市内を走っていた。道の駅の温度計には22℃と表示されていた。
「俺はさ、どこに行ってもなんか知らないけど、悪目立ちして、馬鹿にされるんだよね」
「モガミってさ、そういうところあるよね」
「そうだよね。俺はきっと、これから先も馬鹿にされるよ。いろんな人に。大学は上手くやれたとしても、社会人になったら、今度は頭が終わってる上司や同僚たちに馬鹿にされるんだよ」
「モガミに限らずさ、社会に出たら、頭が終わってる人が支配的なことって多そうだよね。だって、学校ですらそうでしょ。みんな自分のことばかり考えて、少しでも正しいことを指摘されて、自分の権利を侵されると思ったら、その人を罵る。少しでも変わった行動をしたら、馬鹿にする。馬鹿が多数派だったら、残念だけど馬鹿の言うことがどんなに間違ってても、それが正しくなっちゃうんだよね」
「そうだね。そんな社会の中で生きてると思うとゾッとするときがあるんだよね。社会が怖くて」
「あーあ。私は嫌だな。そんな社会に大人になっても身を置くのは。私さ、生きてるだけで、ずっとそんなことがついて回って来るなら、もう、自分の意志で社会からリタイアしたい」
奈津はそう言い終わるとため息をついた、奈津を見ると真剣な表情をしていた。
『社会からリタイアしたい』
奈津のその言葉が頭の中に妙に残った。
奈津と僕が降りるバス停の名前のアナウンスが流れ、奈津は降車ボタンを押した。バスに乗り込んで最初の方に話さなかったのを少し後悔した。定期券を運転手に見せ、バスを降りた。
僕に続いて奈津もバスを降りてきた。バスから降りてきた奈津を見ていると、急に二人でどこかに行きたくなった。誰も知らないどこかに――。
奈津が降りたあと、ブザーが鳴り、バスの扉が閉まった。バスはエンジンを吹かして乱暴に発車していった。
僕は右手で奈津の左手を繋いだ。そして、走り始めた。
「えっ」
奈津を見ると、奈津は驚いた表情をしていた。僕はそれを無視して走り続けた。奈津の手を引く右腕は伸び切っていた。お互いの走る振動で繋いだ手が上下にたわむのを感じる。
右側に振り向くと、奈津のショートボブが無造作に揺れているのが見えた。奈津の左腕も伸び切っていた。制服のスカートの裾も視界の隅に見えた。奈津は驚いた表情をしていた。
「ねえー、どこいくのー?」
奈津はそう言っているけど、僕は奈津の言葉を無視して走り続けた。
右手に見える公園や誰も居ない交差点、人がほとんど住んでいない2階建ての小さな団地が小刻みに揺れる。ゆるい下り坂で足がもつれそうになる。浅い緑色に覆われた山並みの奥に雲ひとつない6月らしい空が広がっていた。時折、冷たい風が向かいから吹いた。鼻から息を吸うと若草の匂いがした。
駅前通りから坂を下り、道道に出た。そして左に曲がる。奈津は握っていた僕の右手を離した。奈津を見ると、奈津は走るスピードをゆっくりと下げ、駆け足から歩くようになり、やがて立ち止まった。両膝に両手をあて、上半身を前のめりにして息を整えていた。
「待って――」
奈津はそう言ったあと、大げさに「はぁはぁ」と声を出して呼吸していた。奈津が呼吸するたびに肩が上がっていた。
僕も息が乱れていて、額に軽く汗をかきはじめていた。右手には奈津の左手の柔らかい感触が残っていた。
僕と奈津が息を整えている間、2台の車しか通らなかった。そして人は誰も通らなかった。スノードームの中のように街並みが水の中で静かに揺らいでいるようだった。本当に16時過ぎなのかと疑うほど、人の暮らしや、人の動き、人の気配を感じなかった。
僕は奈津の方まで歩み寄った。二人でその場で立ち止まったまま、呼吸を整えている。二人の呼吸音しか聞こえない。
「ちょっと。急だよ」
「ごめん」
「急だよ。――急すぎ」と奈津は言った。奈津の息はまだ整ってはいないように見えた。
「息、整った?」
「え、また走るの?」
「いや、歩こう」と僕はそう言ったあと、右手で奈津の左手を再び繋いだ。奈津の左手は弱く汗で湿っていた。
ゆっくり歩き始めた。相変わらず車通りは少なく、時々、一台の車が高速で通り抜け、そのたび、風圧を感じた。バブル崩壊前に作ったスイス風の市営住宅が右側に何棟か並んでいる。
一時期、この街は炭鉱の次の産業として、観光に力を入れようとした。スキー場を作ったり、温泉施設を作ったり、街の外装をスイスのチロル地方風にして観光の目玉にしようとした。そうした建物が古い建物と一緒に残っている。
奈津は何も言わなかった。どこに行くのとか、そういうことも話さなかった。奈津はただ黙って、僕に手を引かれて歩いている。黙々と川に沿って作られた道道を歩いた。少し歩くと悲別ロマン座の長くて大きな三角屋根が見えてきた。
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昔、炭鉱が栄えていた頃、悲別ロマン座は映画館だったらしい。トタン屋根の赤色は色あせて小豆になっている。悲別ロマン座は昔、倉本聰が作ったドラマのロケ地になった。
どんな話かよく知らないけど、この建物が物語の中で重要な役割をしたことを小学校のとき、何かの授業で聞いた。
悲別ロマン座の向かいの高台には、住友の立坑櫓がひっそりと建っていた。3階くらいの高さがある白色の筒の上に緑色の歯車が付いている。筒の外側には歯車を頂点に緑色の鉄骨が三角形を描くように機械的に建っている。その周囲は背の低い雑草が生い茂り、どこから来たのかわからない木の枝が無造作にコンクリートの上に置いてあった。
僕と奈津は悲別ロマン座の敷地に入った。悲別ロマン座の前は芝に覆われた広場になっていて、他の公園と同じように定期的に手入れされているようだった。
道道側に昔、炭鉱で使っていた錆びたトロッコが幅が狭いレールの上に乗っかっていた。
悲別ロマン座は正面からみると、昔、映画館であった風格が残っている。大きな三角屋根が手前に張り出し、入口前は巨大な雨よけのようになっている。久々に見た悲別ロマン座は鉄筋コンクリートでできた白川郷の合掌造りのように見えた。
中央に10枚くらいガラス扉があり、左右にはポスターが貼れるガラスケースがある。相当昔には公開中の映画のポスターや公開予定のポスターが貼られていたのだろう。建物の左右には悲別ロマン座より、背丈があるエゾマツが何本も生えていた。
悲別ロマン座の入口横に、茶色い看板が建っている。そこにはこのように書かれてた。
昨日悲別で
少年が生まれ
今日悲別で
少女と出逢った
明日悲別に
小さな灯がともる
「昨日、悲別で」
倉本聰
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僕と奈津は手を繋いだまま、悲別ロマン座の裏側に向かった。建物の裏側にはステージが作り込まれていて、野外イベントができるような作りになっている。ステージの前には何年前に置かれたのか、もうわからない木製のテーブルと長椅子が置いてあった。
僕と奈津はファミレスのボックスシートに座るように自然にお互いに向かい合って座った。
「リタイアしよう」
「え?」
「俺もリタイアしたいんだよ。一緒にリタイアしよう。こんな世界」と僕はそう言った。奈津はキョトンとした表情をしていた。
「一緒に自殺でもするの――?」
「自殺はしないよ」
僕はそう言ったあと、奈津に微笑んだ。
「自殺なんかしなくたって、人と社会と関わることを最小限にすればさ、リタイア出来るよ」
「社会との関係を断ち切って、社会的に自殺するってこと?」
「そう。そういうこと。社会的自殺」
「社会的自殺。――まだ16にもなってないのに?」と奈津はそう言った。奈津はにやけた表情をしていた。
「いや、真面目な話さ、そう思わない? 何、笑いそうになってるのさ」
「ごめん。社会的自殺ってなんか面白くて。まだ若いのに」と奈津はそう言って笑った。
「中二病でしょ?」
「中二だね」
「社会的自殺っていいかもね」
「だろ? いい考えだと思わない? 最初から諦めちゃおうよ。面倒な未来」
「うん。すごくいい。私と一緒に社会的自殺してくれるんでしょ?」
「そうだよ。社会的自殺しよう」
「わかった。いいよ」と奈津はそう言った。さっきまで柔らかく笑っていた奈津の表情が急に真顔になった。
「――これから先の未来を考えたら、たまに死にたくなるよね」
「そうだね。俺もそう思うよ」
また風がぶわっと吹き上げた。そのへんにある木々の葉が擦れて、きれいなざわめきが周囲を包んだ。奈津の耳にかかった肩ほどのショートボブの髪先が風と一緒に右に流れた。
「たまにね、砂漠に一人、ほっぽりだされたようにやるせなくなるときがあるの。動くのも面倒だし、動いても良いことがないって思ったりしちゃう感じ。わかる?」
「うん。わかるよ」
「それって、きっと社会的プレッシャーがそうさせてるんだと思うんだよね。日本って出る杭は打たれるでしょ? 私、そういう出る杭が打たれるのを見たり、しっかり収まる杭にもなりたくないのかも。その決まりきった生き方して、人並みに生きることを意識すると息ができなくなりそう」と奈津はそう言ったあと、上を向き、空を見ていた。そして、軽く頬を膨らませたあと、大きく息を吐いた。
「だからね、私、もう、こんなの嫌なの。ずっとこの繰り返しは嫌。この世の中が嫌だし、お金に縛られて生きるのも嫌。――なんでさ、世の中ってこんなに不条理なんだろうね」
「誰かがそういう風に世界を作ってるんじゃない? わからないけど」
「私ね、運命に逆らいたいと思って生きてきたの。きっとこれから先もそうするんだと思う。だから、過去も忘れられないし、未来に憂鬱になる。だからと言って、その場で立ち止まりたくないから、今は勉強して、それなりの人生送れるような準備をしているんだと思う。だけど、そんなの私の人生に必要なのかなってたまに思うんだ」
「そうだね」
「だからね。もっと、自分の意思で自分の人生決めたいし、もっとゆっくりしたいんだ。モガミとならそれができると思うの。私。だからさ、質素でいいから、何気ない日常をゆっくり過ごしたい」
「そうなんだ。俺も同じ気持ちだよ」
「ねえ。――私のこと助けて」と奈津は弱々しい声でそう言った。奈津を見ると涙目になっていた。そのあとすぐ、一粒の涙が奈津の頬を伝った。
「――いいよ。ずっと一緒に居よう」と僕はそう言ったあと、ボロボロのテーブルに右肘をつき、右手の小指を奈津の方に差し出した。奈津も右手の小指を差し出し、僕の小指と結んだ。
「ねえ、その根拠は?」
「根拠?」
「うん、永遠に一緒に居れる根拠を示してよ。私と一緒に社会的自殺するんでしょ」と奈津はそう言ったあと、優しく微笑んだ。
僕は次の言葉が思いつかず、そのまま奈津を見つめた。奈津の瞳は大きくて、このまま意識が吸い込まれてしまいそうになるくらい綺麗でどんな透明よりも澄んでいた。
「――ねえ、私、ずっと思ってたんだけど、タイムスリップしてるでしょ?」と奈津は平らな声でそう言った。小指と小指は、結ばれたままだった。
一瞬ドキッとした。どう答えたらいいかわからなくなって、僕はとっさに小指の力を緩めた。
「ねえ、聞いてる?」と奈津はそう言って、笑った。
「ごめん」と僕は咄嗟に謝った。
「どうしたの?」
「――いや、なんて言えばいいんだろうって思って」
「中2の2月にわかったよ」と奈津はそう言った。僕はさらに返す言葉が思いつかなかった。
「陰キャなんて言葉、知ってるはずないよね。この時代の人が」奈津は冗談とも本気とも取れないような表情をしていた。
「――そうだね」
「そうでしょ。私、残念だけど、そういうところ鈍感じゃないの」
奈津はそう言ったあと、ニコッとした表情をしていた。
「でさ、どうやってタイムスリップしたの? 中2のあの日でしょ。図書館に初めて誘ってくれた日」
「――そうだよ。あの日の前日に生まれ変わったんだよ。俺は」
「やっぱりそうなんだ。いつの時代から戻ってきたの?」
「2020年」
「未来人だね」と奈津はそう言って笑った。奈津の瞳は純粋な少女みたいだった。そんな目で僕は奈津に見つめられている。
「そうだね。ナツを図書館に誘った日は、タイムスリップして1日目だったよ」
「へえ。本当にタイムスリップしたんだ」
奈津は完全に僕のことを面白がっている。というか、なんで奈津はタイムスリップを信じているんだろう――。
「あっ」
「え、なに?」
「――つまりさ、ナツも陰キャって言葉を知ってるってことだよね?」
「そうだよ。だって、私も2020年を知ってるから」と奈津はさらっとそう言った。僕は頭の中で話が追いつかなくなった。
「――私ね、3回成功させてるの」