37
「ねえ、知ってる?」と奈津は僕に話しかけた。
「ねえってば」と奈津はもう一度、催促するようにそう言った。僕は隣に座っている奈津を見た。奈津は不思議そうな表情をしていた。僕はしばらく奈津の顔を見て、奈津を抱きしめた。
「え、ちょっと――」と奈津はそう言って僕を振り払おうとしたけど、それを諦めて、そのままでいた。弱くて涼しい風が吹いた。
「――ナツ」
僕はまだ、リアルを感じることができなかった。だけど、奈津の体温は確かに感じることができたし、柔らかくて、細い身体を思いっきり抱きしめていることを感じることができる。
奈津はしばらく黙ったまま、僕の胸の中にいた。奈津の髪からは甘い香りがする。
――これは夢じゃない。
「ナツ。次は俺がナツのこと救うから」
僕はそう夏の耳元で囁いたあと、そっと奈津を離した。
「どういうこと。――それより、アイス、まだ半端だから食べていい?」と奈津は困惑したような声でそう言った。
「ごめん。――アイス食べよう」と僕はそう言った。
歌志内駅のホーム上にあるベンチに座って、ソフトクリームのような形に冷凍されたアイスを食べている。西日が強くなってきて、より一層、あたりはオレンジ色が支配し始めた。お互い、静かにアイスを食べている。本当に綺麗な夕焼けだった。
☆
僕と奈津はアイスを食べ終わり、アイスが入っていたプラスチックカップをビニール袋に入れた。奈津は左腕にフルラの腕時計をつけていた。シンプルな白の文字板にゴールドのベゼル、赤い艶のあるベルトが絶妙におしゃれを作っていた。
「え、赤い……」
「なにがさ」と奈津は怪訝そうな声でそう言った。
「時計のベルト、赤い」
「うん。そうだよ」
奈津は左腕を僕の方に向けて、時計を見せてきた。フルラの時計は奈津が左腕を動かすたびに夕日を反射してキラキラしていた。
「――ずっと、そうだった?」
「え、だから、なにが?」
「ベルトの色。――緑だったよな」
「ずっと赤色だよ――」
奈津もなぜか驚いた表情をしていた。僕はまだ、呆気に取られたままだった。
「そうか。――ごめん。赤だよね」
「変なの」
奈津はそう言って微笑んだ。そのあと、すぐになにか言いたげな表情をしていたけど、僕はそれを無視して話を続けることにした。
「――ごめん。すごい似合ってるよ。その時計。大人っぽくて、いいよね」
「それ、さっきも聞いた」
「似合ってるから何回でも言うよ。かわいいって」と僕はそう言ったあと、奈津の表情を見ると顔が赤くなっていた。
奈津もベンチも列車が来ないホームもすべてが夕焼けに染まり、腐りかけた木製の電信柱の影は、錆びた線路を分断していた。二度と使われず、替えられることもない枕木の香りが余計、際立った。
「私ね。たまらなく寂しくなる時があるの」
奈津は静かにそう話し始めた。
「昔、好きだった寂しい曲を永遠にループしてその日一日、ぼんやり過ごすようなそんな寂しさ。そんなとき思うんだ。どうせ、私のことなんて理解してくれる人なんてこれっぽっちもいないんだってね。そういうとき、どうでもよくなっちゃう。自分が」
「――そっか。理解するように努力するよ」
「ううん。違うよ。――モガミは私のこと、唯一、理解してくれる人だと思う」
僕は思わず、左手で奈津の右手を握った。指をしっかりと絡めて、ぎゅっと握った
「だから、私、もう、モガミと離れたくないの」
「俺もだよ。今、繋いだ手を二度と離したくない」
僕はそう言ったあと、奈津をしっかりと見つめた。奈津も僕のことをじっと見つめている。
「モガミ、ずっと、一緒にいたいね」
「まだ、付き合い始めだけどね」と僕がそう言うと、二人で弱く笑った。
「ねえ。同じ高校目指すって言ってくれてありがとう。嬉しかったよ」
夏にそう言われて、僕は少しだけ照れくさくなり、上を向いた。空は相変わらずオレンジ色をしていて、吸い込まれそうな気がした。
「私さ、こうやって人と同じ目標に向かって、なにかするのって初めてなんだよね。こうやって誘ってくれた人も今までの中でいなかったし。――みんな私のことなんて解ってないんだよ。本質的に。私のこと、解ろうとしないでわかった気になってるの。これをすることが当たり前だとか、これやっておいてだとか、あなたは今こういう状態だから無理だとか、そういうこと周りの人から聞かされると本当の私って一体何者なんだろうってたまに思うの。――本当の自分はどんな自分で、自分が一体、何を求めているのかわからないってことなのかもね」
「――俺も奈津のこと、わかってないかもしれない」
「ううん。違うよ」
奈津は優しく否定したけど、僕はそう思わなかった。奈津のことはまだ、これっぽっちも僕はわかっていない――。
「俺はわかってないよ。奈津のこと。もっと奈津のこと知りたいし、もっと、真剣になって二人の時間を過ごしたい」
「――私もだよ。モガミ」
「だから、二人で一緒に楽しく過ごそう」
奈津はうんと小さく頷いて、微笑んだ。
「これから俺とナツ、二人で自分が一体何者なのかを求めに行こう。一緒に」
「――そうだね。モガミとなら一緒になにか見れるかもしれないね。――私さ、たぶんね、本質的に人と関わりたくないのかもしれない。人に求められてることをすぐに察して、すぐに人に合わせちゃうの。昔から。だから、一線引いて自分の本音をどこかにしまい込んでいるのかもね」と奈津はそう言った。
「ねえ、大人になったらこの街を離れて、もっと多くの人と関わるわけでしょ。そうなると、自分の本音って一生抑え込んで生きていくしかないのかな」
「そうかもしれないね。だけど、一人でも本音で話せる人がいればいいんじゃない? 俺がそうなれるように努力するよ」
「本当に? まだ付き合って一日目なのにそんなこと言っていいの?」
「ううん。俺たち、一日目じゃないよ。図書館に通ってたときからだから5ヶ月目だよ。――不思議だけど、ナツとは随分長く付き合っているような気がするし、すごく上手くいくような気がする」
「――本当?」
「本当だよ。だけど、これだけは言えるよ。ナツのこと、これからもっと知りたい」
「私もだよ。モガミ」と奈津はそう言ったあと、僕の右手にそっと左手を乗せた。奈津の手は温かくて、少し汗ばんでいた。
「ねえ。約束してほしいことがあるの」
「なに?」
「もし、私が死んだときは今日のこと思い出して」
「――そんなの、約束しなくたって思い出すよ。今日のこと」
僕がそう言ったあと、奈津は右手の小指を差し出した。僕は右手の小指を奈津の小指に結んだ。そして、柔らかく指切りをした。
38
このタイムスリップでも、僕と奈津は当たり前のように同じ高校に合格した。奈津が死ぬ前と同じように出来事が起き、しっかりと1年、時が経った。その間に、新たな思い出を奈津と紡ぎ、ゆっくりと穏やかに、そして確実に時は進んでいった。
そして、奈津の命日になる日を迎えた――。
☆
高校が終わったあと、ダイエーのフードコートにあるミスドで奈津とドーナッツを食べていた。前回と何も変わっていなければ、奈津は今日の夜に交通事故に遭うことになる。僕はいつも通り、奈津と過ごし、奈津が帰る時間を遅くしようと思った。それ以外は柔軟に動いて、絶対に奈津を死なせないようにすることを何度もシミュレーションした。
「大丈夫? 顔色悪いよ。今日」
奈津はそう言ったあと、フレンチクルーラーを一口食べた。
「――昨日、あんまり寝れなかったんだ」
「へぇ。かわいそうなモガミくん」
「――なあ、今日さ、遅くまでいよう」
「えー、疲れてるから嫌だな。それにあんまりお金持ってきてないし」
「俺、出すから、一緒に晩飯食べたいな」と僕はそう言ったあとに、それでは奈津の親が交通事故に遭うことは変わらないかもしれないことに、ふと気づいた。
「今度ね。今日は帰りたい」
「――わかった」と僕はそう言った。奈津はカフェオレを一口飲んだ。マグカップを置いたあと、奈津は左手の人差し指で小刻みにテーブルを弱く叩いた。それが数秒続いたあと、急に人差し指は動きは止まった。
「ねえ。もし生活に困らないくらいお金があったら、何したい?」と奈津はそう言った。
「――わからない。そんな生活したことないから」
「そうだね。そういう答えになるよね」
「そういうナツはどうなの?」
「私はお金があったら、このまま何事もなく過ごしたい。――だけど、そんなの難しいね。親に道外の大学、東京の大学行って、外の世界見てこいって言われてるから、ブランドがある大学に進学しないとダメだね」と奈津はそう言ったあと、小さくため息をついた。
「そんなに親が東京にこだわってるの?」
「うん。親が後悔してるんだって。親が自分の人生、振り返ると道外に出れるチャンスは大学進学のときしかなかったって思ってるんだって。道内の大学行ったら、就職先も自然と道内になっちゃうでしょ。昔だったら。ウザいよね。そういうの。だから、大学は東京の大学行けって、すごいうるさい」
「そうなんだ」
「それにさ、私のおばさんが東京に住んでるから、そこに住まわせてもらって大学行けばいいとか言ってるんだよね。だけどさ、そもそも大学生なるんだから、進路くらい自分で決めても良くない? 私が行きたい大学を選んだり、住む場所を選んだっていいじゃん。私、もし大学行くにしても札幌で十分だもん。大学生なんだからさ、自由にさせておけばいいじゃん。なのに、それは頭にないみたい。あーあ。もし、私が東京に行くことになったら、私たち、どうなるだろうね」
また、似たようなやり取りだ。デジャブのように前回のやり取りが頭の中で再生された。
――きっと、こう言って欲しかったのかもしれない。
「俺も行けるようにするよ。東京。それか俺がナツと一緒に入れるように頑張る」
「本当に? 今度は大学だから、大変だよ?」
「うん、俺、頑張るよ」
「――嬉しい」
「だけど、ナツは本当に東京の大学に行きたいの? 自分の人生において。行く必要があるなら俺もついて行く。全部、ナツ次第だよ」
「え。私次第なの?」
「うん、ナツ次第」
「――ありがとう。あ、もう片付けないとやばいね」と奈津はそう言ったあと、自分の荷物をまとめ始めた。
「なあ、バス、一本送らせない?」
「え、遅らせてどうするのさ」
「カラオケ行こうよ。久しぶりに」
「えー気分じゃない。それにしつこい。ほら片付けて行くよ」と僕は奈津にそう言われて渋々片付け始めた。
39
バスの中は今日も僕と奈津以外の客は老人だった。何人かはスーパーのレジ袋を持っていて、何人かは薬局のレジ袋を持っていた。みんな滝川で用事を済ませて、バスで歌志内に帰る。そういうことをしている人たちだ。
奈津は窓枠に頬杖を付き、黙って外を眺めていた。僕は奈津に話しかけずそっとすることにした。いくつかのバス停の名前が自動音声で案内された。だけど、乗る人も降りる人もいなかった。
お互いに黙ったまま、バス停に着いた。そして、無言で席から立ち上がり、バスを降りた。奈津は立ち止まったままだった。奈津が立ち止まっている間にバスは発車していった。
「ねえ」と奈津は冷たく低い声でそう言った。
「なに?」
「なんでずっと黙ってたの」
「そうしたほうが良いと思ったからだよ」
「ねえ、それって優しさなの?」
「うん。優しさだと思ってる。そっとしといたんだよ。――なあ、奈津。今日の夜、電話しよう」
「いいよ。どうしたの急に」
「――嫌な予感するんだよ。だからさ、今日は奈津も奈津の親もさ、出かけないほうがいいよ」
「え、なにそれ?」と奈津はそう言ったあと怪訝そうな表情をした。
僕は大きくため息をついた。そして、ずっと考えてきた方法で奈津に伝えることにした。
「俺、これから予言するね」
「え、予言?」
奈津はよくわからないと言いたげな表情を僕に見せ、頬杖をやめた。
「帰ったらさ、親に出かけようって言われると思うんだ」
「――うん」
「そしたらさ、断ってほしい」
「――どうして?」
「車で事故るから」
僕がそう言ったあと、お互いに黙ったままになった。ついに奈津に事故のことを言った。
「――嘘でもそんなこと言わないでよ」
「いや、嘘じゃないんだ。そういう夢を見たんだよ。だから、やめてほしい」
全部、予知夢の所為にしているけど、本当のことなんだ。って言いたかった。――だけど、それは言えない。
「――わかった。親に伝えてみる」
奈津はポツリとそう言って、僕は思わず奈津を二度見した。
「お願いだから外に出ないで。俺は奈津を失いたくない」と僕は奈津の手を握ってそう言った。
「わかったって。出ないから。外」
「8時に電話しよ?」
「いいよ。親にはモガミから電話来るから出かけないって言っておく」
「いや、親も出かけさせちゃダメだよ。マジで。お願いだから」
「もう、わかったって。わかったから」と奈津はそう言って、僕の手をそっと離した。
「マジなやつね」
「わかったよ。バイバイ。夜、話そうね」と奈津はそう言った。
「バイバイ」
僕がそう言ったあと、奈津は奈津の実家の方へ歩き始めた。僕はその場に立ったまま、奈津の背中を見ていた。奈津の姿はどんどん遠くなり、あっという間に遠くへ行ってしまった。僕は奈津の姿が見えなくなったあと、大きなため息をついた。そして、家に帰ることにした。
40
8コール目。
携帯を持つ手が徐々に震えてきた。僕の心臓が破裂する思いがした。僕が回避できる方法はどう考えてもこれしかなかった。奈津はこのあと20時半ごろに事故に遭う。今、車で出かけなければいい。
9コール目。まだ電話は繋がらない。
10コール目。
コール音が切れた。
「ねえ、知ってる?」と奈津は僕に話しかけた。
「ねえってば」と奈津はもう一度、催促するようにそう言った。僕は隣に座っている奈津を見た。奈津は不思議そうな表情をしていた。僕はしばらく奈津の顔を見て、奈津を抱きしめた。
「え、ちょっと――」と奈津はそう言って僕を振り払おうとしたけど、それを諦めて、そのままでいた。弱くて涼しい風が吹いた。
「――ナツ」
僕はまだ、リアルを感じることができなかった。だけど、奈津の体温は確かに感じることができたし、柔らかくて、細い身体を思いっきり抱きしめていることを感じることができる。
奈津はしばらく黙ったまま、僕の胸の中にいた。奈津の髪からは甘い香りがする。
――これは夢じゃない。
「ナツ。次は俺がナツのこと救うから」
僕はそう夏の耳元で囁いたあと、そっと奈津を離した。
「どういうこと。――それより、アイス、まだ半端だから食べていい?」と奈津は困惑したような声でそう言った。
「ごめん。――アイス食べよう」と僕はそう言った。
歌志内駅のホーム上にあるベンチに座って、ソフトクリームのような形に冷凍されたアイスを食べている。西日が強くなってきて、より一層、あたりはオレンジ色が支配し始めた。お互い、静かにアイスを食べている。本当に綺麗な夕焼けだった。
☆
僕と奈津はアイスを食べ終わり、アイスが入っていたプラスチックカップをビニール袋に入れた。奈津は左腕にフルラの腕時計をつけていた。シンプルな白の文字板にゴールドのベゼル、赤い艶のあるベルトが絶妙におしゃれを作っていた。
「え、赤い……」
「なにがさ」と奈津は怪訝そうな声でそう言った。
「時計のベルト、赤い」
「うん。そうだよ」
奈津は左腕を僕の方に向けて、時計を見せてきた。フルラの時計は奈津が左腕を動かすたびに夕日を反射してキラキラしていた。
「――ずっと、そうだった?」
「え、だから、なにが?」
「ベルトの色。――緑だったよな」
「ずっと赤色だよ――」
奈津もなぜか驚いた表情をしていた。僕はまだ、呆気に取られたままだった。
「そうか。――ごめん。赤だよね」
「変なの」
奈津はそう言って微笑んだ。そのあと、すぐになにか言いたげな表情をしていたけど、僕はそれを無視して話を続けることにした。
「――ごめん。すごい似合ってるよ。その時計。大人っぽくて、いいよね」
「それ、さっきも聞いた」
「似合ってるから何回でも言うよ。かわいいって」と僕はそう言ったあと、奈津の表情を見ると顔が赤くなっていた。
奈津もベンチも列車が来ないホームもすべてが夕焼けに染まり、腐りかけた木製の電信柱の影は、錆びた線路を分断していた。二度と使われず、替えられることもない枕木の香りが余計、際立った。
「私ね。たまらなく寂しくなる時があるの」
奈津は静かにそう話し始めた。
「昔、好きだった寂しい曲を永遠にループしてその日一日、ぼんやり過ごすようなそんな寂しさ。そんなとき思うんだ。どうせ、私のことなんて理解してくれる人なんてこれっぽっちもいないんだってね。そういうとき、どうでもよくなっちゃう。自分が」
「――そっか。理解するように努力するよ」
「ううん。違うよ。――モガミは私のこと、唯一、理解してくれる人だと思う」
僕は思わず、左手で奈津の右手を握った。指をしっかりと絡めて、ぎゅっと握った
「だから、私、もう、モガミと離れたくないの」
「俺もだよ。今、繋いだ手を二度と離したくない」
僕はそう言ったあと、奈津をしっかりと見つめた。奈津も僕のことをじっと見つめている。
「モガミ、ずっと、一緒にいたいね」
「まだ、付き合い始めだけどね」と僕がそう言うと、二人で弱く笑った。
「ねえ。同じ高校目指すって言ってくれてありがとう。嬉しかったよ」
夏にそう言われて、僕は少しだけ照れくさくなり、上を向いた。空は相変わらずオレンジ色をしていて、吸い込まれそうな気がした。
「私さ、こうやって人と同じ目標に向かって、なにかするのって初めてなんだよね。こうやって誘ってくれた人も今までの中でいなかったし。――みんな私のことなんて解ってないんだよ。本質的に。私のこと、解ろうとしないでわかった気になってるの。これをすることが当たり前だとか、これやっておいてだとか、あなたは今こういう状態だから無理だとか、そういうこと周りの人から聞かされると本当の私って一体何者なんだろうってたまに思うの。――本当の自分はどんな自分で、自分が一体、何を求めているのかわからないってことなのかもね」
「――俺も奈津のこと、わかってないかもしれない」
「ううん。違うよ」
奈津は優しく否定したけど、僕はそう思わなかった。奈津のことはまだ、これっぽっちも僕はわかっていない――。
「俺はわかってないよ。奈津のこと。もっと奈津のこと知りたいし、もっと、真剣になって二人の時間を過ごしたい」
「――私もだよ。モガミ」
「だから、二人で一緒に楽しく過ごそう」
奈津はうんと小さく頷いて、微笑んだ。
「これから俺とナツ、二人で自分が一体何者なのかを求めに行こう。一緒に」
「――そうだね。モガミとなら一緒になにか見れるかもしれないね。――私さ、たぶんね、本質的に人と関わりたくないのかもしれない。人に求められてることをすぐに察して、すぐに人に合わせちゃうの。昔から。だから、一線引いて自分の本音をどこかにしまい込んでいるのかもね」と奈津はそう言った。
「ねえ、大人になったらこの街を離れて、もっと多くの人と関わるわけでしょ。そうなると、自分の本音って一生抑え込んで生きていくしかないのかな」
「そうかもしれないね。だけど、一人でも本音で話せる人がいればいいんじゃない? 俺がそうなれるように努力するよ」
「本当に? まだ付き合って一日目なのにそんなこと言っていいの?」
「ううん。俺たち、一日目じゃないよ。図書館に通ってたときからだから5ヶ月目だよ。――不思議だけど、ナツとは随分長く付き合っているような気がするし、すごく上手くいくような気がする」
「――本当?」
「本当だよ。だけど、これだけは言えるよ。ナツのこと、これからもっと知りたい」
「私もだよ。モガミ」と奈津はそう言ったあと、僕の右手にそっと左手を乗せた。奈津の手は温かくて、少し汗ばんでいた。
「ねえ。約束してほしいことがあるの」
「なに?」
「もし、私が死んだときは今日のこと思い出して」
「――そんなの、約束しなくたって思い出すよ。今日のこと」
僕がそう言ったあと、奈津は右手の小指を差し出した。僕は右手の小指を奈津の小指に結んだ。そして、柔らかく指切りをした。
38
このタイムスリップでも、僕と奈津は当たり前のように同じ高校に合格した。奈津が死ぬ前と同じように出来事が起き、しっかりと1年、時が経った。その間に、新たな思い出を奈津と紡ぎ、ゆっくりと穏やかに、そして確実に時は進んでいった。
そして、奈津の命日になる日を迎えた――。
☆
高校が終わったあと、ダイエーのフードコートにあるミスドで奈津とドーナッツを食べていた。前回と何も変わっていなければ、奈津は今日の夜に交通事故に遭うことになる。僕はいつも通り、奈津と過ごし、奈津が帰る時間を遅くしようと思った。それ以外は柔軟に動いて、絶対に奈津を死なせないようにすることを何度もシミュレーションした。
「大丈夫? 顔色悪いよ。今日」
奈津はそう言ったあと、フレンチクルーラーを一口食べた。
「――昨日、あんまり寝れなかったんだ」
「へぇ。かわいそうなモガミくん」
「――なあ、今日さ、遅くまでいよう」
「えー、疲れてるから嫌だな。それにあんまりお金持ってきてないし」
「俺、出すから、一緒に晩飯食べたいな」と僕はそう言ったあとに、それでは奈津の親が交通事故に遭うことは変わらないかもしれないことに、ふと気づいた。
「今度ね。今日は帰りたい」
「――わかった」と僕はそう言った。奈津はカフェオレを一口飲んだ。マグカップを置いたあと、奈津は左手の人差し指で小刻みにテーブルを弱く叩いた。それが数秒続いたあと、急に人差し指は動きは止まった。
「ねえ。もし生活に困らないくらいお金があったら、何したい?」と奈津はそう言った。
「――わからない。そんな生活したことないから」
「そうだね。そういう答えになるよね」
「そういうナツはどうなの?」
「私はお金があったら、このまま何事もなく過ごしたい。――だけど、そんなの難しいね。親に道外の大学、東京の大学行って、外の世界見てこいって言われてるから、ブランドがある大学に進学しないとダメだね」と奈津はそう言ったあと、小さくため息をついた。
「そんなに親が東京にこだわってるの?」
「うん。親が後悔してるんだって。親が自分の人生、振り返ると道外に出れるチャンスは大学進学のときしかなかったって思ってるんだって。道内の大学行ったら、就職先も自然と道内になっちゃうでしょ。昔だったら。ウザいよね。そういうの。だから、大学は東京の大学行けって、すごいうるさい」
「そうなんだ」
「それにさ、私のおばさんが東京に住んでるから、そこに住まわせてもらって大学行けばいいとか言ってるんだよね。だけどさ、そもそも大学生なるんだから、進路くらい自分で決めても良くない? 私が行きたい大学を選んだり、住む場所を選んだっていいじゃん。私、もし大学行くにしても札幌で十分だもん。大学生なんだからさ、自由にさせておけばいいじゃん。なのに、それは頭にないみたい。あーあ。もし、私が東京に行くことになったら、私たち、どうなるだろうね」
また、似たようなやり取りだ。デジャブのように前回のやり取りが頭の中で再生された。
――きっと、こう言って欲しかったのかもしれない。
「俺も行けるようにするよ。東京。それか俺がナツと一緒に入れるように頑張る」
「本当に? 今度は大学だから、大変だよ?」
「うん、俺、頑張るよ」
「――嬉しい」
「だけど、ナツは本当に東京の大学に行きたいの? 自分の人生において。行く必要があるなら俺もついて行く。全部、ナツ次第だよ」
「え。私次第なの?」
「うん、ナツ次第」
「――ありがとう。あ、もう片付けないとやばいね」と奈津はそう言ったあと、自分の荷物をまとめ始めた。
「なあ、バス、一本送らせない?」
「え、遅らせてどうするのさ」
「カラオケ行こうよ。久しぶりに」
「えー気分じゃない。それにしつこい。ほら片付けて行くよ」と僕は奈津にそう言われて渋々片付け始めた。
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バスの中は今日も僕と奈津以外の客は老人だった。何人かはスーパーのレジ袋を持っていて、何人かは薬局のレジ袋を持っていた。みんな滝川で用事を済ませて、バスで歌志内に帰る。そういうことをしている人たちだ。
奈津は窓枠に頬杖を付き、黙って外を眺めていた。僕は奈津に話しかけずそっとすることにした。いくつかのバス停の名前が自動音声で案内された。だけど、乗る人も降りる人もいなかった。
お互いに黙ったまま、バス停に着いた。そして、無言で席から立ち上がり、バスを降りた。奈津は立ち止まったままだった。奈津が立ち止まっている間にバスは発車していった。
「ねえ」と奈津は冷たく低い声でそう言った。
「なに?」
「なんでずっと黙ってたの」
「そうしたほうが良いと思ったからだよ」
「ねえ、それって優しさなの?」
「うん。優しさだと思ってる。そっとしといたんだよ。――なあ、奈津。今日の夜、電話しよう」
「いいよ。どうしたの急に」
「――嫌な予感するんだよ。だからさ、今日は奈津も奈津の親もさ、出かけないほうがいいよ」
「え、なにそれ?」と奈津はそう言ったあと怪訝そうな表情をした。
僕は大きくため息をついた。そして、ずっと考えてきた方法で奈津に伝えることにした。
「俺、これから予言するね」
「え、予言?」
奈津はよくわからないと言いたげな表情を僕に見せ、頬杖をやめた。
「帰ったらさ、親に出かけようって言われると思うんだ」
「――うん」
「そしたらさ、断ってほしい」
「――どうして?」
「車で事故るから」
僕がそう言ったあと、お互いに黙ったままになった。ついに奈津に事故のことを言った。
「――嘘でもそんなこと言わないでよ」
「いや、嘘じゃないんだ。そういう夢を見たんだよ。だから、やめてほしい」
全部、予知夢の所為にしているけど、本当のことなんだ。って言いたかった。――だけど、それは言えない。
「――わかった。親に伝えてみる」
奈津はポツリとそう言って、僕は思わず奈津を二度見した。
「お願いだから外に出ないで。俺は奈津を失いたくない」と僕は奈津の手を握ってそう言った。
「わかったって。出ないから。外」
「8時に電話しよ?」
「いいよ。親にはモガミから電話来るから出かけないって言っておく」
「いや、親も出かけさせちゃダメだよ。マジで。お願いだから」
「もう、わかったって。わかったから」と奈津はそう言って、僕の手をそっと離した。
「マジなやつね」
「わかったよ。バイバイ。夜、話そうね」と奈津はそう言った。
「バイバイ」
僕がそう言ったあと、奈津は奈津の実家の方へ歩き始めた。僕はその場に立ったまま、奈津の背中を見ていた。奈津の姿はどんどん遠くなり、あっという間に遠くへ行ってしまった。僕は奈津の姿が見えなくなったあと、大きなため息をついた。そして、家に帰ることにした。
40
8コール目。
携帯を持つ手が徐々に震えてきた。僕の心臓が破裂する思いがした。僕が回避できる方法はどう考えてもこれしかなかった。奈津はこのあと20時半ごろに事故に遭う。今、車で出かけなければいい。
9コール目。まだ電話は繋がらない。
10コール目。
コール音が切れた。