11 
 家に帰ると当たり前のようにご飯があり、親とそれなりに話をした。

 部屋に戻り、ノートに今までの出来事を思い出せる限り、書き出していった。ページの真ん中に縦線を入れて、奈津と僕の2つの時系列を作り、思い出せることを書き込んだ。

 出来上がった時系列は、左側が黒くなり、右側は白くなった。高校を卒業して以降、奈津が一体何をしているのかわからなかった。

 右手に持っていたペンを置いた。ペンはノートの上を転がり、そして止まった。ノートの横に置いていた携帯を右手で持ち、親指で画面を開いたり閉じたりを繰り返した。携帯はその度にせわしく音を立てた。

 大学2年の頃、付き合っていた彼女と半年で別れた。彼女から告白されて付き合って、彼女から別れを告げられた一方的な恋だった。

 別れた原因は、きっと僕がバイトと大学の往復でほぼ休みの日がなかったからだと思っている。

 彼女にかまう余裕もなく、彼女と連絡をマメにしなかった。クリスマス前に付き合い始めて、大通公園のホワイトイルミネーションを見に行って、サッポロファクトリーの大きなクリスマスツリーを見に行ったデートを思い出した。

 大学の学食を一緒に食べたり、クリスマスデート後も2、3回くらいカフェに行ったり、ホテルに行ったりしたけど、クリスマスの雰囲気が遠くなるにつれて、元々、歯車なんてかみ合っていなかったかのようにお互いの心が離れていった。

 別れるとき、彼女はこう言った。

「私達さ、何にもなかったね。モガミのこと知りたくて距離縮めようとしたけど、無理だった。私達、なにもできなかった。ゼロだね。ゼロ。だから早いうちに別れたほうがいいよ。モガミのためにもなるし、私のためにもなるから」

 彼女は僕と別れた4年後に結婚して、女の子を産んだ。僕がそのことを知ったのは、二度と連絡することはない彼女のLINEのアイコンが赤ん坊の顔になり、登録名の苗字が変わっていたからだった。



12
 学年が一つ上がっても相変わらず奈津と一緒に図書館通いをした。新学期から、クラスの担任が、新しく赴任してきたコバヤシになった。28歳の男の教師で口が達者だった。小林は170センチくらいの平均的な身長だけど、筋肉質で肩幅が広く、引き締まって見えた。

 昨年度までの女の担任は興部(おこっぺ)に転勤になった。その代わりに、このコバヤシがやってきた。ハキハキしていて、仕事ができそうな雰囲気に見えた。雪が溶けて、奈津と僕は自転車で通学するようになった。

 学校では、すでに僕と奈津が付き合っている噂が出始めたけど「一緒に勉強してるだけだ」というスタンスを貫いた。

 この街には塾もないから、真剣に高校受験をする場合、砂川か赤平(あかびら)にある塾に通うのが普通だ。だけど、僕は奈津と居たいからそれを選ばなかった。奈津も塾には通わなかった。

 奈津はすでに塾に通う必要が無いくらい勉強のコツを掴んでいた。僕はわからないところは奈津に教えてもらった。奈津の教え方はとてもわかりやすかった。奈津に家庭教師をやってもらっているような不思議な感じがした。

 5月の三者面談でコバヤシから「お前の頭じゃ、滝川中央は無理だ。バカはバカなりのところ行かないと行けないんだよ。そうしないと、お前、ここに住んでたら、行く高校無いぞ」と罵られ、コバヤシと喧嘩した。

 「無理じゃねーよ。馬鹿野郎!」と声を荒げ、僕はコバヤシの胸ぐらを掴んだ。それ以来、コバヤシとの関係はものすごく悪くなった。
 
 僕がコバヤシにキレたこと、僕が進学校を受験しようとしていることが、学校中の噂になった。そして、バカですぐにキレるキャラとして周りから冷たい目で見られるようになった。

 コバヤシはいい人だということが学校中の当たり前になっていたから、そんなコバヤシにキレる僕は学校の中で奇妙な存在になった。

 もちろん、クラスでも浮くようになった。それまで友達だと思って話していた友達も、腫れ物を触るみたいに当たり障りなく、僕を会話の輪から外すようになった。

 友達との付き合いがなくなり、学校でも暇さえあれば勉強するようになった。だから、僕は中二病をこじらせていて、すぐにキレるヤバイやつで、バカなのに勉強するバカというよくわからないキャラクターになっていた。
 
 奈津は僕と対照的で相変わらず優等生キャラだった。どの人とも、程よくいい感じに仲良くやっているように見えた。一学年26人しかいないから、一度クラスで浮いてしまうと、元に戻るのはほぼ不可能になる。特に女子の場合はグループを外れると、地獄みたいな日々が待っているはずだ。
 
 僕がこんなポジションになったから、奈津も奇妙な目で見られ始めるようになった。奈津も中二病の男と付き合っているという妙なレッテルを周りから貼られつつあった。



13
「それ、面白い?」

 僕は奈津に聞いた。文庫本には『ナイン・ストーリーズ』と書かれていた。

 梅雨がない6月も相変わらず、図書館で奈津と勉強を続けている。3年生になって最初のテストまで、まだ1ヶ月以上も先だ。

「ううん。さっぱりわからない」
「難しいかった?」
「うん。難しいし、可哀想な話だった。何回も読んでもわからないや」と奈津はそう言ったあと、文庫本を机に置いた。そして、右手で頬杖をついて外を眺め始めた。
 
 右手で弱く顎を支え、右手にショートボブの髪が柔らかくかかっていた。色素が薄い髪は太陽の光を浴びて、茶色く透き通っていた。外を眺めている奈津の表情は時折、寂しさの余韻と大人っぽさを感じた。
 
「ねえ、モガミ。――なんで、コバヤシにキレたの」と奈津は外を見たまま、ぼそっと、そう言った。

「――悪かった」

 僕がそう言ったあと、しばらく静かな時間が流れた。
 
「――謝ることないよ。多分、今、この話信じてるの、私だけだよ」と奈津はそう言ったあと、僕をじっと見始めた。そのあとすぐ、奈津はさっきの表情とは違い、柔らかい表情をした。

「だけど、大人げないよね」
「だよね」と僕が言ったあと、奈津が笑った。

「どっちもだけど、コバヤシが。――あいつ、頭良さそうなのにね」
「気に食わないんだろうな。俺のこと」
「気に食わないとかそういうのじゃないと思うよ」
「どういうこと?」
「誰かを陥れるのが好きなんじゃない? コバヤシって。陥れたヤツの不幸な姿を見て、楽しむのが趣味なんじゃない」と奈津はニヤニヤした表情をして、楽しそうにそう言った。
 
「やめろよ。変な妄想は」
「ううん。マジなやつ。だって、普通、保護者がいるのにあんなことしないよね? 意図的にやったんじゃないの? しかもモガミがしくじった次の日に噂流れるのも変だったし、コバヤシが言いふらしたんじゃない?」
「え、俺、めっちゃ、可愛そうじゃん」と僕はそう言ったあと二人で笑った。
 
「ねえ。モガミ。私はモガミと一緒に居て、私にレッテルが貼られても、そんなこと、どうでもいいって思ってるの。だって、あと1年もしないうちに終わる関係じゃん。だからね、そんなことなんてどうでもよくて、1年後、モガミと一緒に通う高校に合格するほうが大切だと思ってる」と奈津は僕の目をじっと見てそう言った。僕は奈津の目に吸い込まれるようなそんな感覚がして、思わず黙ってしまった。
 
「ずっと、一緒に居たいから、今、頑張ろう」と奈津は静かにそう言った。



14
 期末テストの返却が始まった。最初は数学だった。最初に名前を呼ばれたのは僕だった。つまり、クラスで最高得点を取ったということだった。

 僕の名前が呼ばれた瞬間、クラスメイト全員が僕を一斉に見た。そのあと、ざわざわと複数人が一斉に話始めた。誰かが、マジだったんだと小声で言っているのが聞こえた。僕は立ち上がり、テストを取りに行った。一瞬奈津を見たら、奈津はニヤリとした表情をして、僕にアイコンタクトした。
 
 他の教科でも奈津よりも先に僕が呼ばれた。奈津と僕、だいたい半々くらいで学年1位を取っていた。そして、すべてのテスト返却が終わった後のホームルームで、コバヤシがすべての教科のテスト点数を合わせた学年内での順位と各テストの点数が記されてる紙を渡すと言った。コバヤシは僕の名前を奈津より先に呼んだ。

「すごいな。カンニングしたかいあったな。おめでとう!」とコバヤシが言った瞬間、教室がドカンと笑いに包まれた。クラスメイトは腑に落ちたようにしっかりと笑っていた。

 コバヤシが言うと、なぜかそれはジョークのようになった。僕は立ち上がり、コバヤシのところまで行き、点数が書かれた紙を受け取った。奈津をちらっと見たら、奈津は浮かない顔をしていた。
 
 次に奈津が呼ばれた。

「すごいね。いつもどおり頑張ったな」とコバヤシはもっともらしい言葉を奈津に言った。

一学期の終業式が終わり、通知箋が返された。「よくできました」の欄に○がたくさん並んでいた。

 担任からの通信欄には「勉強は継続が大事です。人の気持ちを汲み取るような生活態度を心がけましょう。周囲への配慮がかけています」と綺麗な字でしっかりとした筆圧で書かれていた。

 もらったその場で通知箋を破り捨てたくなったが、夏休み明けに返すことを思い出し、クリアファイルに放り込んだ。 



15
「フルラ?」

 僕は思わず声に出してしまった。

「うん、フルラ。似合う?」
「大人っぽいね。買ってもらったの?」
「うん、去年のクリスマスプレゼントで買ってもらったの。親に」と言って奈津は微笑んだ。

 奈津の腕時計がいつもと違った。つけている時計は明らかに大人っぽかった。時計のベゼルは金色でベルトがモスグリーンだ。奈津が左手を動かすたび、カーテンから漏れた光でベゼルが金色に反射していた。文字板のロゴを見たら、FULRAと書いてあった。

 その腕時計は図書館の白色の安そうなテーブルと不釣り合いだった。
 
「似合うね」
「でしょ。――まだ、早かったかな」
「早かった?」
「うん。年齢的に」
「似合ってるよ。奈津、大人っぽいから」
「ありがとう」

 奈津はそう言って微笑んだ。

「――外に出ない?」
「いいよ。そう思ってた」と奈津はそう言ってニコッとした表情をした。

 僕と奈津は図書館を出た。夏休みが始まっても図書館はいつもどおりで何も変わらなかった。外の空気は死にたくなるくらいさわやかさだ。

「時計ね。おねだりしたんだよね」
「そうなんだ。いいね」
「うん。クリスマスプレゼント何がいいって聞かれたから、時計がほしいって言ったの。――おしゃれなものが欲しかったから」
「そうだったんだ。――落ち着いてるブランド選んだよね」
「モガミ、知ってるんだ」
「少しだけね」と言いながら、僕は大学のときにファッションブランドやメイクをネットの記事を見て、勉強したことを思い出した。付き合っていた彼女とブランドショップを見るときに話を合わせるためにそれなりに頑張った。

 結局、そんな努力は報われずに別れしまった。だから、僕に残ったのは無理して覚えたブランドの知識だけだった。

 彼女と僕は不釣り合いだったんだ。――きっと。
 
「ファッションって楽しいよね。いい商品見てたら普通にテンション上がるし」

 僕は過去のことを忘れて、そう話を続けた。 

「そうそう。テンション上がるんだよ。いい物、身につけたり、見たりするとね。――ねえ、これ買うときに親になんて言われたか分かる?」
「ううん、わからない」
「――いい高校行って、いい大学行って、いい企業で働く出世払いだって言われたんだよ。今言わなくてもよくない? クリスマスプレゼントだよ? しかも、まだ中学生なのにさ、冗談でもそういうこと言ってほしくないよね」
「プレッシャーだね」
「うーん、プレッシャーはプレッシャーに感じるんだけどさ、今、言うことじゃないよねって思わない? 素直にさ、そうか。これがほしいのか。似合うね。買ってあげる。だけでいいじゃん。そういう人の気持ちがわからないんだよ。うちの親は」
「そうなんだ。だけど、そんなのどうでもいいくらい、似合ってるよ」
「ありがとう。ごめん、ちょっと愚痴っちゃったね」と奈津はそう言った。
 
 僕と奈津は駅の跡に建っている郷土資料館と消防署の裏にある歌志内駅のホームまで向かった。郷土資料館と消防署の間にある細い歩道を抜けて、残されたホームまで来た。ホームの縁のコンクリートは、所々かけている。ホームに残された駅名標やベンチは茶色く錆びきっていた。ホームの背部にはすでに駅舎はなく、消防署の背面になっていた。

 僕が前いた世界ではこんな場所はなかった。歌志内線の跡はサイクリングロードになっていた。だけど、この世界ではなぜか、廃線になったあとも駅舎や錆びたレールが残されていた。
 
 ホームの先を見ると左手にゆるくカーブするように茶色く錆びた2本のレールが続いていた。僕は屈んで、右手をホームにつき、ホームから飛び降りた。

「え、ホームから降りるの怖い」
「大丈夫だって。ほら」と僕はそう言ったあと、右手を奈津のほうに差し出した。奈津は左手で僕の右手を掴んだ。

「あーーー!」

 奈津は大げさな声を出しながら、ホームから飛び降りた。奈津が降りた勢いで、僕の右手も引っ張られた。僕は右手を自分の方に奈津の手を引くと、奈津が僕のほうに手繰り寄せられた。

 そして、奈津と目があった。くりっとして大きな瞳に吸い込まれそうになった。一瞬、時が止まったかと思った。

「もう。怖いって。こういうの」奈津は笑ってそう言った。

「大げさだな」
「こういうの、良くないよ。勉強で身体なまってるんだから」
「行こう」と僕は線路が続いている方を指差してそう言った。

「もう、乱暴なんだから」と奈津はそう言って笑った。



16
 奈津は赤く錆びたレールの上を両手を広げて、上手くバランスを取って歩いている。途中でバランスを崩し、走りながら、左側にそれた。

 次に僕は奈津の真似をして、レールの上を歩いてみたけど、三歩進んですぐに右にそれて、レールの上から落ちた。

「下手くそー」と奈津は笑いながらそう言った。

「お互い様だろ」
「私のほうが歩けたもん。私の勝ちだね」
「見てろ、もう一回。ほら」と僕はそう言って、もう一度、レールに乗って5歩くらい歩いて、またレールから落ちてしまった。奈津はそれを見て、また笑った。

 僕と奈津はレールの上を歩くのを交互に繰り返したり、走って追い越したり、追い抜かれたりした。奈津がゆるく走るたび、髪先もゆるく揺れた。僕が奈津を追い越したり、奈津が僕のことを追い越したりを繰り返した。

 時折、レールが道路とぶつかると、レールは途切れた。車が来る気配がない道路を渡ると再び、錆びついたレールが左カーブを描いていた。

 そうして、一駅先まで歩いた。崩れかけているコンクリートの土台にホームが乗っている。ホームにある柵は錆びきっていて、大きく外側に張り出すように歪んでいた。柵が歪んでいるところに雪を山積みにすると、ぴったりと収まりそうだった。

 ボロボロに腐食した駅名表示には「かしん」と書かれていた。駅の先にも当たり前のように錆びたレールは続いている。駅を通り過ぎ、何も話さず、そのまま奈津を追い越して、ゆっくり歩いた。

 急に背中が熱くなる。僕の胸に回された両腕は柔らかった。

「ねえ。好きだよ」
 
 立ち止まった時、風が通り抜けた。奈津の前髪が首に当たり、チクチクする。わかっていた。すべてこのためのソワソワだった。
 
「好きだよ」

 僕は静かに答えた。

「知ってる」

 奈津はまた小さな声でそう言った。小さすぎて僕にしか聞こえない声に思えた。

 僕の背中に抱きついたままで、僕と奈津は線路上に立ち止まったままだった。もし、今、この瞬間に蒸気機関車が石炭を取りに戻ってきたら、僕と奈津はドラフト音と鉄の塊が出す振動でこのまま死んでしまうだろう。

 車が走る音もほとんどなく、時折、聞こえるカラスの鳴き声が異様に響いていた。弱い風で木々が揺れている。木々の葉がサラサラとお互いにこすり合う音がした。そして、不意に気まずさを感じた。

「セコマ行こう」と奈津はそう言ったあと、僕に抱きついていた両手をゆっくり離した。奈津と手を繋いで谷底のセイコーマートに向かった。 

 セイコーマートで豊富産アイスクリームを2つ買った。来た道を戻って、歌志内駅のホーム上にあるベンチに座って、ソフトクリームのような形に冷凍されたアイスを食べ始めた。西日が強くなってきて、より一層、あたりはオレンジ色が支配し始めた。

「ねえ、知ってる?」と奈津は僕に話しかけた。

「なに?」
「本当は私って、これだけ大人しいんだよ」
「知ってるよ」
「別に気まずいわけじゃないんだ」
「わかるよ」
「だからって、緊張もしてないからね」
「わかってるよ」と僕はちょうどアイスを食べ終わり、アイスが入っていたプラスチックカップをビニール袋に入れた。
 
「私のこと、誤解しないでね」奈津はモナカで出来たコーンの縁を食べ始めた。

 相変わらずきれいな夕焼け色していた。奈津も、ベンチも、列車が来ないホームも、すべてが夕焼けに染まり、古びた木製の電信柱の影は、錆びた線路を分断していた。このまま使われず、二度と替えられることもない枕木の香りが余計、際立っていた。

「私ね。たまらなく寂しくなる時があるの。――世界の誰も私のことなんて本当の意味で理解しないで、腫れ物にされるような寂しさを感じるの。――みんな好意的なのはわかるけど、好意を受け取れない透明な膜があるように感じるときがあるんだ。そういうとき、どうでもよくなっちゃう。自分が」
「今もそう感じてる?」
「ううん。モガミには感じないよ。不思議だけど。だって、そんな膜張ってたら、一緒にいる訳ないでしょ。――みんな私のことなんてわかってないんだよ。なのに私のこと、解ろうとしないでわかった気になってるの」
「わかるよ。そんな気持ち」
「だから、本当の私って一体何者なんだろうってたまに思うの。表裏が激しいとかそういうことじゃないと思うんだけど、本当の自分はどんな自分で、自分が一体、何を求めているのかわからないってことなのかもね」

 奈津はしばらく黙ったまま、何かを考えているように見えた。僕も黙ったまま、奈津の次の言葉を待った。
 
「――私ね、人に求められてることをすぐに察して、すぐに人に合わせちゃうの。昔から。だけど、モガミはなぜかわからないけど、大丈夫な気がする」と奈津はそう言ったあと、アイスを一口食べた。

「ねえ。聞いてる?」
「うん。聞いてるよ。しっかり。――黙ってたほうがいいかなって思って」
「――優しいんだね」

 奈津はそっとした声でそう言った。

「ねえ、大人になったらこの街を離れて、もっと多くの人と関わるわけでしょ。そう思うとすごく憂鬱になる」
「確かに」
「本当にそう思ってる?」と奈津は笑いながら、そう言った。

「思ってるよ。ただ、嫌だなって思ってただけだよ。――なんかさ、俺、ナツのこと誤解してたわ」
「――え?」
「普通に頭良くて、それなりに人付き合いが上手で、それなりに上手くいってるって思ってた」
「そう見えるんだ」
「あぁ。すごく上手くいくように見えるよ。これから先も」

 僕は奈津のフェイスブックのページを思い出した。奈津は楽しそうな大学生活をこれから送れるんだよ。東京で。

「私、きっとこの先、上手くいかなくなると思うんだ。どこかで」
「なんとかなるでしょ。――とも言えないけど、考えすぎだよ」
「――だよね」と奈津はそう言ったあと、下を向いた。
 
「きっとさ、無理しなきゃ大丈夫だよ。自分に嘘つかないで、ただ、前だけ見てればいい。――そう思わない?」
「――そうだね」
「だけど、これだけは言えるよ。ナツのこと、これからもっと知りたい」
「――私もだよ」

 奈津は僕の右手にそっと左手を乗せた。奈津の手は少し冷たかった。

「ねえ。約束してほしいことがあるの」
「なに?」
「もし、私が死んだときは今日のこと思い出して」
「――わかった」

 僕がそう言ったあと、奈津は右手の小指を差し出した。僕は右手の小指を奈津の小指に結んだ。そして、柔らかく指切りをした。
 
「ごめんね。告白したらセンチメンタルになっちゃった」と奈津はそう言って、左手で軽く前髪を解いた。腕時計のベゼルにオレンジ色の光が反射していた。

「明日、遊びに行こう」と僕は思いついたことをそのまま口に出した。
「いいよ。サボろう。勉強」と奈津はそう言って、ニコッと笑った。