47
 奈津が泣いている間に気温が少し上がったような気がした。さっきまで涼しかった風も風向きが変わり、急に微温くなりつつあった。
 
「――ありがとう」と奈津は急にそう言った。水面に石をゆっくりと入れたみたいに恐ろしく平たい声だった。
 
「ううん」と僕はそう言ったあと、奈津の様子を伺うことにした。奈津の涙は急に止まったように見えた。奈津はティッシュで鼻をかんだ。そのあと、ティッシュを制服のポケットの中に入れた。

「ねえ。私の隣に座って。モガミの顔みたい」と奈津はそう言ったあと、振り向いた。奈津の目は赤く腫れていた。
 
「わかった」と僕はそう言って、抱きしめていた両手を離し、ベンチをまたいで、奈津の隣に座った。
 
 僕と奈津は見つめ合ったまま、しばらく黙っていた。誰かがなにかのボタンを押して、秒針が止まった世界のように感じた。奈津は記憶を手繰り寄せているように見えた。

「未だにね、リオのこと忘れられないや。――リオって言うんだよね。私の子供。モガミは子供いたことある?」
「ううん、ないよ」
「――そうなんだ。可愛かったんだ。リオ」
「女の子?」
「ううん。男の子。なんかね。あっという間だった。本当に。一瞬で終わっちゃったよ。――肺炎で」

 奈津は一気に遠い目をしていた。僕は奈津の次の言葉をゆっくり待った。

「よく風邪は引いてたから、最初はまた風邪引いたんだぐらいにしか思ってなかったんだ。病院でも風邪だって言われて、解熱剤もらって、様子見てたんだけど、全然良くならなくて。――2、3日連続で病院行ったんだ。だけど先生から言われることは同じだった。それで4日目に先生もリオの様子がおかしいことに気づいて、検査したの。そしたら、ようやっと肺炎だってわかって、そのまま入院になったんだ。だけど、そこからさらに悪くなって、そのまま力尽きちゃった」
「――キツいね」
「――うん。あれから随分経ったけど、あの子の抱いた感触とか、最後に手を握った感触は今でも覚えてるんだよね。写真も動画もないから、覚えてる記憶の光景はどんどん曇って失われているような気がするけど、声と感触はまだしっかり覚えてる」
「そっか」と僕がそう言ったあと、しばらく沈黙が流れた。時折吹く風の音があたりを支配していた。

「――そのあと、旦那も私も心の整理がつかなくて、上手く行かなくなって、離婚したの。それで、私、実家に帰ったんだけど、そこでまた幻聴とか、幻覚が出てきて、私はまた滝川の病院で入院生活になったの。それで、タイムスリップして今回の人生になったの」

 奈津がそう言ったあと、辺りはまた、山特有の静かさに包まれた。耳をすませば、近くを流れる川の水量を感じ取ることができた。

「ねえ、昨日、モガミが言ってた夢の話あるでしょ。事故で私が死ぬ夢。それって、本当のことだったんでしょ」
「――うん。そうだよ」
「やっぱり、そうなんだ。お父さんもお母さんも悲しんだだろうな。あー、気持ちわかるわ。親の気持ち」
「見てられなかったな。ナツの葬式」
「――だよね」

 奈津はそう言ったあと、また大きなため息をついた。きっと、何かを思い出してたんだ。

 ――きっと。

「――私、昨日ね、必死に食い止めたんだよ。親のこと。それで喧嘩になったけど、まあいいや。それ聞いたら、こんなのなんて些細なことだね」と奈津はそう言ったあと、また、小さくため息をついた。

「私ね、なんで君と付き合うことにしたと思う?」
「うーん。――小学校のときに話したから?」
「――バカだね。初恋相手だからに決まってるじゃん。初恋の人とだったら、全部、上手く行くかなって思ったの。だからもう一度、モガミに会うことに決めたの。辛い過去なんて全部捨てて、小学校5年のあのときに戻ろうと思ったの。ただ、それだけ」
「そうなんだ。――これからも上手くいくようにしよう」
「――そうだね。なんかさ、思い出なんて、いつか忘れるでしょ。思い出の代わりに嫌なことばかり増えていってさ。大人になって気づいたら嫌なことで頭いっぱいになるじゃん。だから、嫌なことを10代のうちから少なくして、ゆっくり楽しいことだけ増やすのってアリかもね。――ねえ、モガミはなんでタイムスリップしたの?」
 
「――俺、1回目のタイムスリップは自殺がきっかけだったんだよね」
「――そうなんだ」と奈津はゆっくりとそう言った。

「俺、死ぬ前にうつ病になって、猛烈に人生後悔したんだ。後悔したからなのかわからないけど、なぜかタイムスリップできた。最初は狙ったわけじゃなかった」
「そうだったんだ。だからあのとき、急に大人っぽくなったんだね」
「うん。あの日はもう入れ替わってたよ。未来から来た自分に」
「きっと、モガミの親も悲しんだだろうね。自殺したなら」
「そうだね。ナツの葬式見て思ったよ。――2回目はナツの葬式が終わってからタイムスリップのやり方、ネットで調べてやってみたらできた」
 
「そうなんだ。――この人生はお互いに寿命まで全うしたいね」
「そうだね。――ナツに会うことができてよかった」と僕は奈津にそう言った。
「ようやっと求めてた君に会えたみたい」と奈津はそう言って、微笑んだ。



48
 奈津との夏は深まっていた。7月になり、サイダーが最高に似合うくらいすっきりと晴れた日が続いた。今年の夏は夏休み前に、すでに完成しているみたいに雨の日が少なかった。三者面談の期間で、この日も午前中に授業が終わった。僕も奈津もすでに面談は終わっていた。

 今日は、すでに25℃を超えていそうなくらい暑かった。僕と奈津はいつも通り、数人の老人しか乗っていないバスに乗っていた。バスのクーラーは程よく効いていて、カビ臭かった。
 
「正直さ、都会に行きたくないんだ。喧騒の中で暮らすことがどれだけストレスがかかることか知ってるからさ」
「私もそうだよ。もうさ、何回もタイムスリップしたら、受験して、上京してっていうのも飽きてきた。勉強するのも面倒だし、今更、大学生やってもって気持ちもある」
「そうなんだ。意外」
「なんか、そっけなくない?」
「いや、力抜けただけだよ」
「私さ、都会はもういいかなって思ってるの。華やかだけど、自分がどんどんすり減って消えていくような気がする。ねえ、その感覚わかる?」
「うん、わかるよ」

「大学に入学した時、その感覚に決まって襲われたな。2回とも。徐々にだけどね。最初は別になんてことないんだけど、どうでもいい友達とつるんだり、フェイスブックでシェアしたりとか、そういうことで自分がどんどんすり減っていく感覚、あったな。それで、大学卒業して、そこそこいい会社に入ったけど、社会人になったら、今度はいろんなことの板挟みになって3年持たなかったな」
「そうなんだ」
「うん。だからね、私さ、真面目なイメージを他人から勝手に持たれるのが私にとって問題なんだと思うの」
「問題?」
「そう、真面目に働いてくれそうって外の人が勝手にイメージを作るから問題なの。私って本来、真面目に生きたくないけど、他の人からはそう見られない」と奈津はそう言った。奈津を見ると、どこを見ているのかわからない遠い目をしていた。

 バスは歌志内に着いた。バス停から歩いて、公園に向かった。公園に着き、いつものベンチに座った。公園は今日も誰もいなかった。
 
「さっきの話の続きだけどね、気がついたら、自分が大切にしていたところが削れていって、自分が死んでることに気づくの。仕事ばかりで何も手がつけられない散らかった部屋で夜中、疲れてるのにひたすら泣いて、朝になって決まった時間に出勤する。そうやってロボットみたいに生きるんだよ」
「大体、想像つくね」
「大人になって、一体、何がしたいんだろうって思っちゃうよね」
 
「そうだね。ただ、生活費稼ぐためだけに、どれだけ自分が犠牲になってるか、わからなくなるよね。――そういえば、東大卒でいい会社行ってたなら、かわいい服とかさ、ブランド品とか、買い漁ることできたんじゃない? そういうことはまたやりたくないの?」

「あー。言われてみると、そうだね。そういえば、そんなことしてたな。だけど、着ない服ばかり増えていって、途中で虚しくなったんだよね。それで辞めたの。そういうことするの。だから、もうそういうことも興味ないや。私、やりたいこともわからなくなってるんだよね」
「そうなんだ。やりたいこともわからなくなるよね」
「モガミのこと以外、求めることなんて、もうないよ」と奈津はそう言い終わると、僕にキスをした。軽く唇が触れたあと、数秒間、そのまま奈津の体温を感じた。そして、奈津はそっと唇を離した。

「私さ、もう、自分が粉々になるのが嫌なの。いくら良い給料もらったって、社会の歯車になるのも嫌だし、死物狂いで頑張ることも、大学で無駄に友達と群れることも、インスタで映える写真アップするのも、全部嫌になっちゃった」
「そうだね」
「モガミと一緒に居れたらそれだけで十分だよ」
「俺もだよ。ナツ」
「――ホント、このまま高校生のままで居たいね」
「そうだね」
「あーあ。時が止まればいいのに」と奈津はポツリとそう言った。



49
 ベッドに寝転がり、天井を見ている。奈津とのやり取りが頭から離れなかった。僕はどうすれはいいのか。奈津と過ごすにはどうすればいいのか、頭の中でぐるぐる回っていた。タイムスリップしてもう一度作り直したアフィリエイトのサイトは前回の人生よりも順調で、毎月、大卒の初任給以上、入ってくるようになった。ほとんど使わないお金は貯まっていく一方だった。

 だから、大学行って就職する意味は全くないように感じた。

 僕は滝川ですら都会に感じてしまっていた。札幌や東京で暮らしたら、人にのまれて目眩を起こすのではないかと思った。歌志内は誰も居ない。誰も居ないから、奈津と二人っきりの世界のように思えるときがほとんどだった。
 
 もしかすると、このままでいいのかもしれない。奈津は待っているのかもしれないとふと思った。



50
 学校をズル休みした。学校には頭痛がひどいから休むと連絡した。奈津にも学校を休むことをメールしておいた。それらが一通り終わったら、ちょうど宅配便が家に届いた。ダンボールを開け、丁寧な梱包を取り除くと、ティファニーブルーの小さなケースが入っていた。ケースを開けると、しっかりとしたシルバーの指輪が入っていた。僕はケースを閉じて、机の引き出しにしまった。

 僕は図書館に行った。図書館に入ると、カウンターにはいつものおばちゃんが座っていて、こんにちはー。と僕に言った。僕は会釈して、いつも座っている窓際の席に向かった。

 いつもの席のテーブルは午前中の白い日差しが反射していた。これがもし、海辺の街だったら、潮騒が聞こえてきそうなくらいテーブルは綺麗に見えた。僕は椅子を少しだけ引き、バッグを椅子に置いた。そして、白いカーテンを閉めた。そのあと、文庫の書架へ行き、トルーマン・カポーティの「ティファニーで朝食を」の文庫を手に取り、席に戻った。

 40ページくらいを読んだあと、本を閉じ、テーブルに置いた。そして、一旦図書館を出て、公民館のエントランスのベンチに座り、弁当を食べることにした。図書館を出て、エントランスに入ると、エントランスはいつものように誰もいなかった。上を見上げると、高さがある吹き抜けが開放的だった。ガラスからは暑い日が射していた。

 自販機で缶コーヒーを買い、エントランスの淵にあるベンチに腰掛け、弁当をバッグから取り出した。一回目のタイムスリップのことを思い出した。あのときの奈津は何回目のタイムスリップだったのだろうか。頭の中で考えてもよくわからなかった。僕は弁当を開け、食べ始めた。

 図書館に戻り、「ティファニーで朝食を」の続きを読み始めた。だけど、上手く集中できなかった。1ページめくったあと、本を閉じ、テーブルに置いた。両手を頭の後ろに組み、上を向いた。無数のホコリが空中を漂っていた。僕はバッグからノートとペンを取り出した。ノートにこないだ奈津から聞いたことを書き出していった。奈津は3回タイムスリップを成功させていると言っていた。僕はノートに1~4の番号を振った。そして、それぞれにこう書いた。

 1:いじめにあう、高校中退して精神科に入院する、タイムスリップする
 2:優等生になり、滝川中央に入学、東京の大学に入学、3年生で発病、10年入院
 3:東大合格、就職、結婚、子供が生まれる、3歳で死ぬ、離婚、入院
 4:現在に至る
 ※5年生のとき、二人で帰った日にタイムスリップしてる

 その次に僕の人生をノートに書くことにした。

 1:札幌の大学。就職。パワハラ。うつ。29歳で自殺。タイムスリップする。
 2:14歳で奈津と付き合う。15歳で奈津が死ぬ。
 3:現在に至る。
 ※中2の冬にタイムスリップした。2回目は中3の告白された日にタイムスリップした。

 ノートに書き出した、奈津と僕のタイムスリップを見比べた。僕はいじめられている奈津を見たことがないから、1の奈津を見ていないことがわかった。東大に行った奈津を見たことがないから、3の奈津も見ていないことがわかった。僕は2の奈津に会っていることに気づいた。それは1の僕だ。タイムスリップする前の僕だ。
 「そういうことだったんだ」と僕は思わず呟いた。

 そして、もう一つのことに気づいてしまった。僕はもしかしたら、もうひとりの奈津に会っていたのかもしれない。右手がかすかに震え始めた。まぶたを何度もパチパチと開いたり、閉じたりを繰り返した。

 交通事故で死んだ奈津は違う奈津だったのかもしれない。だけど、もう、そんなことを調べる方法なんてこの世には存在しない。小さくため息をつくと、涙が溢れ、頬を伝ったのを感じた。

 胸が痛むのを感じる。うつむいて、ゆっくり息を吸ったあと、小さく息を吐いた。そして、また涙が溢れた。一体何を失ったのかよくわからなかった。

 ――奈津は死ななかった。だから、失ったわけでない。だけど、失ってしまったことに気づいた。ただ、それだけだ。奈津の腕時計を思い出した。モスグリーンだったベゼルが赤になっていた。ただ、それだけの違いだ。



51
  僕は、バッグと「ティファニーで朝食を」を持ち、カウンターへ向かった。カウンター越しで、座っているおばちゃんはパソコンでなにかの作業をしていた。僕がカウンターに本を出すとおばちゃんは一瞬、驚いた表情をして、貸出カードはあるかと言った。僕がないと答えると、貸出カードを作ることになった。

「こちらにお名前から順番にご記入ください」
「わかりました」と僕がそう言ったあと、おばちゃんはペンを僕に差し出した。僕はペンを受け取り、名前から書き始めた。
「久しぶりだね」とおばちゃんはそう僕に話しかけた。
「はい、高校入ってから来てなかったので」
「そうなんだ。ここで勉強した成果が出たんだね。おめでとう」とおばちゃんはそう言ったあと、ニコッと微笑んだ。
「ありがとうございます」と僕はそう言いながら、住所を書き始めた。
「女の子のほうは? 元気にしてる?」
「はい、元気です。ここで勉強したおかげで一緒に同じ学校行くことできました」
「そうなんだ。よかったね。二人とも同じ学校行くこと出来てね」
「ありがとうございます」と僕はそう言ったのとほぼ同時に、住所の残りを書き終えた。そして、おばちゃんに利用者申請書を出した。おばちゃんは少し待っててねと言って、立ち上がり、カウンターの奥にある事務机の方へ行った。そして、何か手続きをしたあと、カウンターに戻ってきた。

「はい、これで借りることができるようになりました。そしたら、これ、貸出だね?」
「はい、お願いします」
「わかりました。『ティファニーで朝食を』だね。いいね。映画版と小説版、結末違うの知ってる?」
「え、そうなんですか?」
「そうなのさ。そしたら、映画版は見たことあるんだね?」
「はい、見たことあります。どっちのほうが好きですか?」
「うーん、おばちゃんは映画版かな。これから借りる人にそんなこと言っちゃってごめんね」とおばちゃんは笑いながらそう言った。そのあと、はいどうぞと言って、本を僕に差し出した。僕は本を受け取り、バッグの中に入れた。

「あの、すみません。もう一ついいですか」
「なに? どうしたの?」
「内容は覚えているんですけど、本のタイトル思い出せなくて、探せなかった本があるんです」
「そうなんだ。どんな内容なの?」
 
「タイムスリップして、恋人に会いに行く話で、主人公は1回目のタイムスリップで恋人と付き合うことが出来るんですけど、その恋人が交通事故で死んじゃうんです」
「え、物語の最初に恋人が死ぬんじゃなくて、途中で死んじゃうんだ。なんで主人公が先にタイムスリップしたんだろう?」
「わからないです。で、恋人が死んでしまったから、主人公は恋人の交通事故前にタイムスリップするんです。それで交通事故を阻止できたんです。だけど、そのあと、その恋人も実はタイムスリップを何回も成功していることを知らされるんです」
「へえ。そうなんだ」

「それで、主人公は気づくんです。目の前にいる彼女が交通事故で死ぬ前の恋人と別な人格であることに。お互いにタイムスリップしてしまってるからすれ違ってたんです」
「へえ。なんか、大変そうな物語だね」
「そうなんです」
「それで、そのあとどうなるの?」
「そのあとが忘れたんで、気になって聞いたんです」
「そうだったんだ。結局、同じ人と付き合ってるけど、本当に付き合いたかった人と別れたってことでしょ?」
「そういうことです」

「だけど、恋人だから、別の人格の人だけど付き合ってるってことなんだ。タイムスリップって罪深いね。それじゃあ一生会えないってことだもんね。好きだった人と。あ、だけど、今付き合ってる人も好きなんだろうね。そうじゃないと付き合ったままいないよね。何回もタイムスリップ出来るんだったら、とっとと、本当の恋人を探し出そうとするよね。好きだから揺れ動く。うーん、こんな感じの話?」
「大体、そんな感じです」
「あ、ごめんね。私、テレビでドラマ見ててもこうやって先読みする癖があるんだよねぇ。うーん。わからないなぁ。タイトル思い出せないんだもんね」
「はい、思い出せないです」
「したら、こっちも調べよう無いわ」
「――そうですね」
「力になれなくて、ごめんね。きっと、あなたにとって大切な物語なんだね。本って手放して後悔するよね。こういう心に残ってる小説ならなおさら。だから、私は手帳に読書記録つけてるのさ。タイトルと作者だけ書いてね。だけどさ、こないだ昔の読書記録がなくなったのに気づいてすごいショックだった。多分、年末に大掃除したときに間違って捨てちゃったんだね。きっと。それでさ、ショックでしばらく立ち直れなかったな。でね、おばちゃんが言いたいのは、あるものを大切にするってこと。人も物もね。自分が大切に思ってるものは大切にしたほうがいいよ。ってことでおばちゃんの話終わり。ごめんねぇ。話、聞かせちゃって」

「いえ、大切にします。自分が大切に思ってること」
「そのほうがいいよ」おばちゃんはそう言ったあと、にっこりとした表情をした。


 
52
 家に戻り「ティファニーで朝食を」の続きを読んだ。映画版はハッピーエンドだけど、小説版はそうではなかった。頭の中でオードリー・ヘプバーンが歌うムーン・リバーを再生していたけど、小説の中では違う曲だった。

 あらすじは映画版も小説も同じように感じた。トルーマン・カポーティは映画版がハッピーエンドになったことを激怒したと解説の中に書いてあった。だけど、小さな違いにしか思えなかった。映画版でも、小説版でも、ホリー・ゴライトリーは魅力的で寂しさがあることは変わらなかった。
 
 夕食を食べたあと、僕は部屋に戻り、ベッドに寝転んだ。奈津と手を繋ぐところを想像した。僕は奈津と二人きりで霧の中をさまよう。高台から、景色を見ようとしたら霧が一気に晴れて、綺麗な湖と湿原が一望できるようになる。そして、奈津はこう言う。

「人間、生まれてしまったら、死んでしまうのもセットでしょ。私がもし、いなくなったら、今日の悲しかった気持ち、思い出して」

 僕は変わらない思いを確かめ、胸に誓いを立てた。



53
 午前授業が終わり、奈津と一緒に帰りのバスに乗った。古臭いバスはクーラーで冷え切っていた。だけど、そのクーラーの所為で、車内はカビ臭かった。バスの中は僕たち以外誰も乗っておらず、午前授業だったのはうちの学校だけだったみたいだ。砂川からも誰一人として学生は乗ってこなかった。制服のポケットの中に、箱から取り出しておいたティファニーが入ってることを確認した。

 バスは順調に山へ向かい、歌志内に入った。僕は奈津に「少し話そう」と言った。
「えー、話すんだったらミスドが良かったのに」と奈津は少し文句を言った。

 バスから降りて、歌志内駅跡のホームの方に歩いていった。

 ホームのベンチに座り、二人で来ない列車を待つことにした。線路は相変わらず赤く錆びきっていて、2本のレールはところどころ歪みがあった。レールが続いている先は、蜃気楼が立っていた。

「やっぱり、ここが一番落ち着くな」
「うん。私たちの秘密の場所だね」

 鼓動が高鳴る。すごく、ドキドキする。

 ――だけど、今すぐに伝えたい。

 「――結婚してください」

 僕はそう言って、奈津の左手を取った。そして、薬指に指輪をはめた。9号サイズの指輪は奈津の薬指にすっと収まった。奈津は驚いた表情をしていた。奈津は左手を軽く回しながら、0.5カラットのダイヤモンドの煌めきを見ていた。

 その煌めきは奈津が手首を回すたびに何度も鋭い直線を空間に作った。それを奈津は何度も繰り返した。そのあと、奈津は僕の顔を見た。奈津は泣いていた。一粒、二粒と大粒の涙が頬を伝った。奈津は左手で僕の右手を手に取った。

「寂しかった。ずっと」

 奈津の涙は止まらず、顔を濡らしていた。僕の心臓は鼓動を早めている。
 
「まだ15歳だよ」
「もうすぐ16歳になるからナツは誰かと結婚できるようになる。俺はあと2年待たなくちゃならない」
「あと2年後に結婚してくれるってことの?」
「うん、そうだよ」
「だけど、どうやって二人で暮らしていくの? 学生結婚するの?」

「ううん。もう稼いでる」
「うそ。何で?」
「ネットで、広告収入で稼いでるよ。人並み以上に」
「――すごいね」
「だから、二人で暮らしていくには十分だよ。いや、二人以上でも大丈夫なくらいだよ」
「最高だね」

「――あと2年待てる?」
「うん。待つよ。私、待てるよ」と奈津はそう言った。そのあと、奈津は遠くを見たまま、身体を軽く前後に揺すった。何か言いたいことがあるのが伝わってきた。だから僕は奈津の次の言葉を待つことにした。

「言ってなかったことがあるんだ」
「――なに?」と僕が聞くとナツはすっと息を吐いた。
「私達ね、結婚してたの」と奈津はゆっくりとそう言った。