1
 初恋なんて、全ては泡になって消えていくし、初恋のままその人との恋が叶った人は幸福なのだろう。だけど、そんなレアケースを除けばすべて夢みたいに儚いものだから、みんな初恋にロマンを感じるし、思い出補正をかけまくる。

 歌志内(うたしない)は僕が物心がついた時には、なにもなくなっていた。山と山の合間を縫って、細長く作られた街は、夢のあとみたいだ。

廃墟同然の集合住宅。
空き店舗のまま朽ちていく商店。
錆びたホーロー看板。
ひび割れたコンクリート。
錆びたままの道路標識――。

 街の建物のほとんどは、色あせた赤か青の屋根をつけている。

 すべてが、ある日から時が止まった、北海道の炭鉱都市だった街だ。
 
 炭鉱が栄えていたときは、4万6千人もの人達が、この細長い谷に住んでいた。だけど、ウィキペディアの統計データを見ると僕が生まれたときにはすでに1万人を切っていた。

 そして、僕が29歳になるまでに3千人になった。住む人は10分の1以下になったけど、街の広さは4万6千人が住んでたときのままだ。

 いつからか、歌志内「市」は「日本で一番小さい市」と言われるようになった。炭鉱が栄え、人口が多くなり「市」になった直後、エネルギー革命が起きた。安価な石油や、破格な輸入炭に押され、国内で生産された石炭の需要はあっという間に無くなった。一気に炭鉱が消えて、石炭を運ぶ鉄道は消え、そして、人が消えた。

 残されたのは廃坑と灰色の炭鉱住宅、シャッターがしまった古い商店だった。アスファルトは至るところがひび割れ、ひびの間から雑草が生い茂っている。山の中腹に作った炭鉱住宅街は消え、自然にかえっている。

 僕が生まれた街は目覚めるとゆっくりと忘れてしまう夢見たいに消えようとしている。




 小松奈津は小学5年生の時に札幌から転校してきた。25人くらいのこのクラスに奈津はすぐに馴染んだ。

 奈津との接点ができたのは、僕と奈津が同じタイミングで学校を早退したときだった。

 その日の朝、学校に行く気になれないまま、重い足取りで学校に行った。授業を受け始めても、やっぱり気分が乗らなかった。だから、頭痛がひどくなったことにして、誰もいない保健室のベッドで一時間寝転んだあと早退した。
 
玄関は6月なのに恐ろしくひんやりしていた。日が入らず、薄暗い下駄箱で外靴に履き替えていると「一緒に帰ろう」と奈津が話しかけてきた。



 「ねえ、なんで今日、浮かない顔してたの?」

 奈津はそう言った。僕の横を歩く奈津の顔は優しい顔をしていた。なんでも知っているような、そんな表情に見えた。ショートボブのサラサラとした髪に、丸みを帯びた顔の輪郭、ぱっちりとした目元に大きな黒目、筋がしっかり通っている小ぶりな鼻、薄い唇が幼さを際立たせていた。

 こんなに幼くて、頼りなさそうで、消えそうで、か弱に見えるのに、大人の落ち着いた雰囲気があった。そのアンバランスさが不思議だった。
 
「――そう見えた?」
「うん、ダルそうだったよ。モガミ、傍から見てたら、そんな感じに見えた」
「頭、痛かったからだよ」
「そりゃ浮かない表情になるか」
「まあね」

 僕はそう言った。奈津の歩幅は変わることなく、僕と同じ歩幅で一定の速度を保っていた。

「ナツはどうして早退したの?」
「同じような理由だよ」と奈津はそう言った。軽く左側を向き、奈津の顔を見ると、にっこりとしていた。

 空は雲ひとつなく、綺麗に晴れていた。山からの若草の新鮮な香りが風に乗って、街中に漂っていた。

 しばらく、お互いに沈黙のまま、誰もいない街をあるき続けた。コンビニも見えなければ、車通りもまばらだ。
 
「ねぇ、誰かと初めて会った日のこと覚えてる?」と奈津が沈黙を破ってそう言った。

「どういうこと?」
「誰かと初めて会った日に話したこととか、仕草とか、表情とか、そういうのって細かく覚えてる?」
「ううん、覚えてない。――ナツは?」
「私は覚えてるよ。――そういうの。別れたくない人と別れたあと、どうしてかわからないけど、その人と初めてあった日のことを思い出すの。事細かにね。そういうのが積み重なって、忘れていいことを忘れられなくなるの」と奈津は言い終わったあと、また少し沈黙が流れた。

 僕はどう返したらいいのかよくわからず、宙ぶらりんな気持ちになった。

「――それはいい思い出として残るの? 頭の中に」と僕はようやく質問を絞り出して、そう言った。

「うん。だけど、失った人とのつながりを思い出すとたまに泣きたくなるの」と奈津はさっきよりも静かな声でそう言った。僕はもう一度、奈津の顔を見ると、奈津は真顔だった。
 
 僕は思わず、歩みを止め、立ち止まった。奈津はそれに気づいたのか、奈津も歩みを止め、僕の方を見てきた。

「――ナツ、大丈夫?」と僕がそう言ったあと、奈津は右手で僕の左腕を掴みうつむいた。奈津の右手はひんやりしていた。
 
「ごめん。昔のこと思い出しただけだから、大丈夫。――ごめんね」と奈津はそう言ったあともそのまま僕の左腕を掴み続けていた。僕はどうすればいいのかわからなくなった。

 だから、そのままじっとしていた。しばらく、そうしていると奈津が顔を上げた。

「ねえ。私のこと忘れないで」

 奈津は真顔でそう言った。僕はどうすればいいのか、さらにわからなくなった。どんな言葉を返せば、奈津は嬉しいんだろう――。

「忘れないよ」

 僕はそう言ったあと、微笑んだ。

「ありがとう。――公園行こう」と奈津も微笑んでそう言った。

 このあと、公園のベンチに腰掛け、話をした。29歳の今、どんな会話をしたのか忘れてしまった。

 

 あの日から、奈津と二人っきりになることはなかった。中学校に入学して、お互い、携帯を持ち始めた時、メールアドレスを交換した。何通かメールのやり取りはした。共通の友達が間にいれば話すことはあったけど、二人きりで話すことは、ほとんどなかった。

 そのまま中学を卒業し、高校はお互い違う学校に入学した。だから、奈津と会うことはほとんど無くなった。中学を卒業してからも、たまにメールでやり取りはしたけど、お互い、返信が遅くなったりして、すれ違った。そのまま、18歳になり、大人になり、そして奈津との関係は消滅した。



 「歌志内?」

 僕は思わずそう口に出した。
 鬱で回らない頭では、これ以上考えることができず、iPhoneを枕元に置いた。仰向けに寝転んだまま白く光っているシーリングライトをみつめた。

 僕は大人になっても奈津のことが忘れられなかった。あの時に交わした約束は呪いのようになっている。だけど、奈津とは、もう二度と会うことはないだろう――。

 Facebookプロフィールなんて見るんじゃなかった。

 「小松奈津」を検索したら、奈津を見つけた。更新は2013年で止まっていた。プロフィールの画像は大学生のときのだろう。最後の更新はパフェの写真だった。出身校は東京の大学になっていて、住んだことがある場所は「札幌」「東京」「歌志内」と書いてあった。
  
 放置されたページをさかのぼっても、小松奈津は一年に一回、どこかで食べた食事の写真しか投稿していなかった。

 奈津があの時、立ち止まった表情を思い出した。今でもその顔はくっきりと思い出すことができる。小学生なのに、奈津は一体、何を失っていたのだろう。

 ――あのとき、奈津と一緒にいたいと思った。だけど、どうすればいいのか全くわからなかった。それが初恋の始まりと終わりだっだ。
 
 ベッドから起き上がり、ベッドの端に移動して座った。テーブルの上に置いてあるラークを手に取った。最後の一本だ。ライターでラークに火をつけて、思いっきり吸い込み、大きく息を吐いた。煙はあっという間に室内に滞留した。

 絶望的な気持ちになった。胸の奥からなにか苦味が込み上がってくるような感覚がした。ずんと胸が重くなる。

 病院で鬱と言われて1ヶ月経った。薬を飲んでも、何も変わらなかった。まったくベッドメイクされないベッドに寝転がり、一日が終わる。考えようとしても何も出てこなかった。

 一つ考えたことが砂のように簡単に滑り落ちていき、さっきまで何を考えていたのか全くわからなくなった。そうしているうちに、また夜になり、一日が終わる。その繰り返しだ。

 すべて自己責任だ。病気になるのも自己責任だし、来月で生活費が底をつくのも、自己責任だ。ラークはあっという間にフィルター近くまで燃え尽きた。灰皿に吸い殻を押し付けて火を消した。

 最後に奈津の写真を見ることができてよかった。

 ――もういいや。
 
 ベッドから立ち上がると少しくらっとした。スマホの充電のために使っている白い延長コードを壁のコンセントから抜いた。そして、延長コードをドアノブにかけ、輪を作り、僕は輪の中に首を入れた。腰を浮かし、寝転んだら、意識はあっという間に終わった。