菊はまじまじと、腕に絡む柔らかな袖を眺めていた。
 白妙の生地に、純白の糸で小花が刺繍してある着物は、美しいの一言につきた。襦袢の赤色が薄く透け、まるで目の前で満開を誇っている桜から作られたようだ。
 菊が座っている張り出した欄干囲いの縁側は、桜の最も美しいところだけを切り取って、一枚の絵のようにしている。
 身に纏うものから目に入るものまで、美しいばかりの中、菊は、どうして自分はこのような場所にいるのだろうか、と呆然としていた。
「そんなに桜が珍しいか」
 春風のような温か含んだ心地良い声が、菊の背にかけられた。
 振り返れば、そこには真っ黒な着物を纏った青年が、眉間に皺をよせ佇んでいた。髪も着物も羽織も足袋も全て黒の中にあって、彼の赤い瞳は異様に際立つ。
「う、烏王様……!」
 菊は慌てて、床に擦りつけんばかりに頭を下げた。
 烏王の歩みに、ギシと床板が軋めば、菊の肩が跳ねる。
「そのように日がな一日眺めて、よくも飽きないものだな。果たして、何を思っているのか……。とにかく顔を上げろ。そこまで畏まる必要もない」
 菊は恐る恐るといった様子で顔を上げた。しかし、まるで烏王の視線を避けるように、瞼は伏せられたまま。
「やはり、村に帰りたいか」
「そ、そのような事は……」
 元より帰りたいと思える場所を知らない。ずっと、波間に漂い流され揉まれ浮いているだけ、という生き方をしてきたのだから。もう陸がどこにあるのかすら分からない。
 村での生活を思い出せば喉が引きつり、菊はそれ以上言葉を紡ぐことはできなかった。
「不吉の象徴、屍肉漁り、死神の使い――人が我ら烏を表わす言葉はどれも卑しいものばかり。まあ、烏は嫌われこそすれ、好かれるような生き物ではないからな」
 菊の曖昧に切れた言葉を、『言いづらい事』――肯定ととったのだろう。烏王は自嘲に鼻を鳴らした。
 顔の近くで衣擦れの音がした。
 視線を上げれば、烏王の手が頬の横にあった。思わず菊は、強く瞼を閉じて首をすくめる。
 叩かれる、と思った。
 しかし烏王の手は、菊の頬を通り過ぎ、背に流れ落ちる後ろ髪に触れただけであった。
「散り花が付いていただけだ」
「あ……、も、申し訳ありません」
 烏王は摘まんだ薄紅の花弁を、涼やかな目を細め眺めていた。下瞼に長い睫毛の影が落ち、憂いの色が濃くなる。烏王はふっと花弁に息を吹きかけ、雛を親元に帰すかのような優しげな手つきで、欄干の向こうへと花弁を返した。
 自分の態度が失礼なものだったと自覚のある菊。再び謝罪の言葉をかけようとするが、先に烏王の口が開く。
「侍女らに湯殿の手伝いをさせないらしいな」
「ひ、人に見られるのに慣れてませんで」
「人……な」
 二度目の自嘲。
「人の姿をとろうと、俺達は烏だからな」
 烏王は自らの手をまじまじと見つめ、歪に口元をゆがめた。赤い瞳を向けられれば、菊の薄い肩が跳ねる。その瞳には全てを見抜かれてしまいそうで、自然と菊の顔も俯く。
「まあ、良い。だが、俺の花御寮となったからには、嫌でも慣れてもらうしかないぞ。当然、子は成さねばならないのだからな」
 カッと顔に熱が集中する。
 この状況にばかり気を取られ、花御寮の本来の役割のことまで気が回っていなかった。ましてや、自分の身を欲しがる者などいないと、そのような話にも一切興味がなかっのだから。
 恥ずかしさに菊は目を潤ませ、一段と顔を俯かせた。
「村に帰してやることはできんが、不自由はさせないつもりだ」
 下げた頭の向こうで、再び床板の軋む音がした。一緒に烏王の声も遠ざかる。
「ではな、レイカ」
 烏王は部屋を去って行った。菊の名ではない名を呼びながら。
 菊は、烏王に『レイカ』と呼ばれていた。
 烏王だけではない。屋敷にいる侍女や下男、果ては烏の郷にいる全ての者達に、菊は『古柴レイカ』だと思われていた。
「……っ何で、こんなことに……」
 不意に瞼の裏に蘇る、烏王の真っ赤な瞳。
 全てを見透かされてしまいそうな、一点の曇りもない真っ直ぐな瞳。
 菊は背中を走る悪寒に耐えるように、自らの身体をきつく抱きしめた。自分の体温では、自らを温める事などできないと知りながらも、不安を癒やすためには、そうせずにいられなかった。

 ◆

『あ、そうだ』と薄ら笑いと共にレイカが言った事。
 それは、『菊にレイカのふりをさせ、花御寮に仕立てる』というものだった。
 歳は一つしか離れておらず、従姉妹という事もあり背格好も似ていたレイカと菊。婚儀は、花嫁衣装のおかげで花御寮の顔は見えない。日頃より菊の姿を見ていない村人達ならだまし通せるだろう。使用人もその日は家に帰らせれば良い。
 ましてや烏王側は、誰が選ばれたのか知りもしないのだから。別人に花嫁衣装を着せ差し出しても、疑うことはないだろう。
『ね、良い考えでしょ! あたしは菊のふりして、地下で身を隠していれば良いんだし』
 途端にレイカの母親の顔が輝く。『名案だわ!』とレイカを抱きしめる。
 しかし、それにレイカの父親が待ったをかけた。
『ならん! そんな事をしてバレれば、今度はこの古柴家も終わるぞ!』
『どうしてよ! そんなに娘を、化け物の生け贄にしたいわけ!?』
『そんなことは……っ、俺だってできるものなら……いやしかし……』
 村を欺くだけではない。強大な力を持った烏王という相手まで欺く事になるのだ。父親が二の足を踏んでしまうのも当然だろう。身代わりも、菊は村の血が半分しか入っていない忌み子であり、他の村娘の方がまだ問題は少ない。しかし、誰だとて自分の娘を、得体の知れない相手に差し出すことはしたくないだろう。
『お父さん、何を迷う必要があるの。あたしが花御寮で差し出されたら、この古柴家の跡継ぎはいなくなるのよ。それか、この女を養子にするかだけど……』
 レイカの足袋に包まれた真っ白な足先が、菊の背中をトンと蹴った。『ぅうっ』とくぐもった声が響く。
『大丈夫よ、お父さん。しばらく菊のふりしたら村の外に出ていくから。菊がいなくても誰も気にしないし。それでほとぼりが冷めた頃に、菊のふりして戻ってくれば誰もあたしって思わないし、古柴家も守れるでしょ』
 確かにそれならば村人も欺けるかもしれないが、それでもやはり綱渡りだった。
『っていうか、あたしは元から花御寮なんてなれないんだから。だって、あたし――』
 その言葉を聞いた瞬間、父親の顔から血の気が引いた。死人ではなのかと思う程に青白い。父親だけでなく母親までも瞠目して青くなった唇を震わせていた。
 両親の反応を差し置いて、『じゃあ決まりね』と嬉しそうに笑うレイカに、二人は頷くしかなかった。
 
 ◆
 
『花御寮にはお前がなってもらう』と、菊は目覚めた座敷牢の中で聞かされた。拒む時間さえ与えて貰えなかった。その日から、地下の座敷牢は本来の役目通りの使われ方をすることとなった。しっかりと牢には鍵が掛けられ、一切の外出を禁じられた。
 そうして、絶対に着ることはないだろうと思っていた花嫁衣装に身を包み、初めて伯母と伯父に手をひかれ、菊は烏王の花御寮として輿入れした。
 菊が座敷牢から出て行くとき、入れ替わるようにして残ったレイカに、「感謝しなさい」と言われた。「そんな綺麗な衣装に身を包めて、嫁げることを感謝しろ」ということらしい。自分は、その嫁ぎ先を『おぞましい化け物』と罵っていたというのに。
 しかし、たとえ村に残ったとしても地獄の日々が続いただけだろう。同じ地獄なら、別の地獄に行くのも変わらない。もしかすると、別の地獄には蜘蛛の糸が垂らされているかもしれないのだから。
 そうして、菊は烏王の屋敷へと連れて来られたのだが。
 そこからは、驚きと、戸惑いと、後ろめたさの連続だった。
「花御寮様、お食事はお口に合いますでしょうか」
「花御寮様、本日は少々暑いので、こちらの紗の羽織でよろしいですか」
「花御寮様、水菓子などいかがでしょうか」
 誰しもが、菊を下に置かぬ殊更に丁寧な扱いをした。しかも世話をしてくれる侍女というのも皆、人の姿をしており、菊は自分が烏王に嫁いだという事を忘れそうだった。
 ――ここは、天国でしょうか。
 もしかしたら、輿入れと同時に自分は食べられて、既にあの世に来てしまったのではないか、と菊は本気で思った。天国とは自分でも図々しいとは思うが、何しろ天国としか思えないような日々だった。
『人を食べたいがために、花御寮を欲しがっているに違いない』――とは、誰の言葉だっただろうか。
 食べられるどころか、菊に出される食事は古柴家の伯父母が食すものより、はるかに豪華なものばかりだった。丸々と太った鮎の塩焼き、蕗の煮付け、豆腐の山椒和え、冬瓜の煮物、蕪の味噌焼き、山盛りの木苺、そして目にも眩しい炊きたての白い米。古柴家でも祝い事の時くらいしか白米は使わない。
 菊は初め、出された食事が自分用のものだとは思わず、手も付けず眺めているだけだった。誰かの配膳を手伝えということなのだろうかと。
 菊が「どちらへ運べば」と、膳を持って立ち上がろうとしたところで、侍女達に慌てて「花御寮様のです」と止められた。そこで菊はその豪華な膳が自分の為に用意されたものだと知った。
 驚きすぎて、初日の料理の味は覚えていない。口に入れたもの全てが驚きだった。この世にこれほど美味しいものがあるのかと。
 屋敷もいくつもの(むね)が渡殿で繋がっており、迂闊に歩けば迷子になってしまいそうなほど広かった。
 そのうちの一棟が、菊に与えられている。
 広々とした板張りの広間に、美しい織り模様の几帳があちらこちらに立ててある。風が吹き込めば、目もあやな薄絹が視界を占めた。棟の中にもいくつもの部屋が連なっており、各部屋に置いてある調度品はどれも白木の木目が美しく、香りも爽やかで良いものばかり。
 まさに、神代の空間に紛れ込んだのかと思ってしまうほど。
 そして何よりも驚いたのが、『烏王』だった。
 おぞましい化け物とはとんでもない。
 烏王の屋敷に連れて来られ、初めてその姿を見た時、菊は腰を抜かしそうになった。
 花嫁衣装の綿帽子を烏王の手で脱がされた時の、その触れ方の穏やかさにも驚いたが、露わになった視界に入った彼自身に何より驚愕したものだ。
 菊の真っ白な花嫁衣装とは正反対の、漆黒の羽織袴姿のうら若き青年。
 菊より頭二つ分は背の高い烏王。菊は目を瞬かせ、彼をゆっくりと見上げた。
 烏の羽のように艶のある黒髪は後ろで束ねられ、まるで瑞鳥の尾のように風に靡く。差し出された手は、傷一つないきめ細かな陶器肌。見つめられる瞳は、熟れたアカモモのように赤かった。
 今まで見てきたどのような人間の男よりも、菊は彼こそが一番美しい人間だと思った。
 冷酷な台詞が似合いそうな薄い唇がおもむろに開けば、しかし、その口から発せられた言葉は、とても温もりのある言葉だった。
『ようこそ、我が花御寮殿』
 その時の、烏王のはにかんだような笑み顔を思い出せば、菊の頬は自ずと熱くなった。誰かに笑みを向けられたのは、いつぶりだろうか。もしかすると、生まれて初めてかもしれない。
「――っどうしたのでしょうか、私は」
 熱を冷ますように、菊は両手でパタパタと顔を扇ぐ。
 しかし、次に思い出した烏王の言葉によって、その熱はいともあっさりと消える。
『これからよろしく、レイカ』
 ――そう、私は本来ここにいるべき人間ではないのです。
 あの穏やかに差し出された手も、優しい声音も、面映ゆそうな笑みも、全ては『花御寮のレイカ』に向けられたものである。まがい物、しかも花御寮になり得る資格さえ持たない自分には、本来向けられるはずのないものだった。
 勘違いしてしまわないよう、その優しさに喜んでしまわないよう、ズキリと痛む胸を強く押さえ、菊は自分に言い聞かせた。この痛みもまがい物だと。

 烏王は、日が高くなると菊の部屋を訪ねてくる。
 ――何を話したら良いのか……。
 朝日が春の陽気を帯びだした頃に烏王はやってきて、今も、菊の隣に腰を下ろしている。
 会話らしい会話はない。好きなものや、彼がいない時どのようにして過ごしているのか、など烏王が尋ね、それに菊が一問一答のようにしてこたえるのみ。とても夫婦の会話とは言い難い。
 二人の間には、いつまで経ってもよそよそしい空気があった。
 ――それも仕方ないですよね。本当の夫婦ではありませんし。
 菊は烏王とまだ初夜を迎えていなかった。烏王は別の棟で生活し、今はこのように通い婚のような状況にある。
 ――もし本当に……そういう事をする時になったら……。
 色々とバレてしまうだろう。その時、果たして彼は、今と同じ目を自分に向けてくれるだろうか。
 村人達の冷めた目や、古柴家の者達が向ける憎悪の対象を見るような目を思い出し、菊は全身を粟立てた。震えそうになる身体を抱きしめ、懸命に平然を装う。
 絶対にバレるわけにはいかなかった。
 すると、突然身体を小さくして押し黙ってしまった菊を見て、烏王は首を傾げる。
「どうした、寒いのか」
 寒い。身が、心が、凍てつきそうなほど寒かった。
 しかし、菊はへらりと力の抜けたような笑みで「大丈夫です」と言った。不信感をもたれるわけにはいかなかった。
 烏王は「ふむ」と形の良い顎を撫で一考すると、突然、菊の手を取り立ち上がった。
「えっ!? ああぁあの、烏王様!?」
 戸惑いの声を上げる菊。しかし烏王は菊の手をひいてズンズンと扉へ向かう。
「部屋に籠もってばかりいるから、身体も冷たくなるのだ。侍女達から聞いているぞ。ずっと、そうして縁側から外を眺めているばかりだと」
「そ、それは……」
 それは、あまり出歩くものではないと思っていたから。勝手に出歩けば痛い目を見るというのが、菊の身体には染みついていた。
「大丈夫だ」
 肩越しに振り向いた烏王と目が合った。
「大丈夫、誰もお前を襲わない。襲わせない。烏が怖いのも分かるが、お前は大切な存在なのだから。だから……そう、我らを怖がってくれるな」
「俺を含めて」と、最後にポツリと添えられた言葉は、一際声が小さかった。
 烏王は、菊が烏を怖がり、烏王に嫁いだ事を後悔して、その抵抗として部屋に籠もっていると思ったようだ。そのような事はないというのに。
 ――彼らよりずっと……
 人間の方が怖い。
 既に烏王は前を向いてしまっており、背後で泣きそうな顔で首を横に振る菊には、気付かなかった。
 菊は、自分の手を包むように握る烏王の手を見つめた。
 婚儀の日、初めて伯父と伯母に手を引かれた。だがその手は冷たく、握るというより、ぎりぎり触れている程度だった。
 しかし、今自分の手を握る手はとても優しく――
「…………温かいです」
 烏王は「春だからな」と言った。
 
 烏王が菊を連れてきた場所は、ちょうどいつも菊が縁側から眺めている桜の木の麓だった。
 足元は色濃くなった若草に覆われ、春の陽気に芽吹いた野花が、白、黄、紫、赤と、緑の絨毯を鮮やかに染めていた。空を見上げれば、ハラハラと薄紅の花弁が散り落ち、合間から見える青空が眩しかった。
 菊はその景色に、ほぅとうっとりした溜息を漏らした。
「とても……綺麗です」
 村の景色も綺麗だった。稲が青々と伸びた季節は、青と緑だけの清々しい世界になって美しかった。しかし、そのような世界も菊には遠い世界。村の中を自由に歩くことさえ許されず、許された夜の時間では鮮やかな色は総じて藍の帳を被せられていた。いつも、あの青い稲の葉や黄金の穂を触ってみたい、と屋敷から眺めるだけだった。
 菊は恐る恐る、足を踏み出した。
「烏王様……あの、歩いても……?」
 その問いに、烏王は苦笑した。
「ははっ、おかしなやつだ。聞かずとも、好きなだけ歩けば良いさ。好きなところへ行けば良い」
 菊は歩き、屈み、見回した。見たいものを瞳に収め、触れたいものに触れ、行きたい場所まで歩いた。まるで幼子のように、見るもの全てに夢中になった。
 うっかり、烏王が近くにいることも忘れて。
「そのような顔もできたのだな」
 ハッとして、菊は、はしたなかったかと慌てて頭を下げた。
「も、申し訳ありません。子供のような真似を」
 仮にも王と呼ばれる者。その隣に立つ者として、自分のような態度は相応しくないと叱責を受けるのだろうと、菊は身を強張らせた。しかし覚悟した痛みは、いつまで待っても来ず、代わりに静かな声が掛けられる。
「レイカ、頭を下げる必要はない」
 烏王の手が、菊の肩を丁寧に押し上げた。
「むしろ、俺が謝らねばならないのだろうな」
「烏王様が? どうしてでしょう」
 天国と思えるような扱いをしてもらい、まるで謝られる覚えはないのだが。
 烏王は、ふいと菊に背を向け、草を踏みならしながら遠ざかる。どこにいても黒ばかりの彼の姿は、艶(あで)やかな景色の中で一際目立つ。どこに行くのだろうか、と不思議に思い眺めていれば、彼は一度屈み、そして戻って来た。
「人は、このような地味な野花など嫌いかもしれないが……俺がレイカにしてやれることは、これくらいしかないからな」
 烏王は菊の髪に触れた。菊の胸に落ちた真っ直ぐな髪を、耳に掛けるようにして梳きあげる。手が髪から離れた後、菊の耳元には鮮やかな紫の花――スミレが飾ってあった。
「これは……」
「スミレだよ。俺からの気持ちだ」
 菊は、耳元に触れる柔らかな花びらの感触に、喉を詰まらせた。誰かに花を飾ってもらえる日が来るとは。
「よく似合っている。綺麗だ、レイカ」
 今まで感じたことのない様々な感情が身体を駆け巡った。それは胸を打ち、喉を震わせ、目を熱く、口の中を酸っぱくさせた。しかしその数多の感情を表わす言葉を、菊は知らない。
「今、人の世は多くの光であふれているのだろう? だが、我らの郷は夜になれば暗く、身を飾るものもこのような花くらいしかない。きっと人の世の暮らしに慣れたレイカには、物足りない思いをさせていると思う。それでも、来てくれてありがとう」
 烏王の伸ばされた指先が、菊の頬に触れた。
 瞬間、菊の肩がビクリと跳ね上がった。
 菊が「しまった」と思った時には遅かった。
 目の前の烏王の口元は笑っていたが、赤い目は悲しみに耐えるように眇められていた。菊に触れようと伸ばされていた手は、行き場を失ったように指先を震えさせ、そしてゆっくりと持ち主の元へと戻っていく。
「……やはり、それでも烏の手は怖いか……だが、烏王を次の代に引き継ぐには人の血が必要なのだ。我々烏は、精一杯レイカを大切にし、不自由ないようにさせると誓う。安心しろ、烏は愛情深い生き物だから」
「――っ!」
 菊は、踵を返し遠ざかろうとする烏王の腕を、跳びかかるようにして掴んだ。突然のことに目を丸くする烏王をよそに、菊は掴んだ烏王の手を、自分の頬へとあてがった。
「こっ、怖くありません!」
「決して」と、菊は自らの頬を、烏王の掌にすり寄せた。
 この気持ちを表わす言葉を知らない。ならば、言葉以外で気持ちを伝えなければと思った。
「私は、烏王様の事を、烏たちの事を、怖い……とは思いませんから」
 烏は菊の唯一の友人でもあった。座敷牢を訪ねてくれる、優しい友人。怖いと思った事すらない。
 頬に触れられようとする度に身が竦んでしまうのは、過去の叩かれてきた記憶が、知らずに身を守ろうとするからだった。決して烏王を厭っての事ではない。
 ――むしろ、私は……。
「もっと触れて欲しい」と言いかけて、己の言葉の大胆さに菊は頬を赤くした。そう思えば、自分が今やっている事も相当はしたないのではないか、と菊は我に返り、飛び退くように手を離す。
「も、申し訳ありません、急に触れてしまいまして!」
 郷に来てから初めて見せる菊の機敏な動きに、烏王は口をまるめて、ふ、と笑みをもらした。
「お前は謝ってばかりだな」
「申し訳ありません……」
「ほら、また」
 烏王が喉をクツクツと鳴らせば、菊は恥ずかしそうに眉尻を下げた。
 菊が退いて空いてしまった距離を埋めるように、烏王は一歩踏みだし菊と距離を縮めた。
「なあ、そのスミレは気に入ってもらえただろうか」
 烏王の指が、菊の耳元を指していた。
「気に入るなどと、滅相も……このような気遣いをしていただき、申し訳ないほどで――」
「違う。俺が聞きたいのはその言葉ではなくて」
 菊の言葉を遮った烏王の声は、少々不服そうであった。顔を見れば、口をへの字に歪めているだけでなく、柳のような眉までも不格好に歪めていた。
 菊は自分の持ち得る言葉の中から、懸命に烏王の求めるものを探す。そうして、滅多に使わず、使われた事もないある一つの言葉へと辿り着く。
「あ……ありがとうございます」
 確かめるように口にした言葉に、烏王は正解だとばかりに目を細くし、口元に綺麗な弧を描いた。降りそそぐ春陽のような温かな笑みに、菊の表情もつられて柔らかくなる。
 その菊の笑みは控え目なものであったが、その野花のような楚々とした笑みは、烏王の胸を高鳴らせた。
「……っ身体も、充分に温まったようだな」
 烏王は菊に手を差し出した。しかしその顔は、身体ごとそっぽを向いている。菊は気付かなかったが、この時の烏王の耳はその美しい目と同じ色に染まっていた。
 烏王の「帰ろうか」との言葉に、菊は「はい」と、差し出された手に、今度は自ら手を重ねた。
 
 ◆
 
 菊を部屋に送りとどけると、烏王はさっさと自分の棟へと戻って行ってしまった。黒く大きな背中が遠ざかっていくのに、索漠とした気持ちを抱いたのは初めてだった。
「あぁ、どうしたら」
 頬を両手で包み込めば、じんわりと熱を帯びている。
「私は、まがい物だというのに……」
 だというのに、髪を飾ってくれた気持ちを、向けられた温かな眼差しを、壊れ物に触れるように優しく握る手を、菊は嬉しいと感じてしまった。そして、嬉しさと共に発生した欲深い願いもまた、菊を悩ませる。
 ――このまま、ここで……
「ずっと、彼の隣にいたい」
 口に出てしまった願望に、菊の目尻が赤くなる。
 この願いは、烏王を欺き続けることにもなるというのに。それでも一度もってしまった感情を消すのは容易ではない。
 それに、菊がそう望んでしまうのも無理からぬ事であった。
 烏王の屋敷に来てからというもの、菊は会う者皆に好意的な目を向けてられていた。向けられる笑みに嘲りなど一切ない。菊を見つけては「花御寮様」と微笑みかけてくれる。それが菊には嬉しかった。『ここにいてもいい』と言われているようで。
 ただ、烏王に「レイカ」と呼ばれると現実に呼び戻される。本来なら自分は場違いなのだとチクリと胸が痛む。まるで、レイカが「あんたはあたしの身代わりに過ぎないのよ」と、嗤って刺してくるようだった。
 しかし、『レイカ』でいないとここにいられないのなら、それくらいの痛み、耐えられる。村では、もっと多くの痛みが、心だけでなく身体も襲っていたのだから。
 もしかすると、地獄に垂らされた蜘蛛の糸は烏王だったのではないか、と散り桜の美しさを目に映していれば、背に「花御寮様」との声が掛けられた。
 振り向けば、一人の侍女が立っていた。肩口で綺麗に切りそろえられた髪は、彼女の気の強そうな面立ちに、よく似合っている。一見すると、冷たい印象を抱きがちだが、菊は彼女がそのような者でないことを知っているう。いつも丁寧に世話をしてくれる侍女だった。
「どうかしましたか、若葉さん」
 しかし、侍女――若葉からの返事はない。若葉は目利き人のような鋭い視線で、菊をつぶさに観察するばかり。その眉間には皺が寄っている。
 若葉は、前髪の一部が彼女の名のように鮮やかな緑色をしていた。どこかでその色を見た気がするのだが、はたしてどこだったか。
 菊が思い出を探り始めたとき、漸く若葉が口を開いた。
「古柴レイカ様――」
「はい、何か……」
 ご用でも、と伺いの言葉を口にしようとした次の瞬間、その言葉は「ヒュ」と風音を立てて、喉の奥に引っ込んだ。
「――ではありませんよね」
 知らずの内に、菊は袂をくしゃくしゃに握り締めていた。

 ◆

『古柴レイカ』という村娘が、花御寮に選ばれたと知らせを受けた。
 村に放っていた烏たちの報告では、随分と気性の荒い娘だと聞いていたが、実際に輿入れされた者を見て驚いた。やってきた花御寮は、気性が荒いどころか、むしろ気性というものがあるのかと首を傾げたくなるほどに静かな娘だった。
 綿帽子を脱がせ、俯いた顔が上げられれば、再び驚くこととなった。
 人間が、自分達烏を嫌っていることくらい知っている。
 真っ黒な身体に鋭利な嘴、目は常に何かを狙うように妖しく輝き、鳴き声はささくれ立っている。これで好意的に捉えろという方が無理だろう。
 だから烏王は、花御寮の自分に向けられる目に、期待はしていなかった。どうせ、恐れか、怯えか、嫌悪の類いだろうと。
 しかし、彼女の目は予想していたどれとも違った。
 春光が射し込む湖面のようにキラキラと輝き、何度も目を瞬かせていた。これは、と思った。もしかすると、上手くやっていけるのではないかと。
 手を差し出せば、おずおずとだが小さな手を乗せてくれた。その時の胸の高鳴りを、烏王は未だに覚えている。望外の喜びだと、気持ちを込めて彼女の名を丁寧に呼んだ。この先、何百何万と口にする名だからこそ、その最初は心を込めて呼びたかった。
 ところが、その喜びは長く続かなかった。
 彼女に触れようとすると、いや、ただ手を近付けるだけで、彼女は身を縮こめて怯えた。そして、自分を見る目はいつも不安に揺れている。最初に向けられた、あのキラキラしい眼差しはなかった。
 あまりの変わりように、やはり花御寮が嫌になったのかと思ったが、侍女達の話では、どうやらそういうわけでもない様子。彼女は、辺鄙な場所だと憤慨することも、「帰りたい」と泣くわけでもなかった。一日中、縁側から外を眺めるばかりだと言う。唯一、彼女が自分の意思を示したのが、「湯殿の手伝いはいらない」ということだけ。
 ますます彼女が分からなくなった。
 最初の輝くような瞳をもう一度向けて欲しかった。あの、こんこんと湧き出る清水のように澄んだ真っ黒な瞳。烏たちの色であり、自分の色でもある黒。
 ただ、その瞳で見つめて、そして、もっと笑ってほしいだけ。
「嫌われてはいない……とは、思うのだがな……」
 ただ、好かれているかと問われれば、実に怪しいところではある。
 それでも烏王は、もう一度、彼女のあの顔が見たくて毎日足繁く通った。その成果が、今日漸く実った。
 彼女から手を握られ、しかも頬にあてがわれ『怖くない』と言われた。そしてスミレを贈れば『ありがとうございます』と言って彼女は笑った。優しく、心に沿うような穏やかな笑みだった。
 陽光に温められた頬が、ほんわりと赤く染まっている姿がまた可憐で、思わず抱きしめたくなったものだ。しかし、その欲は理性でもって必死に押しとどめた。やっと少し心を開いてくれたというのに、いきなり抱きしめて、また心を閉ざされては困る。彼女には忌避でも嫌悪でもない、ただ、どこか一枚隔てたような、これ以上踏み込んでくれるなとでも言うような壁があった。
「我らが怖いわけでないのなら、何なのだ」
 その壁の理由はまだ分からない。
 烏王は返事する声はないと知りつつ、「レイカ」と呟いた。そして釈然としない顔で首を傾げる。
「どうも、この名も彼女には合っていない気がする」
 彼女には、もっと穏やかな響きの名の方が似合っていると思う。しかし、人間の名付けなど詳しく知るよしもない。あまり耳慣れない響きに、単に自分が違和感を覚えているだけだろう。人世は今急激に変わり始めていると聞く。この耳馴染みのない名も、その影響だろうか。
 烏王は「あー!」と頭を掻きむしった。ただでさえ無雑作に跳ねている毛先が、より一層派手に跳ねる。
 不完全燃焼な思考に「分からん」とぼやけば、今度はその言葉に返事があった。
「何がです?」
 丸みを帯びた柔らかな男の声だった。声がしたのは、部屋の入り口ではなく窓の方から。
 烏王が横目に窓辺を伺えば、一羽の烏が窓から部屋へと飛び込んでくる。次の瞬間、大きく広げられた両翼は薄墨色の袂になり、平筆のような尾は長衣となった。床に伏せた烏が顔を上げれば、そこにあったのは烏ではなく人の顔。
「なんだ、灰墨(はずみ)か」
「なんだとはなんです。それがこうして懸命に飛び回っている近侍にかける言葉ですか」
 灰墨と呼ばれた青年がわざとらしくへそを曲げれば、烏王は「悪い悪い」と苦笑した。当然本気で憤慨などしていない灰墨は、「許しましょう」と近侍らしからぬ物言いと共に、顔を烏王に戻す。
「それで、何が分からないのです?」
 途端に、緩んでいた烏王の表情に険が混ざる。
「レイカだ。どうもお前達から聞いていた像と、かけ離れている気がするのだが」
「あー確かに。わたしも村人達が口にする話とは、随分と違うなと思っていました」
「村に行ったのなら、お前はレイカの姿を確認しなかったのか?」
 灰墨はやれやれと肩をすくめ、両手を上げて首を振った。
「人間に烏の区別がつかないように、わたし共も人間の容姿の区別はつきにくいんですよ。まあ、烏王には分かりづらいと思いますが」
「はは、お前達も難儀だな」
 同じ烏の妖だと言っても、烏王とその他の烏たちとでは性質が違う。烏として生まれ、妖力による変化で人間の姿をとる烏に対し、烏王は人間の血を半分もって人間の姿で生まれる。この違いが烏王たる由縁でもあった。
「多少の違いならば気にもしなかったが、正反対と言えるほどに違うとなるとなあ」
 彼女の怯えの正体や壁の理由を無理に暴きたくはなかった。時間をかけて距離を縮め、それによって怯えも壁もなくなるのなら、それが一番である。
 しかし彼女のそれは、恐らく時間をかければなくなるようなものではないと、烏王は薄々感じていた。
「灰墨、悪いがもう一度村でレイカの噂を集めてきてくれ」
「夫婦事情に首を突っ込まない主義ですが……まあ、わたしも気になるので、やぶさかではないですね」
「それじゃ頼んだぞ。それと、お前は窓から出入りするな。入り口を使え」
 灰墨は「はーい」と、気前の良い返事をして、窓から烏の姿になり出て行った。