古よりその村には、新たな『烏王(うおう)』が立てば、年頃の村娘を花御寮として輿入れさせなければならないという因習があった。
 この度、新たな烏王が立ち、村からは一人の娘が選ばれた。
 つつがなく婚儀が執り行われ、晴れて烏王は花御寮をむかえたのだが。
 しかしこの女、既に身籠もっていたという。

 ◆

 背中を襲った予期せぬ衝撃に、菊は受け身をとる暇もなく、小石の散らばる土道に顔から突っ込んだ。
「ちょっと、菊。誰の許しでこんな真っ昼間から外に出てんのよ」
「レ、レイカ姉様」
 道に散らばってしまった野菜やかごを、菊はチラと見遣る。
「……ツル子さんから、畑に行ってこいと言われまして」
「チッ、あのババア。自分で行くのが面倒だからって……怠け者ったらありゃしないわね。後でお母さんに言って、叱ってもらわなきゃ」
 悪態をつく従姉のレイカをよそに、菊は散らばった野菜を拾い集める。土でいかばかりか汚れてしまったが、洗えば充分食べられる。それより身体で潰してしまわなくて良かった。
「いい? あのババアがなんと言おうと、日が高いうちは家の中の仕事だけやってなさい」
「分かった!?」と、癇癪的に叫ぶレイカに、菊は無言で頷いた。
「はぁ。従姉妹だからって、どうしてこんな忌み子と一緒に暮らさなきゃなんないのよ、まったく……」
 レイカは聞こえよがしな溜め息をつくと、転んだ菊を助け起こすこともなく、さっさと踵を返し屋敷へと帰っていった。
 菊はレイカの姿が見えなくなると、のろのろと動き始め、野菜を再びかごにのせる。
 そうして、立ち上がろうとすれば草履がずるりと滑った。
 ――あ、鼻緒が……。
 ただでさえボロボロの草履の鼻緒が千切れていた。転んだ衝撃で切れてしまったのだろう。何か結べそうなものはないかと辺りを見回す。そこで菊は、周囲には村人達もいたのだと初めて気付いた。
 皆、菊と目が合うのを避けるように顔を逸らしたり、慌ただしく背を向けたりした。誰一人として菊に近寄ろうとも、声を掛けようともしない。
 菊は壊れた草履を手に持つと、不格好な歩みで屋敷へと戻った。

「良かった……まだ納屋に藁が残っていて」
 菊は僅かな月明かりの中で鼻緒の修理をおえた。採光と換気のための必要最低限の大きさしかない窓。そこから射し込む月明かりは申し訳程度だ。
 菊は、部屋に一つしかない窓を見上げた。
 窓枠もなくガラスも嵌められていない。あるのは格子のみ。壁の高いところに位置取られた高窓から見える景色は、地面に生い茂った草と月夜のみ。
 菊に与えられた部屋は、屋敷の地下に作られた、かつて座敷牢として使われていたものだった。しかし牢と言っても、鍵はかけられていない。レイカ達伯父母家族にとって、菊は厄介な存在であった。居なくなりこそすれ、家に置いておきたくなどないのだ。座敷牢をあてがっているのだとて、他人の目に極力触れさせないようにする為である。
 しかし、たとえ家を出たところで菊には行く当てもない。この村以外で生きる術など、菊には持ち得なかった。
 人の踏み込まない山奥にひっそりと存在するこの村は、人世とは隔絶されている。
 外の世界では、異国の文化が持ち込まれ、夜でも赤い火が道を照らしているという。木造の家屋が当たり前の村と違い、赤煉瓦が眩しい建物や、何段にも屋敷が重なったアパルトメントというものもあるらしい。道行く者も、洋装という格好をする者が増えていると聞く。
 村外の仕事から戻って来た者達が、口々に話すのを聞きかじった程度だが、それだけでも村とは随分と違う世界なのだと分かった。
「お腹すきましたね」
 昼間に外に出た罰として、夕飯は与えられなかった。与えられると言っても、レイカや伯父母が食べるようなものではく、野菜の切れ端などで自分で作った、使用人の賄いよりも粗末なものだが。
 しかし、このような状況は今に始まったことではない。よって、菊は着物の懐にいつも木の実などを忍ばせていた。時折夜に屋敷を出ては採集している。
 アカモモを口に含む。シャクシャクと心地良い歯応えと、仄かな甘味にほっと息をつく。小石で切った足裏の痛みも、引いていくようだった。
 すると、近くで「カァ」と烏の鳴く声がした。
「あぁ、今日も来たのですね」
 菊が「こんばんは」と、声のした窓辺に目を向ければ、そこには一羽の烏が格子から顔を覗き込ませていた。濡れ羽色の身体は通らないが、その小さな頭のみならば格子を抜けることができ、烏は首を突っ込んでキョロキョロと、まるで菊を探すような素振りを見せる。
「どうしました? 今日もお腹がすいているのですか」
 羽先が鮮やかな緑に色付いた烏だった。普通なら烏の見分けなど付かないものだが、この烏だけはその特徴からすぐに分かる。
 緑の烏がこうして部屋を訪ねてくるのは初めてではない。よく、こうして夜にふらりとやってきていた。まるで気心の知れた友人のようで、菊はこの緑の烏の来訪をいつも心待ちにしていた。
 菊はつま先を立て手を伸ばし、格子の外に持っていたアカモモの実を転がした。
「美味しいから、友達がいたら一緒に食べると良いですよ」
 烏は器用に嘴で転がっていた実を二つ咥えると、窓よりも大きな翼を広げて夜空へと消えていってしまった。羽音が聞こえなくなるまで、菊は窓の外を眺めていた。
 静寂が部屋に満ちれば、菊は窓の麓に腰を下ろす。
「いいな」と、菊は残り一つとなった実を一人、少しずつ時間をかけて食べた。

 村人は皆、着物姿。足元は草履や下駄。建物は歴史を感じさせる木造屋敷。場所によっては茅葺きも残っている。決して人口が少ないわけでもなく、老人ばかりということでもない。
 それでもなぜこの村が、時を止めたように人世の色に染まらないか。
 それは偏に村の生業にあった。
 この村は、その昔、烏王が村人に魑魅魍魎を滅伐する力を与えたことに始まる。
 うつし世とかくり世との境界が曖昧だった時代、しがない悪戯ばかりする魑魅魍魎の数は多く、人間だけでなく妖も手を焼く存在であった。
 その事を重く見た時の烏王は、自分達よりも数の多い人間に魑魅魍魎を滅伐させる事を考えた。そうして人の身で滅伐の力を持つ、魑魅魍魎退治の村が生まれた。
 異国の風が国に吹き込み、暗がりが街から少なくなり、人々の意識から闇夜の恐怖が薄れようとも、魑魅魍魎はどこにでも跋扈する。影があり夜がある限り、それらが消えることはない。同時にそれは、たとえ人世と隔絶された村であろうと、貧しさに嘆くことなく、永劫に存在しうることを示していた。
 ただし、何かを得るにはそれ相応の代償はつきもの。
 烏王は力を分け与える条件として、村に代償――契約を課した。それが、『烏王が立つとき、村から花御寮――烏王に嫁ぐ娘を差し出す』というものだった。その子がまた、次代の烏王になるという話だ。
『どうせ烏の王なんて、陰湿で粗暴で汚い目をしたおぞましい化け物よ』とは、レイカの言である。
 誰も烏王の姿を知らなかった。歴代の村長(むらおさ)でさえまみえたことがないと言う。
 正体の分からない烏の王。恐らくは烏の妖だというのが村人達の認識だ。不思議な力を持ち、正体は一切の謎に包まれている。花御寮に捧げられた者のその後の消息も不明。
 誰もがレイカのような思いを抱くのは、当然であったのかもしれない。中には、花御寮はただの生け贄だと言う者もいた。人を食べるために、このような契約を課したのだと。
 花御寮とされる娘の歳は十四から十九と決まっている。村の娘達は十四になるのを泣いて嫌がり、十九が明けるのを泣いて喜ぶ。
 今現在、菊は十八であり、レイカは十九であった。
 レイカが十四になった時から、菊は『あんたは良いわよね、嫁げやしないんだから! あたしも村を捨てて逃げたいわよ! あんたの母親みたいにねえ!』と、事ある毎に、藁人形のような仕打ちを受けてきた。
 村の者は、仕事で外の者と関わる事はあれど、力の流出防止と秘密保持のため、村外の者と婚姻することを禁じられている。
 菊の母親はその掟を破り、逃げるようにして村外の者と行方をくらませた。
 それから数年後、突然、菊の母親は幼い菊の手をひいて村に戻ってきた。見る影もなくボロボロにやつれた姿で。そして、菊を捨てるように伯母に預けると、また行方をくらませた。今や、生きているのか死んでいるのかさえ分からない。
 そのような経緯があるため、菊はたとえレイカや伯父母にひどい仕打ちを受けようと、全て受け入れてきた。
 しかしそれもあと少しの辛抱だった。あと数ヶ月もすれば、少しは彼女の赫怒も収まるだろう。
 彼女は、最近ではよく『あーあと少しであたしも二十ね。早く対象外にならないかしら』と、嬉しそうな声で聞こえよがしに言ってくる。『そうしたら好きな男と結婚するの』と、結婚の望めない菊を嘲弄するかのように。
「私は、ずっと一人でしょうか……」
 村からは出られない。しかし村には、このような掟破りの娘を受け入れてくれる物好きもいない。
 だとすれば、自分はこの先どうなるのだろうか。
 きっと、一生古柴家の使用人としてレイカに顎で使われ続けるのだろう。そう思うと、少しだけ憂鬱になってくる。
 しかし、それしか生きる方法はないのだ。一本道しか。
 であれば、孤独よりかはマシだと菊は自分に言い聞かせ、先の事を考えるのはやめた。
 考えても、虚しいだけだ。
 
 しかし、突如として菊の一本道は曲げられる事となった。
「いやあああっ! 何で、何でよ! 何であたしが!?」
 レイカが、新たに立った烏王の花御寮に選ばれたのだ。
 花御寮は村の神事によって選ばれ、一度決定すれば拒む事は出来ない。屋敷中に響くレイカの絶叫。使用人達が何だ何だと仕事場を離れ、声のする広間を覗きに来る。
 そこではレイカが畳に突っ伏しむせび泣き、同じく伯母も伯父に縋るようにして涙していた。
「あなたお願いよ、レイカを奪わないで! あと数ヶ月……数ヶ月待ってから、神事をすれば良かったじゃないの」
「俺だってレイカを差し出したくはないさ! だが、仕方ないんだ。決まってしまったものは……っ、掟には誰も逆らえないんだ!」
「あの子の母親は破ったわよ!」
 使用人の中に紛れるようにしていた菊に、伯母は射殺さんばかりの目を向けた。黒い涙を流す血走った目は、人とは思えぬ悪鬼のような恐ろしさがあり、使用人達は火の粉が降り掛からぬようにと、菊から距離をとる。
 向けられた菊も、その凄まじさに息を飲んだ。
 身を強張らせている菊に、ドカドカ伯母は大股で近寄ると、髪を鷲掴んで引きずるようにして広間に投げ倒した。
「っどうして! うちばっかり! こんな目に遭うのよ!」
「――ッ、すみま、せ……っ」
 着物がはだけるのも気にせず、伯母は横たわった菊の細い身体を踏みつけた。何度も何度も。
 しかし伯父どころか、使用人さえ誰も止めない。ただ眉を顰めて顔を逸らすだけ。広間には伯母の癇癪な金切り声と、菊のくぐもった呻き声だけが響いていた。
「私が! 姉さんのせいで! どれだけ肩身の狭い思いをしたか! なのに、なんでその娘の世話までしなきゃなんないのよ! さっさと外でおっ死ねばよかったのに!」
 菊の母親が村の掟を破ったことにより、残された家族は村で身の置きどころを失った。母親の両親はその重圧から身体を壊し早逝し、妹である伯母も肩身の狭い思いをしたという。それでも伯母は、村でも長に次ぐ大家である古柴家に既に嫁入っていた事もあり、それほど表立っての批難は貰わなかったらしいが。しかしやはり、未だに村人が伯母に向ける態度は、どこかよそよそしかった。
 伯父も結局はその煽りをうけたかたちになり、やはり菊には冷たかった。村長の命で、親族だから菊を養えと言われていなければ、とうに放り出されていただろう。
「どうして! どうしてうちのレイカなの!? お前はのうのうと生きられるのに、どうしてレイカなのよ!? 親にも捨てられ、村の役にも立たないのにっ、忌み子なんか家に入れたから、うちはこんなにも不幸なのよ!」
「――っぐ!」
 こうなった伯母は誰の手にも負えない。目を覆いたくなる光景から逃げるように、使用人達は静かに仕事へと戻って行った。
 ――置いて……いか、ぃ、で……。
 菊は、遠ざかる背中に手を伸ばしたつもりだったが、実際は小指がぴくりと揺れただけだった。
 次第に、菊の意識も、痛みから逃げるように朦朧となる。
「あ……そうだ」
 レイカが薄ら笑いと共に口にした言葉は、先程までとは打って変わってとても静かだった。
 その先の事を、菊は知らない。