「『姫』。こんばんは」
「また? 今光源氏っ」
 どうにも顔を背けたくなる、数学の課題プリントに着手しようと机に向かっていた輝月は、珍しく課題に顔を向ける、どころか勢いよく顔を引っ付けた。
 過多ではあると思うが所詮紙数枚。クッション代わりにはならない。しかし、ごん、と鈍い音が鳴るのは、寸前で今光源氏の掌により防がれた。
「いや。千日通ってこいって言ったの『姫』だし」
 いってー、と、クッションになった右手をぶんぶん振りながら、拗ねたように言う。そして無断でペン立てからペンを抜き取り、カレンダーに三十、と書き込んだ。
 はあっ、とこれみよがしにため息をついて、輝月はその存在を無視し、シャープペンシルを握る。課題課題。こんなやつ、相手にすることない。
 くっ・・・・・・全然わからん。
 思わずその内容にうめく。それでもスルーで通そうと思っていたのに、今光源氏がペンを取り上げ、すらすらと解いていく。さすがに無視はできなかった。
「はぁあ? なんでそんなに解けるの?」
「ま、ね」
 にやりと笑う顔が憎らしい。さらに憎らしいのは、解法を教えてくれたこと、それにすごくわかりやすかったこと。もう、マジ、ウザい。
 なにコイツ。
 ずっと思ってしまう。そろそろ梅雨明け、とニュースで叫ばれ始めても、蝉が喧しく鳴き始めても。
 今光源氏は、通うことをやめなかった。
「もう一ヶ月だよ・・・・・・」
 思わず再びうめく。最初の方は、三日も続かないと侮っていた。
 三日経ってからは一週間でやめるから心配ないと考え、一週間が経過したときは半月で終わるだろうと、三週目に突入してからは、まあ一ヶ月でだんだん疎遠になるでしょと思っていた。
 それが、今日で一ヶ月。それでも、やはり半年でこの光景はなくなるとおしはかり、そして五ヶ月後には一年、と、ほとんど願うような気持ちで思っているのではないか。
 十五年とちょっと、この体と、この脳みそ、この思考と付き合ってきたのだ、それくらい予想はつくが、その思考をやめることはできなかった。
「ねえ、『姫』。海、行かない?」
 突飛な提案すぎる。海なんて、去年に家族三人で行ったっきりだ。それが一年で、男子と? 女友達飛び越えて、男と行けっての?
「ななななな・・・・・・なんでっ」
「クラスの女の子たちから誘われた。夏休み初日。どう?」
 『女の子』なんて、そんな言い方するのはコイツだけだ、と思う。大抵は『女子』。と、どうでもいいことが頭に浮かぶ。慣れてないんだろうな〜。
「やだ」
 即答した輝月に、今光源氏はコケる真似をした。意外とお茶目らしい。
「なぁんでっ」
「寂しいだけじゃん、そんなの! 私、友達いないし」
「大丈夫。俺が相手してあげる」
「やだよ。男子と海なんて」
 結局行きたくないだけだ、という気持ちが透けて見えたのか、ぐっと唇を尖らせた。
「じゃ、どうしたら来てくれるの?」
「ん〜・・・・・・」
 考え込む。どうしたら断れるかなぁ。
 あ。
「交通費、食事費、その他諸々負担してくれるなら」
「いーよ」
「えっ、はっ?」
「了解。じゃ、約束ね。ばいば〜い」
 今光源氏は、風とともに気づいたらふらっと横にいて、気づいたらふっといなくなっている。今日もそうだった。目を瞬いているその隙に、どこかに消えている。
 とにもかくにも、あと一ヶ月後くらいに、輝月は強制的に海へと連れ出されることになったのだ。