大きいため息をついて、腕を伸ばし、机に突っ伏す。
 午前の授業を終えて、ようやく訪れた昼休みの上に、思い切りあぐらをかこうと力を抜いた、そのとき。
「『姫』。考え直してくれた?」
「わあっ」
 またコイツ? 毎日毎日、もう!
 がたん、と、自身の口からもれた悲鳴をかき消すように勢いよく立ち上がる。そのまま教室を出て、階段を猛スピードで駆け降りた。
「ひーめっ」
 だけど、走りには、人と関わることと肩を並べるレベルで自信がない。すぐ追いつかれ、強く腕を掴まれて引き戻される。踊り場で、二人は向かい合う。
 ああ、もう・・・・・・。
 転校してきて以来一週間余、毎昼休み、油断すると放課後も、ご丁寧にずっと追いかけられている。それがますます、今光源氏を狙う女子たちの逆鱗をなでまわす。
「いい加減姫ってやめて?」
「だって、『今かぐや姫』は長いじゃん」
「だからって、もう・・・・・・すごい目立ってるの、気づいてるの?」
 全く気にすることなくにこにことしている今光源氏を、輝月はぐっと顔を険しくして、睨む。
「気づいてる。いいことじゃん」
「よくない! 悪目立ちっていうの、こういうのを。指名手配されてポスターあちこちに貼られてテレビでも紹介されるようなものでしょ? それでもあんたは嬉しい? 嬉しいのか、え?」
 さすがにここの生徒は人としての分別などは備えているらしく、いじめなんかは起こっていない。さすが地上、さすが道徳。
 けど。
 ちらりと上を見ると、さっとなにかが壁に隠れた。
 刺すような、冷たい視線が、ほら、今みたいに、ちくちく突き刺さる。人の目は怖い。人を人と思わないで見てくる目は怖い。激しい憎悪と冷たい軽蔑がこもった目は、合ってしまうだけで呪われる気がする。心が負けてしまうのだ。
 できる限り視線は目に向けない。ひたすら視線を伏せて過ごすしかない。そんな日々は、もう繰り返したくなかったのに。
 感情を押し殺した目で、ぐっと涙を堪えて。声を平にして、精一杯強がって。
「帰らない。帰りません。月には帰らないから」
 何度も繰り返す。私の説得なんて早く諦めて、帰ってほしいーー。
 しかし、そんな懇願を見抜いたのか、今光源氏はにやっと笑った。
「高校生終わるまで、留学だから帰らないよ。ま、『姫』を説得できたらなによりだけど、ね」
「え・・・・・・留学期間が終わるまで、これが続くってこと?」
 絶望の色を隠せないまま、輝月は呆然とつぶやいた。
「そうだね。うん」
 それは、困る。非常に困る。あの目と隣り合わせで三年。・・・・・・辛すぎる。
 頭をフル回転させて、なんとかあの恐ろしい視線から逃れる方法はないのか探る。あわよくば月へ帰ることも諦めさせる方法。
 そんなときでも、どこからかにぎやかな声が耳に入る。次の時間に小テストでも控えているのか、歴史を勉強する声がここまで響いてきていた。
「遣隋使は?」
「小野小町、じゃないや、小野妹子!」
 そうだ。ぱっと閃いた。
 小野小町といえば、世界三大美女の一人で、そして。
 百夜通いの伝説がある人!
 なんとか草なんとかって男の人が、かの有名な絶世の美女・小野小町に恋をして。でも小町は、その人の気持ちが鬱陶しいだけ。百日通ったら結婚してやると無理難題をふっかけ、しかしその男の人は怒るでもなく、ちゃんと通う。すごいよね。優男! でも、残念ながら、雪の降りしきる百日目に亡くなってしまう・・・・・・って話だったような。
 古典の先生である担任がぽろっとこぼしていた話を覚えてる! すごい、私。軽く感激しつつ厳しい顔をキープして、今光源氏に提案、と言った。
「ん?」
「千日間、うちに夜通ってくれたら、帰ってあげてもいいかな。その代わり、学校では極力関わらないこと」
 厳しい条件すぎたかな。千日。後で計算したら、二年と九ヶ月だった。今が梅雨真っ盛りの六月だから、ちょうど高校三年生の三月。ちょうどいい! 天才じゃない? 私。
 しかし。
 ぐっと寄せられる、という予想に反して眉根が開き、悲しい色が浮かぶのでは、と思っていた瞳は輝き始めた。
「本当? いいの? マジ? え、千日? ざっと三年・・・・・・え、マジでいいの?」
 いっぱいハテナを投げかけられて、狼狽える。
「え? うん」
 まあ、どうせ無理でしょ、と思う。
 三年。私はそんなになにかが続いたことないし、三年って相当よ? 石の上に座るのもきついけど、同じ女子の家に通うってのもなかなか。
 思えば、百日も同じようなもん。五十歩百歩感覚で一緒。そう思うとすごいな、恋って。小野小町、どんだけいい女だったんだ。そんなにお高く留まっていても嫌われないし怒られないし、後世まで残ってしまうんだから。すげー・・・・・・。
 そう、輝月は軽く考えていた。今光源氏が、どれだけ輝月を月へ連れ戻すことに命をかけているか、知らなかったから。