かぐや姫、ときどきシンデレラ

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 月の都に住んでいたのはほんの一年前。だけど、記憶から抹消したい。
 輝月の中に何個も出来上がった、記憶を奥底に眠らせた引き出し。故郷の慣例、地位の決まり、法律や暮らし。その種類は多岐に渡る。
 今光源氏との出会いによりその中で比較的緩く閉じられていたいくつかが開いたことで、輝月は悩んでいた。
 乱れたベッドに座り、首を傾げる。
「そんなに、帝に子供っていらしたっけ・・・・・・?」
 古き良き都。ーーというのはいい解釈すぎる。
 今、地上に慣れた今だからこそ思う、なんとも古臭いあの場所。
 おしゃれな洋服も面白い番組、ドラマも、きらきら光るビルも甘いスイーツも、なにもかもない。まるで、明治、大正にでもタイムスリップしたような建物たち。
 ただ、なにかの事業で儲けたとか、宝くじ連続で一等当てまくったとか、あとはそれこそ帝や皇族とか。リッチな暮らしをする人は地上と同じような生活をすることだって可能だ。
 あちらには密かに地上とツテを持つ商売人がおり、そして、必然的に地上に生まれながら月の都の存在を、企業秘密レベルながら知ることを許された人もいる。そのおかげで、地上の文化や家具、機械などを『お取り寄せ』できるのだ。
 しかし、それは莫大な金を渡すことで成り立つ。一般人には夢のまた夢のまた夢ぐらいの生活。
 それでもカラーテレビは映ったし、ネットも、大きなコンピューターでしか使えず動画サイトこそないもののつながる。ささやかな情報社会ではあった。
 そんな世界でも、帝の子沢山、というフレーズは聞いたことがない。そのため、小さな違和感を抱いたのだ。
 しかし。
 考え事があっても、深く考え込まないタチの体は休養を欲しているらしい。だんだん眠くなってきた。やっぱり、どうしても地上より上の人たちの情報に接する機会が少ないんだし、そのせいだろう。
 もやもやする霧を無理矢理にかき分けて、輝月はベッドに倒れ込んだ。
 レースカーテンさえ閉め忘れた窓からのどんよりした晨光(しんこう)で、いつもよりも早く目覚めてしまう。連なって昨夜のことはやっぱり事実だった、と否応なく意識させられて、朝っぱらから嫌な気分になった。
 絶対帰ろうと思うことはないって宣言、あの無茶苦茶な光源氏が聞いていたとは思えない。
 ずかずかと窓に歩み寄り、不安を払うように勢いよくレースカーテンを閉めて、手早く制服に着替えた。輝月は朝ご飯を制服で食べる派だ。ソースが飛んだとて友達も彼氏もいない輝月には関係のないこと。・・・・・・寂しい学校生活を送ってるもんで。
「おはよう、輝月」
「おはよぉ」
 朝食の席について、思わずのぞいた眠気を噛み殺す。あれから間を置かずに眠りに入れたとはいえ、普段よりだいぶ遅い時間。その上日の出とともに起きてしまったので、寝不足なのは明らかだった。
 ついもれたあくびに、授業ちゃんと受けれるかなと不安になる。
 地上では、故郷と違いデジタルも取り入れた授業風景である。そのため、地上の人なら慣れている操作方法から本来の目的である授業内容など、皆より覚えることが多く、正直核である内容に余裕でついていけてるとは言い難い。
 不安に思いながら、もう一つあくびがこぼれた。
 その様子と時計を見比べたのか、前に座った養母から、心配顔で話しかけられた。
「早いのね。悪い夢でも見たの?」
「え? ううん。なんとなく」
 忠告してくれた養母に、カーテンを閉め忘れた、とはどうにも言いにくい。
 他人とか、そんなの関係なく、本当の母のように、優しくも厳しく接してくれるこの人には、遠慮なく怒られる気がした。ちょっと前に一度、軽く怒られた。ぶっちゃけそれでさえ怖かったから。
「そう・・・・・・なにか悩みがあるなら言ってね」
「悩み?」
「昨日、だいぶうなされてたみたいだったもの」
 どうやら、今光源氏ともめていた声が階下まで漏れ聞こえていたらしい。それを、寝言だと取ったのだろう。
 いや、あれはうなされてるレベルじゃないだろ・・・・・・と自分がやったことながらちょっと呆れる。寝言で金切り声を上げる人っているのかな? 誘拐される夢とか見たら、そうなるんだろうか。
「あ、あぁ・・・・・・ちょっと、数学・・・・・・そう、数学の小テストがね。あってさ。夢にまで出てきたよ。もう、最悪」
 うまく誤魔化せただろうか。前に、数学は一番苦手な科目だと言ったからだろうか、養母はちょっと眉を下げて、うんうんとうなずいた。
「そっか。頑張ってきて。誰か、教えてくれる友達作りなさいよ」
「はぁーい」
 教えてくれる友達、ねえ。
 生返事さえもそこそこに、輝月は学校へと向かう。昨夜の、束の間の五月晴れは分厚い雲にかき消されていたが、雨は寸前で踏みとどまってくれているようだった。
 が、いつ降り出すかはわからない。もしかしたら一秒後かも、いや今かもしれない、なんて地震的思考で考えた養母に一応だから! と言われて押し付けられた傘を手に、湿った空気の中を歩き出す。
 しかし寂しいことながら、早めに学校に着いても一般の人が持つJKのイメージっぽくきゃあきゃあと話す相手もいない。
「あ、おはよ〜」
「おはよう」
 挨拶されたら、返す。だけど、それだけ。
 最初の方は、隣になった子から髪、綺麗だねとか、HRを、新クラスメイトとコミュニケーションをとろう的な時間に当てられたときに好きな食べ物は? とか、聞かれたけど、そういう子たちとはほとんどの確率で仲良くなれない。無理矢理に先生たちが作った時間で話す子とは、長続きしない。
 中学三年生という若さで流罪、そして転校してきて、他の人よりも一つ多く人との別れと出会いを過ごした輝月は、そういう持論がある。
 大してなにをするでもなく、スマホをいじっていた。こういうときにスマホは大活躍。故郷にはなかったからなぁ。
 自分のぼっちの現状から逃げる、なんてこと、気づいてる。もうとっくに。でも、やめたってぼっちから抜け出せるわけじゃないからね。
「ホームルーム、始めまぁす」
 梅雨の嫌ぁな湿気を払うように、涼やかな予鈴が鳴り響く。
 担任の、いつになく生き生きした声にぱっと視線を上げれば、もうクラスメイトが大半揃っていた。いつもより若干早い先生の登場に、JKたちは話をやめて、急いで座り始める。
 ふと視線を外に転じれば、細い雨が、小さな音を立てて降り始めていた。ああ、傘持ってきてよかった。さぁあ、と絶え間ない音に、どうでもいいことを思った。
「今日はね、転校生がいます。だから、ちょっと早く来たんだけど」
 ああ、ぜんっぜんどうでもいい話じゃん。ちらちらとあたりをさりげなく見れば、二、三人、机に突っ伏していた。隣の寝癖男子も。斜め前の前の眼鏡女子も。たぶん後ろの席の、ショートヘアの子も寝てる。あの子、いっつも寝てるもんなぁ・・・・・・正直、プリント配るときとか起こすん面倒なんだよね。気まずい。
 まあ、いいけど、それより。
 再びきょろきょろして、小さくうなずいた。
 ・・・・・・よし。
 寝よう。
 静かに心の中でしょーもない決意して、さりげなく頬杖をついた状態で目を閉じる。すでに眠気はこちらに向かって歩いてきていた。
 せんせ、どんな人ですか?
 ん? 聞きたい?
 はい!
 聞いちゃう? ・・・・・・男子
 え〜っ
 女子! 朗報だよ! いや、もう、本当に、かっこいい。すごいのよ。みんな、覚えてる、私が前教えた言葉。そう、まさに今光源氏──
 先生のうわずった声と、女子生徒のざわめく声をぼんやりと聞き流しながら、夢の世界へ、誘われていく・・・・・・
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 ぱこっ。
 自分でもそう思うくらいいい音がして、額に軽い衝撃と痛みが走る。いつ先生に名前を呼ばれてもいいように、と体が厳戒態勢だったから、ぱっと目を開くことができた。
「えっ」
 やばい。バレたかな。周りのざわめき具合に、思わず戸惑う。
 チョークでも投げられた? 体罰って教頭か校長かに訴えてもいいけど、非はこっちにあるしな、でも、地上ならゴリ押せばなんとか体罰、ダメ絶対風潮の時代だしなんでもいけるっぽいし、でも今はどう切り抜けよう、どう言い訳すれば。
 あれ、隣の子は? 寝てたよね、さては、名前も知らないアイツ、危険を察知して起きやがったな。抜け駆けはズルい。私だけ怒られるじゃん!
 必死に頭を回して教室の床に視線をそわせ、ちらっと隣を見ても、その男子は寝癖をこっちに向けたまま、微動だにしない。
 え、寝てるじゃん。
 なにか、変だ。もしかして先生に特定でいじめられてる? 身体中がこわばった。
 先生の表情を確認しようと、視線を上げた、そのとき。
「うわあああぁっ」
 椅子が派手な音を鳴らして、前脚を浮かせながら十センチくらい後ろに下がった。
「おっ。おはよ。『かぐや姫』。寝てたろ」
「今光源氏・・・・・・」
 喉の奥から、うめくような声がもれた。あの顔が。寝不足の原因の、あの顔が。
 のぞきこんでいた。
 悪夢の再来だ。
「あれ? 今光源氏の話、聞いてたの。寝てなかった?」
 担任が、頭の上にハテナを浮かべている。が、それより、他の女子生徒の間では、もっと話題に取り上げられたワードがあった。
「『姫』って言ってたよ」
「え・・・・・・やば」
「どういう関係?」
 ざわざわといつまでもさざめく教室で、なんとか今光源氏を睨んで追い払い、輝月は存在を消すしかなかった。
 大きいため息をついて、腕を伸ばし、机に突っ伏す。
 午前の授業を終えて、ようやく訪れた昼休みの上に、思い切りあぐらをかこうと力を抜いた、そのとき。
「『姫』。考え直してくれた?」
「わあっ」
 またコイツ? 毎日毎日、もう!
 がたん、と、自身の口からもれた悲鳴をかき消すように勢いよく立ち上がる。そのまま教室を出て、階段を猛スピードで駆け降りた。
「ひーめっ」
 だけど、走りには、人と関わることと肩を並べるレベルで自信がない。すぐ追いつかれ、強く腕を掴まれて引き戻される。踊り場で、二人は向かい合う。
 ああ、もう・・・・・・。
 転校してきて以来一週間余、毎昼休み、油断すると放課後も、ご丁寧にずっと追いかけられている。それがますます、今光源氏を狙う女子たちの逆鱗をなでまわす。
「いい加減姫ってやめて?」
「だって、『今かぐや姫』は長いじゃん」
「だからって、もう・・・・・・すごい目立ってるの、気づいてるの?」
 全く気にすることなくにこにことしている今光源氏を、輝月はぐっと顔を険しくして、睨む。
「気づいてる。いいことじゃん」
「よくない! 悪目立ちっていうの、こういうのを。指名手配されてポスターあちこちに貼られてテレビでも紹介されるようなものでしょ? それでもあんたは嬉しい? 嬉しいのか、え?」
 さすがにここの生徒は人としての分別などは備えているらしく、いじめなんかは起こっていない。さすが地上、さすが道徳。
 けど。
 ちらりと上を見ると、さっとなにかが壁に隠れた。
 刺すような、冷たい視線が、ほら、今みたいに、ちくちく突き刺さる。人の目は怖い。人を人と思わないで見てくる目は怖い。激しい憎悪と冷たい軽蔑がこもった目は、合ってしまうだけで呪われる気がする。心が負けてしまうのだ。
 できる限り視線は目に向けない。ひたすら視線を伏せて過ごすしかない。そんな日々は、もう繰り返したくなかったのに。
 感情を押し殺した目で、ぐっと涙を堪えて。声を平にして、精一杯強がって。
「帰らない。帰りません。月には帰らないから」
 何度も繰り返す。私の説得なんて早く諦めて、帰ってほしいーー。
 しかし、そんな懇願を見抜いたのか、今光源氏はにやっと笑った。
「高校生終わるまで、留学だから帰らないよ。ま、『姫』を説得できたらなによりだけど、ね」
「え・・・・・・留学期間が終わるまで、これが続くってこと?」
 絶望の色を隠せないまま、輝月は呆然とつぶやいた。
「そうだね。うん」
 それは、困る。非常に困る。あの目と隣り合わせで三年。・・・・・・辛すぎる。
 頭をフル回転させて、なんとかあの恐ろしい視線から逃れる方法はないのか探る。あわよくば月へ帰ることも諦めさせる方法。
 そんなときでも、どこからかにぎやかな声が耳に入る。次の時間に小テストでも控えているのか、歴史を勉強する声がここまで響いてきていた。
「遣隋使は?」
「小野小町、じゃないや、小野妹子!」
 そうだ。ぱっと閃いた。
 小野小町といえば、世界三大美女の一人で、そして。
 百夜通いの伝説がある人!
 なんとか草なんとかって男の人が、かの有名な絶世の美女・小野小町に恋をして。でも小町は、その人の気持ちが鬱陶しいだけ。百日通ったら結婚してやると無理難題をふっかけ、しかしその男の人は怒るでもなく、ちゃんと通う。すごいよね。優男! でも、残念ながら、雪の降りしきる百日目に亡くなってしまう・・・・・・って話だったような。
 古典の先生である担任がぽろっとこぼしていた話を覚えてる! すごい、私。軽く感激しつつ厳しい顔をキープして、今光源氏に提案、と言った。
「ん?」
「千日間、うちに夜通ってくれたら、帰ってあげてもいいかな。その代わり、学校では極力関わらないこと」
 厳しい条件すぎたかな。千日。後で計算したら、二年と九ヶ月だった。今が梅雨真っ盛りの六月だから、ちょうど高校三年生の三月。ちょうどいい! 天才じゃない? 私。
 しかし。
 ぐっと寄せられる、という予想に反して眉根が開き、悲しい色が浮かぶのでは、と思っていた瞳は輝き始めた。
「本当? いいの? マジ? え、千日? ざっと三年・・・・・・え、マジでいいの?」
 いっぱいハテナを投げかけられて、狼狽える。
「え? うん」
 まあ、どうせ無理でしょ、と思う。
 三年。私はそんなになにかが続いたことないし、三年って相当よ? 石の上に座るのもきついけど、同じ女子の家に通うってのもなかなか。
 思えば、百日も同じようなもん。五十歩百歩感覚で一緒。そう思うとすごいな、恋って。小野小町、どんだけいい女だったんだ。そんなにお高く留まっていても嫌われないし怒られないし、後世まで残ってしまうんだから。すげー・・・・・・。
 そう、輝月は軽く考えていた。今光源氏が、どれだけ輝月を月へ連れ戻すことに命をかけているか、知らなかったから。
「『姫』。こんばんは」
「また? 今光源氏っ」
 どうにも顔を背けたくなる、数学の課題プリントに着手しようと机に向かっていた輝月は、珍しく課題に顔を向ける、どころか勢いよく顔を引っ付けた。
 過多ではあると思うが所詮紙数枚。クッション代わりにはならない。しかし、ごん、と鈍い音が鳴るのは、寸前で今光源氏の掌により防がれた。
「いや。千日通ってこいって言ったの『姫』だし」
 いってー、と、クッションになった右手をぶんぶん振りながら、拗ねたように言う。そして無断でペン立てからペンを抜き取り、カレンダーに三十、と書き込んだ。
 はあっ、とこれみよがしにため息をついて、輝月はその存在を無視し、シャープペンシルを握る。課題課題。こんなやつ、相手にすることない。
 くっ・・・・・・全然わからん。
 思わずその内容にうめく。それでもスルーで通そうと思っていたのに、今光源氏がペンを取り上げ、すらすらと解いていく。さすがに無視はできなかった。
「はぁあ? なんでそんなに解けるの?」
「ま、ね」
 にやりと笑う顔が憎らしい。さらに憎らしいのは、解法を教えてくれたこと、それにすごくわかりやすかったこと。もう、マジ、ウザい。
 なにコイツ。
 ずっと思ってしまう。そろそろ梅雨明け、とニュースで叫ばれ始めても、蝉が喧しく鳴き始めても。
 今光源氏は、通うことをやめなかった。
「もう一ヶ月だよ・・・・・・」
 思わず再びうめく。最初の方は、三日も続かないと侮っていた。
 三日経ってからは一週間でやめるから心配ないと考え、一週間が経過したときは半月で終わるだろうと、三週目に突入してからは、まあ一ヶ月でだんだん疎遠になるでしょと思っていた。
 それが、今日で一ヶ月。それでも、やはり半年でこの光景はなくなるとおしはかり、そして五ヶ月後には一年、と、ほとんど願うような気持ちで思っているのではないか。
 十五年とちょっと、この体と、この脳みそ、この思考と付き合ってきたのだ、それくらい予想はつくが、その思考をやめることはできなかった。
「ねえ、『姫』。海、行かない?」
 突飛な提案すぎる。海なんて、去年に家族三人で行ったっきりだ。それが一年で、男子と? 女友達飛び越えて、男と行けっての?
「ななななな・・・・・・なんでっ」
「クラスの女の子たちから誘われた。夏休み初日。どう?」
 『女の子』なんて、そんな言い方するのはコイツだけだ、と思う。大抵は『女子』。と、どうでもいいことが頭に浮かぶ。慣れてないんだろうな〜。
「やだ」
 即答した輝月に、今光源氏はコケる真似をした。意外とお茶目らしい。
「なぁんでっ」
「寂しいだけじゃん、そんなの! 私、友達いないし」
「大丈夫。俺が相手してあげる」
「やだよ。男子と海なんて」
 結局行きたくないだけだ、という気持ちが透けて見えたのか、ぐっと唇を尖らせた。
「じゃ、どうしたら来てくれるの?」
「ん〜・・・・・・」
 考え込む。どうしたら断れるかなぁ。
 あ。
「交通費、食事費、その他諸々負担してくれるなら」
「いーよ」
「えっ、はっ?」
「了解。じゃ、約束ね。ばいば〜い」
 今光源氏は、風とともに気づいたらふらっと横にいて、気づいたらふっといなくなっている。今日もそうだった。目を瞬いているその隙に、どこかに消えている。
 とにもかくにも、あと一ヶ月後くらいに、輝月は強制的に海へと連れ出されることになったのだ。
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 はい、とレシートを相手の眼前に突きつける。
「水着代三千円」
「三千?」
 たっか、と目を剥くと思ったのに冷静に財布を取り出している。え? ウソ。目を見張っている間に、にょきっと一枚、お札が顔をのぞかせた。
「はい、五千円。二千円、返して?」
「え・・・・・・や、やっぱ、いいよ」
 ちょコイツ、さすがにヤバいって。
 今になって、警戒心と、そして一滴の汚れもない綺麗な良心が騒ぎ出した。
 この時季こそ売り時だとぴかぴかさせられていた水着売り場でわざわざ一番高いものを買ったときの顔は、さぞかし悪かったんだろうと思い恥じ入ってしまう。
 断られると思ってした提案が、いつもかえって輝月を苦しめる。自分で自分の首を絞めるってこういうことなんだ。全然嬉しくない状況での発見。
「え〜。でも、これ受け取ってくれなきゃ、海行ってくれないじゃん! はい、どうぞ」
「うっ・・・・・・いらないよ。海には行くから! でも、これは受け取れない」
 思わず叫んでいた。純粋すぎる。こんな人、見たことない。輝月はその扱いに困っていた。
「え、いいの? 来てくれるの? 本当?」
 純粋って、バカだけど騙しにくい。仮病でも使おうと思ったのに、また良心が顔をしかめ始めた。小さくうなずいて、ため息をつく。
「あのさ。なんで今光源氏は、そんなに私に関わりにくるわけ?」
「そりゃ、月へ帰したいから」
「まだ諦めてないんだ」
「うん」
 驚きはしたけど、そこまではわかる。でも。
 質問の続きを待っている相手に、輝月はなんで、と問いかけた。
「なんで、そこまでするの? 別にあんたに得はないでしょう?」
 千夜通う、という無茶振りを受けたのも。学校での大胆な行動も。お金が絡んできても全く動じず、その姿勢を貫き通す。
 鬱陶しさや感心を飛び越えて、変な勘違いとかそんなのより、もう、単純に怖い。
「え〜・・・・・・それ、言わないとだめ?」
「聞きたい」
「でも、たぶん、傷つく・・・・・・いや、なんでもない。そうだなぁ」
 天井と壁の境目くらいを見て、考え込む。目の泳ぎ具合が半端ない。と、いきなり顔を上げ、誰にともなくそうだよ、と言う。
「ただの人助けじゃん。そう、人助け。いや〜、気持ちいいもんね、人助け!」
 ぶつぶつ言いながら窓枠に腰掛けて、瞬きの間に強い風にさらわれ、消えた。いつもより随分と早いお帰りに、絶対なにか隠している、と思う。
 単純すぎ。ウソが丸見えだ。ガラス越しに見るくらい、透けて見える。
 でも、それの詳細を知ったり、それに触れることはできない。それでも、ゆっくり開けていくことはできる。割らないように、慎重に、丁寧に。
 海に行こう。
 初めて自分からそう思った。
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 ざあぁ、ざあぁ、と規則正しい音に紛れて、輝月は大きく息を吐いた。
 持参の小さな敷物の上に、細かい砂がざらざら乗っている。前には、小さな砂の山と、開通したトンネル。
 先ほど塗り直した日焼け止めで、体中べたべたする。三千円もしたおかげでそこそこ見栄えのする水着は、海の水を吸って冷えてしまっていた。
 正直寒いので、また海水に浸かる。沖の方では、小さなビニールボートに乗り、きゃあきゃあはしゃぐビキニのおねーさんたちと、可愛い女子に囲まれまんざらでもなさそうに泳ぐ今光源氏。
 俺が相手してあげる。
 別に変な意味ではないのはわかってる。遊び相手になって欲しいわけでもない。でも、女子たちの勢いに負けてウソをつかれたことがショックだった。
 ああもう、海の家で監視してくれてる人に、そんなに沖では泳がないでくださーいって、注意されてしまえ!
「もう、単純なんだから・・・・・・」
 思わずもれたその言葉が、怒ったような響きになってしまったことに、自分でも驚く。
 隠し事をしているというのに、今光源氏は、少しも態度を変えずに接してくれる。あえてそうしているのかもしれない、と思わないでもないが。
 しかし海では、誘っといたくせに、完全にほったらかされていた。まあ、人前では関わるなって言ったし気楽でいいんだけど。
 教室の隅でいつも、一人でなにかしらしている輝月が陽キャたちに加わることをどう説明したのか知らないが、奇異の目で見られて話の輪からは外されたところを見ると、いつものように言葉で押し切ったようだった。
 バカだなあ。ただでさえ敵視されてんのに。
 一人、申し訳ないと思ったのか話しかけてくれる子はいた。でも、輝月の口下手と、なにやってるの? という友達の圧に離れていってしまった。
 かき氷を、同じストローで味見をしあっているのを横目に、ブルーハワイを全部一人で食べ切り、そのあとは浮き輪で浅瀬の方を、波に任せぷかぷか浮いていた。
 浮き輪に掴まって、刻々と鋭く、キツくなっていく日差しを眺める。
 暇だなぁ、つまんないなぁ、と堂々巡りで思うようになって、頭の隅に、一つの選択肢がぷかりと浮かび上がってきた。
 帰る。
 ・・・・・・いっそのこと、帰ろうか。
 自分で問いかけ、自分で答えた。うん。帰ろう。これ以上ここにいても、ぼっちの自分を目の当たりにして惨めになるだけだから。
「よし、帰ろう」
 自分を奮い立たせるように口に出した声は、海風にさらわれて散った。ざばあっと勢いよく立ち上がる。だいぶ寒いけど、しょうがない。
 シャワー浴びて、更衣室で着替えて、バスと電車乗り継いでかーえろっと。
 手早くシートの上の砂を払って丸め、足で山を潰す。トンネルが空いていたせいか、いとも容易く崩れ落ちた。
 ビーチサンダルに絶え間なく砂が侵入するのも厭わずに、ざっざっと派手に音を鳴らし、波打ち際から遠ざかる。
「『姫』? ちょっ。え? どこ行くの?」
 声が、遠く、風に乗って運ばれてくる。同時に、甘ったるい、今光源氏を引き止める声も聞こえた。
「いいじゃん、あんなのはさ。もっと遊ぼ?」
「ちょっと、『姫』! 待ってって」
「きゃっ、水、かけないでよ。もう、やったな〜?」
 また戯れ始めたらしい。けたたましい悲鳴と笑い声を背に、唇を噛んでシャワー室に駆け込んだ。
 あんなの? あんなのって、なに?
 百円入れて水着を脱ぎ、勢いに任せ身体中を洗い流す。
「なんも、してないのに・・・・・・」
 ただ悲しかった。なんの理由もなく貶められる理不尽さを、輝月は今日、久しぶりに味わった。名前も知らないあの人と私は、今日がほぼ初対面みたいなもので、性格も、家族構成も、好物も、なにも知り合ってない。なのに。
 こんな気持ち、何歳以来だろうか。
 じゃあああっ、と勢いよく出ていた水が止まった。あちこちから小さな水滴がこぼれ落ちる。
 今光源氏のガラスを開けることはもちろん、最終手段の割ることさえできなかった。
 指紋くらいはつけられたかなあ。
 ・・・・・・情けない。大きくため息をついて、輝月は着替えへ向かう。涼しげな真っ白の夏のワンピース。行くとき黒髪がよく映えて、養父母に褒めちぎられたけど。
 今は、と、手櫛で髪を梳きながら、気分が沈んだ。
 意気込んで出かけた海水浴は、ただ髪の毛が海水でぱさぱさになっただけだった。
「本当、ごめん?」
 ついっと顔をそらして、輝月は眉をしかめた。
 夏休みなので、蝉の声の中真昼間に、家の玄関から堂々と今光源氏は来た。
 両親はずいぶん驚いていたけど、勉強を教えにきてくれたんだって説明したら、喜びに喜んで、キンキンに冷えた飲み物とクッキーを出してくれた。
 夜じゃないけど、今日も千夜通いにカウントするらしく、いつも通りカレンダーに数字を書き込んで、それから今に至る。
「いいって。別に、怒ってないし」
「ほら、怒ってるじゃん。ねえ、ごめん。ちょっと楽しくなっちゃって」
 別に、いい。必死に謝る今光源氏に、輝月はため息をついた。
 楽しい。そう思えるなんて、羨ましい。
 知ってる。わかってる。あのノリについていけず輪から外される自分から逃げたんだってこと。だからもう、放っておいてほしい。
 ねえ、せっかく逃げ出したのに、また惨めの淵に突き落とすの?
「お詫びにさ、そう、今日は誘いに来たの」
「もういいって」
「夏祭り。一週間後の。一緒に行こう? 十回目記念とかで花火、いつもより大きいんだって」
 いつもって、初めてのくせに。胸を張って自慢げにポスターを突き出してきて、つい苦笑がもれる。それから、違う、と思い直した。
 断ってるのに。なんでこんなに図太いの?
「次は、二人で」
 二人で。かっと顔が熱くなる。そんな、まかり違ってもデートみたいな・・・・・・こと、できるわけ、ない。
「だから、お願いっ」
 この人は、なんでこんなにいつも必死なんだろう。
 ぱんっと合掌して、土下座までしそうな勢いの今光源氏に、海水浴の前に感じた疑問が、また、むくむくと湧き始める。
 その気持ちが暴走したのか、知らず知らず、首は動いていた。
「わかった」
 消え入りそうな声で答えてから、我に返った輝月は焦った。なに言ってんの、私!
「本当? やったー!」
「うっ、うん、うん、だから。それだけ? 話」
「うん。あ。でも、勉強。一応教えるよ。課題、終わってないでしょ。全然」
 確かに、なにがなんでも帰すのは早い気がした。納得はするけど、嫌なところを的確に突かれて、ちょっといらっとする。
 そうだよ、一問も終わってないけど、なにか!
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「じゃーね」
 ひとしきり教わって、今光源氏が玄関に堂々と向かう。
「家庭教師くん! ありがとうね!」
「また来てな。輝月は奥手だから」
 奥手ってそれ、なんか悪口じゃありません、お養父さん?
「あ、はい。またお邪魔しますね」
 両親からの壮大な見送りを受けていなくなってから、輝月はリビングに戻った二人に、お願いがあるんだけど、と声をかけた。
「どうした?」
「あ、あの、浴衣、買いたくて・・・・・・」
 恥ずかしい。男子と行くの、バレないかな。顔の赤さを見られないように、伏せ目がちにお願いする。
「ああ、夏祭りね?」
 まだこの世界に不慣れな輝月は、一人で買い物に行くことが難しい。不本意ながら、どのようななにを買いたいかまで言わないと行動できないのだ。
 ちらりと冷蔵庫に貼られたチラシに目をやって、納得顔の養母。
「うん、そうなんだけど・・・・・・」
「さっきの家庭教師くん? いいよ、一緒に買いに行こう」
 一瞬で悟られた。だけど、冷やかすことも止めることもせずに、にこにこして養母は言う。
 横で、コーヒーを飲みながらくつろいでいた養父も笑みを見せていた。普段は仕事で接する機会がないが、優しい性格だということは、初対面の笑顔でわかっていた。
 ありがたい。
 本当、有難い。気遣いでも構わない。だけど、この人たちのあんまり深くまで詮索しないところに、輝月は救われていた。
 もちろん、最初の方は、輝月の元の生活に合わせたいからと、やんわり以前の習慣などを聞かれることはあった。でも、それ以上はなにも言わない。
「ありがとう!」
「いいんだよ、全然。去年は普段着だったもんな。おしゃれくらいしたい年頃だろう」
「なんなら今日、行こうか? 輝月にはなにが似合うかなあ」
 勢いよく頭を下げる輝月に、二人は微笑んだ。
 前の両親は、十歳になるかならないかの頃に死んだ。そこに詐称はない。だけど、どこ出身でどこから来たのか、とうるさく聞かれていたら、答えに窮して早々に飛び出していただろう。
 行く当てもなく、髪の毛もぼろぼろで、服も着た切り雀。噂を聞きつけた月の都の人々に探し出されて見苦しい格好で帰って、孤児院に戻って、・・・・・・もっと、もっと、・・・・・・八宵(やよい)に、いじめられて。
 命の恩人と言っても過言ではない。それくらい大きな恩をもらっているのだ。だけど、今の輝月じゃ、なにも、なにも返せない。逃げてばかりで自分のことさえまともにできないのに。
 ひたすら申し訳なく、その分もっと親切が身に染みる。
 ありがとうって、感謝の気持ちを伝えることしかできない自分が歯痒くなる。