✳︎ ✳︎ ✳︎
「可愛い」
唐突に、言われた。急いで横を見ると、翔琉に後ろを覗き込まれている。
「え?」
「それ。クリスマスのときのやつでしょ?」
ああ、これのこと。
ローポニー×くるりんぱにした髪の毛の、結び目を触る。かすかに冷たい感触に、思わず微笑んだ。朝日からいろいろなヘアアレンジを教えてもらって、それ以来機会があれば結び、これも付けている。
「マジェステ。だったよな?」
「覚えてたの? 簪と笄の違いもわかんなかったのに」
「マジェステは覚えた」
へえ、そう。からかうつもりで言ったのに、大真面目で返されてちょっと面食らう。
すると、隣を通り過ぎかけた店から、声がかかった。
「あっ、坊ちゃん。・・・・・・と、彼女さん?」
「かのっ・・・・・・彼女って。違うよ」
翔琉が顔を赤くして抗議する。たぶん遊ばれてるな、と思った。
よく見れば、いつかのヘアアクセを売る店と、そこの店員さんだろうか、綺麗な女性だった。
「じゃ、ガールフレンド?」
「まあ、ある意味そう。直訳したら、だけど」
女友達。
確かに、適切な言葉だ。
「へぇ」
女性が明らかにつまらなそうな顔になる。この様子からして、十歳くらい年下でも翔琉を異性として好いていて、一緒に来ている輝月に敵意丸出し、なんていう人じゃなさそうだ。
「輝月って言います」
「あの、有名な今かぐや姫ね」
と、翔琉による注釈がつく。
今かぐや姫って・・・・・・なんか既視感、というか既聴感? を覚えるんだけど。てか私、ここではそれで通ってるの?
「えっ。あの? どんなことしたの・・・・・・って、やだよね、聞かれるの。ええと、輝月ちゃん」
いい人だ。
輝月はその言葉だけで女性を大好きになった。余計な詮索を挟まないところが養父母に似ている。ふと、両親になにかお土産を買ってもいいかもしれないと思う。
「なんか買っていかない? いろいろあるよ、髪飾り」
「えっと。じゃあ、マジェステとか、あります?」
「あるある。めっちゃカワイイのある。あれならまあここでも作れるからね。今人気だよ。地上風ファッション。輝月ちゃんのそれもマジェステだよね?」
「はい」
「だよね。似合ってる」
「友達にもらったんです」
「いいなあ。よし、おいで」
古臭い、ではなく、胸を張ってレトロと言えるおしゃれな店内に誘い込まれる。
「ここらへん、全部マジェステ」
「おぉ〜!」
輝月は意図せず歓声を上げていた。鼈甲タイプはもちろん、丸や三角、四角などフレーム風、そのフレームにビーズが付いたものなどバリエーション豊富に取り揃えられている。
カワイイから大人っぽいまで、向日葵の表現風にすると、クールキャラがツインテールにこれつけてパフェ食べてても違和感なさそうなものから、また、輝月がデスクでパソコン向き合って、バリバリOLしてても高校生ってバレなさそうってものまで。
あ、どうせなら四人分買って、お土産にしよう。お小遣いは持ってきている。確か、地上の通貨でも使えるはず。
この大人っぽいのは麦かな、いや朝日か。この、夏らしい青空に向日葵があしらわれたのは不動で絶対向日葵。
このあとのことも全部頭から飛ばして考え込んだ輝月の横で、追いついてきた翔琉が苦笑していた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
ど、どうしよう。
輝月は重く響いてくる鼓動をなんとか収めようと、胸を上から押さえる。
「大丈夫」
翔琉が落ち着いた声で言ってくれる。
でも、この場所も、これから起こることも、ぜーんぶ込みで恐ろしい。
「翔琉はここが実家だからいいんだろうけどさ、私、帝がいらっしゃる? ところに来る・・・・・・えっと、お招きされる? のは初めてだから」
現・帝に対する言葉遣いがわからなくてあわあわと言う。
地上でも滅多に見ない、立派な門から伸びる道。その脇には、基本温度差が少ないここでは年中使う、しゅわっと時折噴き出す噴水を備えたプールや、そしてあちこちに色とりどりの花が咲き乱れ、地上でさえ高級な車は何台あるのかわかんないし、もう、なにがなんだか。
二人がいる、純和風のひっそりと佇む東屋は、比較的門に近い方にあった。ここで八宵と待ち合わせをしているのだという。
「大丈夫だって。ほぼ外だし。そこを出ればもうバス停じゃん? バス、三十分後だからね。ちゃちゃっと終わらせよう」
実家であるため場所に対する不安がないせいか、いくらか輝月より顔の強張りはマシだけど、それでもやっぱり緊張が見えた。
今日、八宵たち家族が帝の食事会に呼ばれているらしく、厄介な取り巻きたちはいないから、と翔琉がこの場をセッティングしてくれた。
八宵はそろそろ食べ終わってお手伝いさんに呼び出された頃だろうから、もうすぐ来るはず。もう、さっきから心臓がはち切れんばかりに暴れて辛い。お腹も重くなってきた。
と、ついに、そのときが来た。翔琉がこそっと耳に囁く。
「来たぞ」
清楚なワンピースで着飾った八宵が東屋に近づいてくる。そして、輝月に気づいて目を剥いた。
「なにか御用・・・・・・っ、なんであんたがここに!」
「やっ、八宵、あの・・・・・・今日は、話がしたくて」
「なんの話? 早くしてほしいんだけど」
早速つんけん言われる。ここでごちゃごちゃ、翔琉がいることについての言い訳などを並べるのはダメだろう。そう思った輝月は、いきなり本題に入った。
「なんで私だけをあんなにいじめてたのか、ってだけ聞きたくて」
えっ、と八宵は小さく声をもらして、狼狽えているようだった。でもすぐに我に返り、いつもの口調で聞き返す。
「それ、聞きたいわけ?」
以前の輝月ならきっと、逃げ出していた。たぶん八宵もそれを見越して言った。コイツなら逃げ出すでしょ、どうせ。今ならまだ間に合うよ? どうする? 早く帰りな。
目が威嚇してくるもん。絶対そう思ってるでしょ。
でも、今は違う。腹ならとっくにくくった。大丈夫。横には翔琉がいる。
「うん・・・・・・知りたい」
また、鳩が豆鉄砲を食ったような顔になってから、狐につままれたようになり、ようやく我を取り戻してふっと鼻で笑う。
「なに言ってるの? そんなの教えるわけないじゃない」
「八宵」
それまで息をひそめてなりゆきを見ていた翔琉が、いきなり声を出した。
「なんであなたが、ここに・・・・・・」
またさっきと同じようなセリフを吐いて、八宵が身を引いた。どちらかといえば、その目には、驚きよりも、憎しみや悲しみがあふれだしていた。
ああ、やっぱりなにか、この二人の間にはあるんだと感じてしまう。
「やっぱり!」
いきなり八宵が金切り声を上げた。やっぱり? え?
「やっぱりそうじゃない、この前は偶然じゃなかったのね、ひどい。母が母なら子も子だわね」
「えっと、それは、どういう・・・・・・?」
この前は偶然じゃなかった。母が母なら子も子。
「私のお母さんと、なにかあったの?」
観念したように、八宵が口を開いた。
「・・・・・・が、あんたと姉妹だっていうから」
最初の方の名前は、輝月には聞き取れなかったが、翔琉がだろうなという顔をしたので、ちゃんと聞こえていたらしい。その上で、知ってる人物で、さらに心当たりがあったみたいだ。
じゃなくて、え? どういうこと?
「姉妹・・・・・・って、私と、八宵が?」
「お父さんの昔の女が産んだって。だからっ」
小さくうなずいて、八宵は衝撃的なことを口にした。
は?
「シンデレラ・・・・・・」
翔琉が小さくつぶやく。いや、かぐや姫に続いてシンデレラって、おい。メルヘン光源氏! 冗談じゃない。
あの人みたいに継母にいじめられてないし、細かいとこつつくんなら継母じゃなくて養母だし、継母なら父が再婚した女の人のことだし。いや、異母姉にいじめられてるのは間違ってないか。
てか違う、え?
「ちょっと、待って。私と、八宵が?」
「それにあんた、カケルくんと浮気したじゃない」
続けて、そう言い切った。んん?
浮気ぃ?
「だから・・・・・・、だから、追い出してやろうと思って」
八宵が泣いてる。本当にかすかだけど、目の縁に涙がたまっているのに、輝月は気づいた。
「待って、すごい勘違い」
ていうか、八宵が付き合い始めたって噂は本当で、しかも相手は翔琉、そのおかげで一時期いじめが止んでいたんだ。偶然・・・・・・だよね。
「八宵、聞いて。私と翔琉は、付き合ってないよ?」
「え?」
誰から聞いたの、その偽情報。そのせいで私は苦しんだ。今でも悔しい。だけど、八宵だって苦しかったんだ。わかる。かわいそうだと思うし、同情もする。
でも、私をいじめるのは違うくない? それはちょっと身勝手すぎやしない?
「まあでも、もう月には帰ってくるつもりないから。確かにときどき来てるけど、八宵がそんなに言うなら、それもそろそろ止めるね。縁、きっぱり切った方がたぶんいいよね」
『人助け』に励む翔琉には悪いけどさ。
少しいらだった輝月は、勢いに任せすぱりと言い切った。
「本当に、いいんだね?」
おっとぉ?
新しい登場人物の出現に、輝月は振り向いた。
東屋の奥の茂みから、一人の男子が立ち上がるところだった。カッコつけた言い方だしシチュエーションもいいけど、立ち上がるタイミングは遅いわ襟足の長い髪にはあちこちに葉っぱがくっついているわで、正直笑える。
月では珍しく、金髪だ。莫大な料金を払い、取り寄せて染めたんだろう。うん、カッコつけたがりだって一瞬でわかったよ。
歳は輝月たちと同じくらい。結構顔立ちは整っているけど、にやりと歪んだ意地の悪い口元がそれを台無しにしている。
「てか、え、誰?」
ぽかーんと口を開けてその男子を凝視する輝月に対して、八宵と翔琉はすぐに反応した。八宵は驚いたようにその名を呼び、翔琉は最初目を見張ったけど、そのあとすぐに面倒なことになったと憂いを含む顔でため息をつく。
「翔馬さん」
「翔馬・・・・・・やっぱりお前か」
やっぱり、ということは、前もごもご言ってた翔琉の心当たりはこのことだったのだ。
「うん。で、『今かぐや姫』さん。いいんだよね? 月、帰らなくても」
「は? 別にいいけど」
なにコイツ。翔馬? 初めて聞くんですけど。てか『今かぐや姫』って、忘れろよっ。
不躾な言い方にいらっとする。普通だったらビビるけど、今は生憎腹が据わっている。動じることなく睨み返してやった。
「よし。じゃあ、そろそろバスの時間でしょ? 一日一本だから行きな」
あれ? 普通にいいやつだった? がらがらと派手な音を立てて門まで連れて行かれ、思わず拍子抜けする。なにかを諦めたようにされるがままになる翔琉は少し、気にかかるけど。
「本当に、もう帰ってこなくていいんだね?」
うわ、しつこい。こういう人嫌いかも。またまたむっとしつつうなずく。
「八宵と姉妹だった、っていうのが嘘だとしても、だよね」
かすかなエンジン音を鳴らしながら、月の都行きと書かれたバスが、すぐ前のバス停に停車した。
「は?」
「じゃーね」
嘘?
ぱっと振り向いた輝月の前で、大きな御殿はもう、がしゃんとその口を閉じたところだった。輝月は食ってかかる。
「ちょっと、ねえ、あんた! ・・・・・・翔琉! なに、どういうことなの、あれは誰? なにが起きてるの?」
だけど、もう中からの返事はない。
頼みの綱である翔琉はすいっと目をそらした。自身を落ち着けるように大きく息を吸ってから、ごめん、と頭を下げられる。
「全部話す。ひとまず、帰ろう」
✳︎ ✳︎ ✳︎
帰りのバスは静かだった。その日の夜、初めて翔琉は来なかった。
全部話す、には少し覚悟が要ったのか。
翌日、夏休み終了の前日、朝から玄関をくぐってきた翔琉はかちこちの緊張顔をぶら下げて養父母に変な顔をされていた。
「全部、話すよ。黙っててごめん」
態度が一人歩きしまくり、ぺらぺら俺は嘘をついている、隠していることがあると絶え間なくしゃべっていたので、全て黙っていたわけではないのだけど。
でも、ここはまぜっ返す場面じゃない。
昨日と同じことを言ってぎくしゃくとベッドに座った翔琉に、輝月も椅子にゆっくり腰を下ろす。さあ、翔琉はどんな秘密を抱えているんだろう?
「翔馬は」
昨日のしつこい男子だ、確か。うん、カッコつけたがりのキザ野郎。ナルシストのガキ。
「俺の双子の弟」
え? 初耳すぎる。
露骨に驚いた輝月にうん、とうなずきかけて、翔琉はまた口を開く。
「実は、俺に兄はいない」
俺は、一番下だから、なにを間違えても順番は回ってこないんだ。だから遠慮はいらない。
最初の夜言った、あれも、嘘。
思えば視線は宙を転がり続けていたし、あのあとで疑問にも思ったんだった。
「ええ?」
「年も一緒。だから、翔馬と後継者争いしちゃうだろ? それで、試練が与えられたんだ。どっちかが突破できなくなるまで続く」
後継者争いって、試練って、古いな〜やっぱり。
「でも、翔馬って悪知恵が利くやつだからすぐに突破して」
うん、なんとなくわかった。あの人が使いこなすのは知恵じゃなくて悪知恵であること。
思えば、輝月が八宵より年下なのはおかしい。八宵が生まれてから輝月が生まれることになるので、その場合八宵の父が不倫したことになってしまう。
八宵がもし冷静で、そのことに気づいていれば。すぐにかっとなるタチじゃなければ。
このようなことは防げていたかもしれない。
「俺の試練は、八宵の悪戯を止めることだった」
うん・・・・・・知ってると、八宵の悪戯を話したときにうなずいたあの横顔。辛そうなあの横顔が、ありありと目の前に浮かぶ。そっか。だから知ってたんだ。
「でも、それも、翔馬に阻まれて」
偽情報を流して八宵を激怒させた。悪戯は度を超していじめとなり、耐えきれなくなった輝月は逃げ出した。
「だから、特別に第二の試練を与えられたんだ」
“輝月を月へ連れ戻すこと”
「だから?」
だから、あんなにいつも必死だったの?
「そう。・・・・・・だけど、今回も落第だ」
あんなやつだろ、俺絶対帝の座をアイツに渡しちゃいけないって思ってたのに。
これが、ガラスの奥に眠っていた秘密。
続いた切なげな声に、輝月は首を振っていた。
「そんなことない。ううん、あれは勢いに任せていっちゃっただけだから」
「え? 本当?」
「大体、第二のミッション与えられるってことは期待されてるんだよ、きっと」
期待を持って舞い上がると、落ちた分痛い。一転してぱっと輝きを取り戻した翔琉の顔に、知ってるくせに、そう言ってしまう自分を恨んだ。
予想は当たった。翔琉は地まで、勢いよく落ちてしまった。
月と連絡が取れなくなったと、そう報告されて、輝月はただ申し訳なかった。
翔琉。
本当に、ごめん・・・・・・。
月と連絡が途切れたら、翔琉が真実を吐く方法がなくなり、どう手を伸ばしてもつながれないようなところで自分達が貶められているというなんとももどかしい状況になってしまう。ちょうど届かない背中の部位が痒いみたいな、そんな感じ。隔靴掻痒とはこんな心持ちなんだろう。
もういいよ、気にしないで。
そう言った笑顔の裏には、かなりの焦りが含まれていたはずだ。
続けて慰めるように、月に連れ戻せばわかってくれるでしょ? と言われたけれど。そうなる可能性が低いところも知っていて、でも信じるしかなくて。
必死に落ちないように細い糸を掴んでいる姿を、輝月は罪悪感と、そしてちょっと呆れたような気持ちで眺めていた。
やっぱり隠し事が下手。すぐわかるよ。でも、そんなところも、私は。
私は・・・・・・、どう、思ってるんだろう。
「おーい」
「んっ」
はっと目を上げると、向日葵の顔が目の前に。鼻と鼻が触れ合うキョリ、キスするキョリ。かすかに鼻息もかかるし!
「わぁああっ」
「聞いてた? 輝月」
「できたよ、ほら」
休み時間、朝日に、オソロのマジェステを使って髪をアレンジしてもらいながら考え込んでいたらしい。びっくりして大袈裟にのけぞる輝月に、教室に侵入してきた麦が横で爆笑している。
「ごっ、ごめん。ぼーっとしてた」
「しすぎでしょっ」
「で、なんだっけ」
「えっ、マジで聞いてなかったの?」
「進路だよ! 決まった?」
「あー・・・・・・」
もう一つの、今の悩みの種。なにがしたいのか、さっぱりわからない。
朝日みたいに趣味を仕事にするっていうのは素敵だと思うけど、趣味がない人にとってそれはあくまで素敵だと思う、でとどまる。麦や向日葵も、まあざっくり進みたい方向は決まってるらしいし。
「取り残されてるんだよね、私」
ため息混じりにこぼす。麦が呆れ顔で聞いてきた。
「やりたいこととかないの?」「ない」
「好きなことは?」「ない」
「ん〜、じゃ、好きなところ」「ない」
「将来の夢」
「ない。ってか向日葵、それがあれば苦労してないの、今!」
机を叩いて立ち上がった輝月の剣幕に怯まず、向日葵がにやにやする。
麦に代わって、次は向日葵が続け様に質問を投げかけてきた。全部今知りたいことだし、全部まともじゃないから勢いよく答えてく。
「行きたい学校」「ない!」
「好きな職業」「ない!」
「好きな人、もしくはカレシ」
「ない! ・・・・・・はぁ?」
「勢いで答えてくれるかと思ったんだけど」
「実際いないから、まあ答えてるんだけど」
つまらなそうな向日葵に、輝月は打ち返す。
「え〜。カレシはいなくともさ、好きな人くらいいるんじゃないの」
「皆いるの?」
「いない」
「いた」
「前告られた」
朝日、麦、向日葵の順で答えが返ってくる。
「うん、待って待って、ストップ。はい? いろいろ聞きたいんだけど」
「うん。私も聞きたい。え、麦、いたって、過去形なんだ?」
一番心臓に優しい答えだった朝日が目を剥く。
「私? 過去形で、カレシがいた。別れたけど。今はフリー」
「へぇ〜」
全くの初耳だが、いてもおかしくないくらいクラスにはカップルが増えている。うん。自分の惨めさが際立つ〜。
「じゃないでしょ。向日葵だって、一番気になるのは。え? 告られた? 聞いてな〜い」
「当たり前じゃん、言ってないのに」
えええ・・・・・・。
がたがた椅子で遊びながらそうさらりと答えられて、三人はその自由さに圧倒される。
「え、誰?」
「内緒。プライバシー。てか結局輝月は? いないの?」
「いない」
「えぇ? ウソじゃん。月野くんは? なんかストーカー説出てたけど、進展ナシ?」
ストーカー説・・・・・・いつか私も思ったことじゃん。勘違いだったけどさ!
「は? そんなわけない。そもそもしゃべらないし」
「えぇ? でも、最初の方めっちゃ追われてたし、絶対月野くん、輝月のこと好きだと思ってた」
それには深いわけが、ね?
「うん。で、ストーカー説。警察に相談して大人しくなったんじゃないかって。まあ、恵奈たちは、ほらメンクイでしょ、そんなの気にせずアタックしてるけど」
「実際あたし、ストーカーだったら絶対近づかない方がいいって思ってたし、そんなイケメンに追われてる輝月もやばいやつだと思ってた人いると思うよ。本当、最初の一時期だけど」
知らないところで貶められてる・・・・・・ああもう、話戻ってきちゃったじゃん!
✳︎ ✳︎ ✳︎
「え? ストーカー? ストーカーって、あの?」
翔琉が驚いている。
「あのストーカーが、俺だって?」
「うん、そうだって。知ってた?」
「いや、俺ストーカーじゃないし、濡れ衣だよねそれ。え、否定してくれた?」
その人についてまわっている噂をわざわざ吹き込むバカはいないようだ、翔琉はストーカー説を知らなかった。
「するわけないじゃん。身から出た錆でしょ。しかも、じゃあなんでって聞き返されたら困る。関係深堀りされるのやだし。ま、ひとまずここはあんたをストーカーに仕立て上げとく」
月の話を地上の人々の前でするのは御法度。耳がタコで詰まるほど何度も言い聞かされているので心得ているが、これがなかなかに辛い。
「え〜・・・・・・」
「いいじゃん。勉強はできるし女の子はいっぱい寄ってくるんだし、不足はないでしょ」
「ないことないけど」
拗ねたような顔でそっぽを向く。それからふと思い出したように、一転して笑顔になった。
「ね、映画行ってみようよ。映画」
「は? なんで?」
いきなりすぎるでしょ、さすがに。すると、翔琉は駄々っ子のような表情になってさらに重ねた。机でも叩いて、地団駄を踏みそうな勢いだ。
「いーじゃん!」
あ〜はいはい、わかった。
「興味本位ね」
「・・・・・・ね、行こうよ」
うっと言葉に詰まってから、それでも折れずにまだ言う。
しかし正直、今は翔琉に弱い。一番の被害者である翔琉自身は何事もなかったように接してくれているけど、かえってそれが、加害した輝月を苦しめていた。
「ま、いいよ」
とそんな次第で。
「すごいいい匂いする・・・・・・」
二人は、映画館へやってきたのだった。久しぶりに鼻先に漂うポップコーンの匂いに、輝月のテンションが上がる。
朝日たちとはショッピングに行ったりお互いの家を行き来したりはしている中で、二、三度映画を見に行ったことがある。麦の推し俳優さんを見に行ったのだ。麦に視聴後、がーっと感想を述べられて、だけどまあ、正直興味はなかった。
一方、翔琉は男友達と映画に来たことはなかったのだろう。今居候している家の家族とも来たことがないらしい。映画館は、月の都にはない。つまり人生初。
「ポップコーン買ってみようよ。今日は確か、あれ? なにが上映されてるんだっけ。チケットってあそこだよね? 当日券買わないと」
しっかり下調べはしてきたらしい。が、気持ちが昂りすぎてやることがまとまっていないようだ、矢継ぎ早にまくしたてるだけまくしたてて、あとは売り場の前でうろうろしている。
しょうがないなあ、と慣れた輝月が受付へ向かい、内容深めの恋愛映画チケットと、キャラメルポップコーンを買って劇場へと向かった。
「ポップコーンって美味しいのかな」
「座ったら食べてみなよ」
子供みたいに顔を輝かせて言う翔琉に、輝月は苦笑で応じる。
「Hの三と四・・・・・・ここだね、席。四どうぞ」
「ありがとう」
「あ、始まるまで結構予告があるけど、そこからもういちいち声上げたりしないでよ。静かに楽しみたい人もいるからね」
翔琉ならやりかねないと思う。おぉ〜とか、すげえとか。頭に思い描けば描くほど、その姿は現実味を増してくるから怖い。
映画館歴では先輩の輝月に諭されて、そういうものなのかと素直に翔琉はうなずいた。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「すごかったな・・・・・・」
鑑賞中に横を見たら、一生懸命口を塞いで言いつけを守ろうとしていた姿が健気に思え、でもその分、今口をぽかんと開け放って歩く姿は間抜けだった。
「いい加減興奮から抜け出しなよ」
「んん・・・・・・お腹空いた」
呆れ口調でたしなめると、翔琉は深呼吸して、お腹を押さえた。のんびりした物言いに、思わず微笑む。あんなにぽんぽんポップコーン口に放り込んでたのに。
まあ、しょうがないか。あらかた序盤で箱は空になり、さらに最後の方は涙が体の先端からごっそりかき集めたくらいに出てきたから、ポップコーンどころじゃなかったしなあ。
「カフェにでも行く?」
ちょっと早いけど、一応おやつどきだ。
隣に併設されたショッピングモールに二人は入って、カフェの窓側を陣取り軽食を頼む。それからようやく腰を落ち着けた。
途端に。
「すごかったよね。まず、そもそもストーリーが面白かった」
から始まり、ものすごい勢いで感想を述べ始めた。脚本、演技、演出、美術。果てはメイクやファッションまでくまなく。
いかにそれがすごかったか、心に響いてやまなかったかを言葉にする翔琉もすごいが、あの映画はそこまで言われるほどの才能が光ったものだったのも事実だと、輝月は思う。
「前置きなしでもわかりやすかったしさ」
客の心がどんどん引き込まれていくストーリー構成、そして、惹きつけたら最後、鑑賞後も放さない演出。
「思い出しても泣けるのはすごいよ」
言いながら、ちょっと涙目になって鼻をすんとすするので、くすりと笑ってしまいつつも同意する。
きっと大流行するだろうな、あの映画は。なにか賞でも取ってしまうかもしれない、とんでもないものを見たという印象が強い。
「絶対明日学校行ったら広めたい」
翔琉は大きく息を吐いて、感想を締めくくった。あまりに一気に言いすぎたのか、少々疲れが見える。聞いていたこっちも疲れた。だが、翔琉の言うことは共感できた。
「あ〜、すごかったなぁ」
高揚感を全て吐き出してしまってもなお、まだうわずった声で言う。だけど、窓から差す太陽の光に輝く翔琉の顔は、とても綺麗で清々しくて。
翔琉のこんな顔、初めて見たかもしれない。
輝月は初めて、その顔を作る人々、ひいてはあのように素晴らしい映画を作る人々に、かすかな憧れを抱いた。
「ねえ、輝月さあ、最近なんか悩んでる?」
いきなり向日葵に聞かれて、輝月は目を瞬いた。心当たりはない。進路の問題は、この前に糸口を見つけ、すっかり片付いたところ。
「ん? そんなことないけど」
映画を作りたい、と、そんな気持ちは、翔琉がいないと芽生えなかったと思う。
ふと、差し込むように将来に不安を抱くこともある。そんなときは、背中を押してくれるようにふわりとあのポップコーンの匂いが鼻先に漂う。
「でも、なんかもやもやしてるんじゃない?」
早いもので、いつの間にか年を越し、バレンタインも過ぎてあと一ヶ月で、高校二年生は終了する。
「えぇ? なにがもやもやするわけ?」
今日、朝日と向日葵はそれぞれ面談で先生にとられ、先に帰路についた輝月と向日葵は、ゆるゆると歩く。
「さあ・・・・・・あたしは向日葵で、輝月じゃないからわからないけど。最近元気ないじゃん」
百夜通いの真似事、千夜通いを初めて二年弱。
「マジ? 自覚ないわ」
月との連絡が絶えてなお、かすかな希望の蔓にすがるように細々と、翔琉は通ってきていた。が、それもあと一年で終わりを告げる。
「まあ、だろうね。そういうのって、意外と自分ではわからないものだから」
卑怯は承知で、千夜通いを終えても、悪いけど輝月はなんだかんだ言って帰らないと思うし、そうしようと思っていた。
「ふぅん。なにに悩んでるんだろね、私」
ズルい。姑息だ。わかってる。知ってる。わかった上で、そうする。だけど、なぜだか翔琉にもう来るなと突っぱねることはできなかった。
「ねえ、今日輝月ん家行ってもいい? 勉強教えて」
「ん、わかった」
ちょうど輝月の家の前に立った向日葵の提案に、自責をやめてうなずく。ちょっと片付けとかなきゃと、一足先に部屋に上がったら、ちんまりと翔琉がいた。
「ええええっ・・・・・・! なんでいるの⁉︎」
ちょっと待ってちょっと待ってちょっと待って。
予想外なんだけど。いや、別にいいよ? お早めに通ってくるのは構わないけどさ。けど、今日は例外! 聞いてないぃぃいっ!
「え? いや、今日はなんとなく早く・・・・・・っ、うわっ、なになになに」
「ちょっと外出てて、ああ、違う、ええ、どこがいいの? ダメ、今日はマジで」
外に押し出そうとしてから、向日葵と鉢合わせすると右往左往してしまう。そうこうしているうちに足音が廊下から聞こえてきた。
ヤバいヤバいヤバいヤバい、バレる! ドアノブが、小さく音を立てて回る。うわぁあ、いやだっ!
輝月の健闘虚しく。
「おっ・・・・・・えーっと、月野くん」
捨て鉢になった輝月の背中に隠された翔琉が、なんの冗談かひょこっと顔をのぞかせ、あっさり自分から見つかった。
「あ、どうも」
なにをしてんのーっ! ちょっと、え? 気が狂った? 精神科医のお世話になる?
「やっ、向日葵、これはぁ、違う、そういうんじゃなくて」
へどもどと今から言い訳を考える輝月に、向日葵は呆れたように、でもなぜか面白そうに言った。
「なんで隠そうとするの? いいじゃん。先客?」
「うん、なんだけど。お邪魔みたいだし、また改めて来る」
翔琉はそう言って背を向け、部屋から出ていく。
「あのね、向日葵、これはそういうことじゃなくて」
「じ・い・し・き・か・じょ〜。別にあたしは輝月が誰と付き合いがあってもからかうつもりも咎めるつもりもないよ」
咎めるなんて、難しい言葉を使うなぁ。付き合いってなんか語弊あるし。大体、自意識過剰ってなんだよ!
「自意識過剰は、自分大好き星人か、恋してる子。ふんふんふん。で、輝月は後者、と」
あ〜、完全に遊ばれてる。さっきからかわないって言ったくせに、ウソついた。
「オッケ、呑み込んだ。じゃ、恋愛マスター向日葵が、初心者輝月にテクニックを伝授してあげる」
呑み込まないでよぉ・・・・・・。
輝月は見事に向日葵のペースに呑み込まれ、がっくりとうなだれた。
「もう・・・・・・」
「ずばり、聞くけど。月野くんのこと、好き?」
「別に、好きなわけじゃ」
ほらぁ、もう。ね? でしょ? こうなるじゃん!
「好きでしょ?」
強い言葉を被せられて、輝月の頑なだった気持ちが緩む。
「好き・・・・・・なの、かなぁ。かもしれない」
「えぇ? その反応だと、恋したことないの? わかんないの? ウソでしょ? ガチ初心者?」
「じ・・・・・・、実は、そうなんだよね」
孤児院ではほとんど男子と話す余裕がなかったし、地上に降りてから関わった男は養父と翔琉のみだし。こくっと素直にうなずくと、向日葵はますます驚く。
「ええええ! もったいない」
「もったいない?」
もったいないって、なにが。予想外の言葉が飛び出してきて、輝月は聞き返した。
「恋こそ女子の道じゃん。輝月、めちゃくちゃカワイイのに。絶対人生ソンしてる」
人生ソンって。そんなに?
「じゃ、向日葵は、好きな人いるの?」
「いるよ。でも、振り向いてくれない。あ、ちなみに月野くんじゃないから安心して?」
初めて聞いた。・・・・・・なんてそんなこと言ったら、この前みたいに、当たり前だよ言ってないもんって返されてしまうから、口は閉ざしておく。
「だから、さっさと諦めて自分を好きだって言ってくれる人を大切にしようかなあって」
告白してくれた子のことか。
「でも、本命は諦めたくない。うん、それがあたしの恋だね」
「向日葵の、恋?」
うん、と向日葵は小さく微笑んでうなずく。いつもの、ちょっと違う次元から物事を言う向日葵ではなく、一人の女子としての寂しげな表情。
違う一面を目の当たりにして、輝月は少しだけ、驚いた。
「恋は人それぞれだからね。片想い、両想い、重たい恋、軽い恋。メンヘラちゃんもいるし、ツンデレくんもいる。相手に無頓着な人や、連絡を一日一回しないと気が済まない人もいる」
指を折り折り向日葵は言った。
「それも、全部がその人の恋なんだよ。輝月の恋は?」
問いかけに、輝月は考えた。
私は翔琉が好き。そこまでは、腑に落ちる。そっか。恋ってこういうのなんだ。
でも。
私に、月へ帰るつもりはない。対して、翔琉は留学中。連絡手段が遮断されているとはいえ、あと一年で・・・・・・あと一年で、帰ってしまう。
「片想い・・・・・・で、絶対両想いになり得ないし付き合えもしない恋かな」
言いながら、絶望的だと思う。さすがに、自称恋愛マスターの向日葵も救いようがないでしょ。さっさとこの話は終わらせて、勉強しなきゃ。受験の年が迫ってるんだからさ。
ちらりと向日葵を見ると、らしくなく、でも案の定厳しい表情でこっちを見ていた。
「輝月」
「うん?」
真剣そのもののその声音に、ちょっと驚く。
「絶対なんて、可能性を自分で封じちゃダメ」
「え?」
「恋に絶対はない。よしっ、なんか燃えてきた。絶対振り向かせてやるぅ!」
えええ・・・・・・いや向日葵、絶対って言っちゃってるし。ガッツポーズを決めて宣言する向日葵を呆れ顔で見つめる。矛盾してるよ。
それでも。
恋に絶対はない、か。いいこと言うなあ。やるじゃん、恋愛マスター・向日葵。
朝日の元気な笑い声が、人の溢れた廊下に反響する。ざわざわと賑やかな中、勉強から離れておしゃべりに興じる人々を見て、輝月はため息をついた。
あっという間に時は流れる。あの日、向日葵と翔琉が鉢合わせしてからもう一年が経ってしまう。
あと半年で高校生活が終わる。終わってしまう。高校から離れたら、もう一人の大人だ。不安と、期待と。恐怖と、希望と。
いろいろ混ざった感情に、それでも胸の踊りが勝っている人が多いんじゃないかな。確かに、楽しみ。確かに、光に満ち溢れているように見える。
それでも輝月は、悲しかった。不安じゃない。恐怖じゃない。悲しい。痛い。
高校生活が終われば、卒業すれば、千夜通いも同時に終わる。翔琉に会う手段が消えてしまう。翔琉は肩を落として月へ帰り、落第。月はあの翔馬とかいうクソ生意気なキザ野郎が治めることになる。
自分の夢と初恋、故郷の安寧。
複雑に絡んだいくつもの切なる願いが、輝月を板挟みにしてうごめいていた。
「輝月・・・・・・恋するJKの面構えになった」
朝日のしみじみとしたつぶやきに、輝月は途端に鋭くした視線を向日葵にやる。
「はぁ? も、もしかして向日葵から聞いた⁉︎」
「向日葵? 向日葵、なんか知ってるの?」
ああっ、墓穴掘った私。余計なこと言ったね、コレ。
「しっ、知らないよね、知らないよね向日葵!」
「ん〜?」
青ざめた輝月をちらりと見て、教えようかな、どうしようかな、って向日葵の瞳が意地悪に瞬いた。
こっちこそどうしよう、だよ!
「ま、聞かないであげるけどさ」
ふっと麦が表情を緩めた。向日葵もにやっとして、
「あたしも、教えないであげる」
「うん。別に、いいけど。でもさ、告白はしなよ。じゃなきゃ一生後悔する」
朝日にしっかり釘を刺された。ええええ・・・・・・。
「そんなぁ」
「いや輝月、これはマジだよ」
訴えるように麦を見ると、大真面目に見つめ返された。向日葵もうなずく。
「恋において後悔は残しちゃダメ」
「ならさ、告白して失敗したら気まずいし、気まずくなったら後悔するじゃん?」
「やった上での後悔はしゃーないよね」
「やらないときの後悔はその何倍にもなるんだぞ」
全員から言われて悔しくなり、揚げ足を取ってみたら、朝日と麦から、熨斗ついて返って来た。
「はぁい・・・・・・」
二人が言っていることはわかるが、気まずくなるのは辛い。
告白。
しなきゃいけない、そうだよね。後悔するもん。でも、それは最後の夜にする。それまで、この日々を楽しもう。
「あぁ〜・・・・・・」
高校の卒業式の夜。
ため息をもらして、輝月は薄暗い部屋のベッドに座り込む。
ヤバい。無理、マジ。心臓がうるさい、ああもうやだ。もう一度、ため息をつく。
明日だね、最後。やり切ったよ。昨日、そう言って笑みを見せながら、カレンダーに九百九十九と書き込んだ翔琉。
来ないで欲しい、いっそのこと。
この千夜通いの元となる小野小町の百夜通いは、完遂されることがなかった。九十九夜目に男の人が熱を出し、亡くなったという。
死ねとまでは言わないが、というか死んでほしくはないが、なにかトラブルにぶつかって、一分でも一秒でも遅れてほしい。覚悟ができてないよ。
ダメだ・・・・・・逃げちゃ。あとがない。朝日たちにせっつかれてから輝月は、半年も引き伸ばしてきた。だけど、もう明日はない。
立ち向かうべき壁は、もう翔琉のみ。
今日、全て言うつもりだ。翔琉への気持ち、月には帰らないこと。将来の夢。そして、謝罪。
翔琉に手伝ってもらって、八宵にだって向き合えた。だけど、今度は自分一人で立ち向かう番だ。己を必死に奮い立たせる。
偶然するりと解ける悩みもある。突然答えが目の前に現れてくれることもある。だけど、恋は違う。自分でぶつかって、当たって砕けろ精神でいかないと解決しない。相手の子が気を遣って、俺のこと好きだろ、なんて言い出すわけがないんだから。
大丈夫。いける、大丈夫。
「輝月〜、家庭教師くん来てるよ?」
時間、大丈夫なの? ああ、そう。帰りは送って行かせるからね、と会話がかすかに聞こえる。
え?
今日は正面から来たの?
軽く髪の毛を梳き、服を整える。ふっと大きく息を吐き出して、気持ちを落ち着けると、はぁいと翔琉を迎えに行く。
「輝月。最終日でしょ、どうせならね」
最終日ということもあってか、心なしか緊張した顔で駆け寄ってくる翔琉を、輝月は部屋へと誘う。
「ちょっと大事な話があって。いい?」
「え? うん。いいよ。っと、待ってね。千、と」
カレンダーに赤でそう書き込んでから、輝月と向き合う。
「あの」
息を大きく吸い込んで、輝月は話し始めた。
「私は、言い訳ばかりで、逃げてばかりで」
八宵からも、ひいては月への帰郷からも。
「その度に翔琉に助けてもらって」
自分がいじめられる理由がわかって、黒幕・・・・・・は大袈裟だけど、まあ操っていた人も知れて。
「自分勝手で」
でもその頃にはもう、月へ帰ることが嫌だ、という気持ちよりも地上に住みたい、という気持ちの方が強くなっていた。
「大して可愛くもないし、口も悪いし、強がってばかりだし」
たくさん翔琉の邪魔をして、結局翔琉の将来まで阻んでしまった。
「でも」
私は、そんなに迷惑をかけたのに。
「翔琉」
ごめんね。この気持ちは、どうしても消せなかった。
「翔琉が好き」
自分勝手な思いで、ごめん。
翔琉がゆっくり目を見開いた。
「翔琉が、好きなの」
ごめんね、翔琉。本当に、ごめん。
「それと、もう一つ。私は、約束を破るけど、月には戻りません。・・・・・・ごめん」
声に出して、深く頭を下げた。
「ここでやりたいことを見つけたの」
「なに?」
かすかにかすれているけど、柔らかい声だ。なにをやりたいの?
「・・・・・・映画を、翔琉が好きな映画を作りたい」
「そっか」
さすがに怒られるかな。
でも、胸は、つっかえていたものが消えて、世界を一気に平和に変えるような、暖かく快い風が通り抜けたように清々しかった。
「サイコーじゃん!」
顔を上げ、歯を見せて笑う翔琉に、輝月は拍子抜けする。
「へっ?」
怒ってない。悲しんでない。ただ楽しそうで、ひたすら喜んでくれているように見える。
「いいことだよ。いつか輝月の作った映画、見てみたい。・・・・・・じゃあ、俺は帰る」
翔琉が、あっさり部屋を出た。お別れは、こんなにあっさりしていた。
ドアに消える後ろ姿を眺めて、くっと拳を握る。
バイバイ、翔琉。三年間ありがとう、そしてごめんね。迷惑ばかりかけて。
でも、とてもーー楽しかった。
階下で、家庭教師くんはもう帰ったの? 輝月? と、怪訝そうな養母の声が響いた。