かぐや姫、ときどきシンデレラ

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「この髪飾りとか、いいんじゃないか? 日本髪にさす、ほらなんていったっけ。結構日本が好きな人はいるんだ」
「こっちは、風鈴だ! ここはあんまり気温の上下はないけどな、地上に憧れて買う人が多いみたいだぞ。音もいいし」
「おっ、これこれ。だいぶ前だけど、地上ブームが起こってな。この、スマホに似せたちゃっちいゲームがバカ売れしたんだ。俺も遊んでた。でもさ、本物見たときは鳥肌がたったよ」
「ほらこれ、キーボード風インターホン。面白いだろ? 地上もいいけど、こっちも、真似しかしないくせに工夫だけはすごいんだ」
 賑わう商店街でぺらぺらまくし立てられ、適当に相槌を打って、あ とは目を白黒させながらついていくのが精一杯だ。手首を強く握られあちこちを走り回る。
「簪ね。坊ちゃん、いい加減覚えて?」
「そうそう、特にうちのはね、特別な音がするんだよ」
「ああそうか、坊ちゃん地上に留学中だものね。というかちゃっちいってなに!」
「言い方に棘があるけど。ん? 今やどこの家でもこれだけど? 真似も工夫のうちだし」
 いろんな人から話しかけられて、それに素早く答えていく。
「ああカンザシ、それそれ。でも、コウガイと区別がつかないんだよね」
 ヘアアクセを売る綺麗なお姉さんには照れ笑いで応じて。
「本当だ。しゃらしゃら言ってる」
 風鈴を店先に飾るおじさんには驚いた顔をしてみせ。
「あ〜、ごめんごめん、つい本心が」
 あんたも遊んでたくせにとあかんべえをする女性には、お返しのようにぺろっと舌を出し。
「そ、そうだもんね、うんうん」
 細身のお兄さんでもすごまれたら慌てたようにうなずく。
 流れるような素晴らしい対応に、思わず目を見張る。どうやらここでは、『坊ちゃん』と呼ばれて慕われているらしい。
 元来、人と関わるのが得意なのだろう。怒ったり、睨んだりしながらも、それは振りだとわかる。全員目は笑顔を見せていた。
「あっ!」
 ぼんやりと感心していると、するり、と手首を掴まれていた感覚がどこかへ逃げていく。身長が大人よりわずかに小さいくらいの、特徴のない今光源氏の頭を見つけることは困難だった。
 どうしよう、はぐれてしまった。ここ、月の都で通用する携帯電話は持っていないし、待ち合わせ場所も決めていない。
 いろいろ考えたが、ひとまずど真ん中で立ち尽くしていたら邪魔になるとふらふらと人の波に合わせて歩き、小洒落た洋服店の前で、ぷっと吐き出された。
 どうしよう。ひとまず、この商店街から抜けようか。
 小さく靴音を鳴らしながら、石畳の道を戻る。何人も同じような年頃の女子が横を駆け抜けていく。思わず足元を見つめた。堂々と歩く自分が、恥ずかしくなったから。女子高校生が一人商店街を歩くなんて、陰キャ丸出しすぎだ。
 いや、それよりも、どこか、気後れというか、怖気というか、やましいような気持ちがあった。
 私は・・・・・・ここにいて、いい存在なんだろうか。月の都で生きる資格なんて、あるんだろうか、と。
 何度も、あの常軌を逸した劣悪な環境から逃げ出そうと試みて。六回くらい見つかって、最後、帝にツテを持つ院長がなんやかんや動いて地上に落とされた。
 鑑真かよ。歴史で習ったことをふっと思い出して、思わず笑いが込み上げる。しかも、脱出失敗だし。・・・・・・いや、ある意味成功かな。養父母は優しいし、八宵からも解放されたし。
 て、ことは。
 リアル鑑真じゃん。
 意味のわからないことばかりで頭の思考を濁して、足を止めずに歩き続ける。ちらちらと爪先が視線に入り、石畳に浮かぶ細かい粒がどんどん後ろに流れていく。
 そのとき。
 なにかとぶつかって、反動にたえきれず尻餅をついた。ずきん、と尻が痛む。でも、違う、先に謝らなきゃ、人とぶつかったんだもの、謝らなきゃ。
 ぱっと顔を上げて、声を発する。
「あっ、ごめんなさ・・・・・・いっ」
 思わず息を呑んだ。だって、だって。
 じりじりと、石畳をあとずさる。ますます尻が痛むけど、そんなの、構ってられなくて。
「は? なんて?」
「聞こえなかった」
「ていうか、なんでお前がここにいんの?」
 一気に太陽が陰った。着飾った四、五人の女子たちが、天を覆っていた。
 こつん、となにかに背中がぶつかる。ちらりと視線をやると、磨き込まれたショーウィンドウだった。きらきらと輝く雑貨が飾ってある。
 逃げられない・・・・・・っ。
 外から見れば、それは、着飾った女子が、身の丈に合うような可愛い雑貨を見ているようにしか見えない。中に怯えて座っている輝月の存在なんか、見向きもしないで。
「あ〜あ、やっといなくなったと思ってたのに」
「しかも、噂に聞いたところ、帰るのを拒んでるっていうもんね」
「やっと自分の立場わかったかって感じ!」
 八宵と、その取り巻きたちがけたたましい笑い声を商店街に反響させる。
 ぐっと下を向いて、唇を噛む。
 自分の立場ってなに? なにをこの人たちは言っているんだろう。幾度となく思った疑問はいつも、暴力によって霧散する。
 というよりは、なにかワケがあるんだろう、と思ってしまうような、尋常じゃないいじめ方なのだ。
「・・・・・・だったんだけど、な〜」
「なんで戻ってくるかなぁ」
「うわっ、なにこの髪の毛」
「ストレート。ダサ〜い」
「巻かないのー?」
 がっと自慢の髪の毛を掴まれて、強引に立たされる。頭皮がずきずきと痛い。
「やめて・・・・・・」
 そのとき、染めることさえ知らないくせにとか、制服クソダサいじゃんとか、そんなことを言い返せばいいものを、小さく声を上げることしかできず、そしてどうにもならないことは知っていた。ますますエスカレートすることも。でも、そんな小さな抵抗するしか術はない。
 ああ、今光源氏と初めて会ったときは、あんなに抗えたのに。この人たちは、抵抗しても無駄だと、体のあちこちに刷り込まれているから。
 案の定、輝月の困っている姿を見て、くすくすと嘲笑がもれる。
「ん〜? やって、って、言ってるけど、八宵」
 言ってない、そんなこと。
 追随するように、他の子も八宵に言う。
「どうする?」
「ふふっ、聞いてあげるよ。どうされたい?」
 逃がして欲しい。もう、あんなに痛い思いをするのは嫌だ。
 くい、と形の整った唇の端を持ち上げる八宵は、輝月の目にはなによりも怖く映った。
 殴られて蹴られて、踏まれて。あの日々を思い出しても、痛いことばかりで。白黒でがたがたにしたはずの思い出に、徐々に生々しい色がつけられていく。
 やめて・・・・・・。
 小さな抵抗はあっけなく蹴り飛ばされ、他の子も見て見ぬふりで横を通り過ぎてゆく。
 涙があふれた。
 しょうがない。八宵は孤児院の院長の娘。誰も逆らえなかったんだから。
 ダメ。泣いちゃダメ。泣いたら、もっと便乗して酷いことをしてくる。知ってるから。ぐっと唇を引き締めて、うつむいた。
「なんも言わないけど」
「おまかせだって〜」
「ふぅん、わかった。じゃあ・・・・・・」
 今回は、なにをされるんだろう。ぎゅっと目を閉じて、早くこのときが終わるのを待つ。いつかは、そう、いつかは終わる。
 そんなの、叶わないことは知っていたのに。叶わなかったから、逃げ出そうとしたのに。なのに、いつか終わると唱えることしか、輝月は精神安定の方法を持っていない。
 もしかしたら、連れ去られて孤児院に戻されるのかもしれない。永遠にも思える苦しみが、また始まるのかもしれない。
 どうしたらいいの? 体を強張らせて、拳を握る。
 どうしたらよかったの?
「なにしてるんだよ!」
 一喝。
 はっと顔を上げると、青ざめた八宵たちと、初めて見るほど厳しい顔をした今光源氏が立っていた。そのさらに奥には、小さな人だかりまでできている。
「今光源氏・・・・・・」
「姫、姫、大丈夫?」
 八宵たちに見向きもせず駆け寄ってきて、傷がないか、身体中を改められる。
「うん・・・・・・ありがとう」
 ふっと力が抜けて、こらえていた涙が頬を伝った。見られないように、顔をさりげなく背けて、礼を言う。
「坊ちゃん」
「知り合い?」
「ああ、探してた子なのね」
「大丈夫?」
 女性多めでいろんな人が、『坊ちゃん』の知り合いというだけで話しかけてくれる。はい、とうなずいて、髪を整えた。幸いまだ、大きな暴力は振るわれていない。
「坊・・・・・・ちゃん、って」
 そっと、取り巻きの一人が青ざめて、他の子と顔を見合わせ始める。
「もしかして、あの?」
「帝の、息子の・・・・・・」
「やばいよ八宵」
 帰ろう、と促されている当の本人の八宵は、輝月を介抱する今光源氏を見て、愕然とした表情になっていた。
「八宵っ」
「なにしてるの、帰ろう!」
 痺れを切らした仲間達に半ば引っ張られるようにして、八宵の背中は野次馬の間をすり抜け、商店街の人々に紛れ小さくなっていく。
 今光源氏は、その背中を忌々しげに見遣った。
「皆、心配かけてごめん。と、ありがとう」
 ぺこっと今光源氏が、声をかけてくれた人たちに向かって頭を下げる。輝月も慌てて倣った。
「ありがとうございました」
「いいのいいの」
「よかった。どこも怪我してないんだね」
「嫌ね、物騒だわ」
「昔もいじめとかあったけどねぇ」
「やっぱり女子って陰湿なのかしら」
「自分に帰ってくるからやめて〜」
 にこやかに言ってから、喧しく噂話に興じつつ後ろの店に入っていく。
 ああ、可愛い雑貨店のお客さんだから女性が多いんだ、と納得する。
「ごめん。はぐれちゃって」
「いいよ、俺も張り切りすぎたし。・・・・・・疲れただろ? 帰ろう。後で話は聞くから」
 すっと目の前に手を差し出され、戸惑った視線で今光源氏を見てしまう。
「もう、はぐれないように。ほら」
「うん。ありがとう」
 そっと握る。まるでエスコートされてるみたいだ。
 ちょっと、いやめちゃくちゃ恥ずかしいけど、はぐれるよりはマシだから。そう。はぐれるよりはマシなだけだから。
 心で唱えながら、輝月は歩き出した。
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「そうか・・・・・・だから、帰りたくなかったんだな」
 一切を聞いた今光源氏は、眉根を寄せてうなずいた。
「なんでそんなに酷いことをしたんだろう」
「なんでだろう・・・・・・昔はね、というか、孤児院に入りたての頃は、小さな悪戯を仕掛けられるのはしょうがないってセンパイに言われてて。洗礼みたいなもの?」
 取り巻きたちとともに新入りをいじめるのが、一年に一度から三度、小さな子を皆の前で紹介してからのルーティーンとも呼ぶべき行為だった。それはぶつかられたり、仲間外れにされたりというほどのもので、悪戯と呼ぶのに等しかった。
 きっと、孤児院での生活が暇だったんだろう。
「うん・・・・・・知ってる」
「え?」
 意味深なつぶやきを耳にして、そっちに顔を向ける。辛そうに強張った顔を左右に振って、今光源氏はううん、なんでもないと慌てて頬を緩ませた。
 でもその小さな悪戯も、一年ほどのことで、また新しい子が来たらターゲットを変更する。それからは、気に入られてその取り巻きに入るか、ほとんど関わり合いがなくなるかだと、聞かされていた。
 実際、半年ほど経った頃、他の人よりずっと早いペースで頻度は減っていった。八宵本人が姿を見せることはなくなり、取り巻きたちのさらに小さなものに変わった。
 なんだか耳に挟んだ噂からすると、恋をしたらしい。
 ああ、もうすぐ終わるんだ。そう期待し始めていた。
 だけど。
 唐突に、再びいじめが始まった。拷問、と呼んでも過言ではないかもしれない。罵られて殴られ蹴られ、幾つも体にアザをつけられた。髪の毛を引っ張られ、傷をつけられて。
 最初の方のものよりも、もっと酷い。それも、輝月ピンポイントだった。物を隠されるのは日常茶飯事。そして、なにも知らない大人に怒られると、あの人たちはにやにやした顔で眺める。
 最初の方は抵抗していた。逃げたり、大人に言いつけたり。
 でも、どこに逃げてもどうにかして見つけられたり、相手が院長の娘であるためいじめ自体をもみ消されたりした。
 それでも輝月は、その強大な権力に歯向かった。
 無抵抗主義なんて意気地なしなだけ。そう思ってた。
「いじめの再開は、いきなりだったのか?」
「うん・・・・・・正気じゃないって思うくらい酷かった」
 なにか、私をいじめる理由がないとおかしいくらいに。
 輝月は疲弊していたのだ。
 なにかしらの理由があって執拗にいじめてくる相手には、無抵抗主義を貫くことがある意味賢いのかもしれない。一番の対処法なのかもしれない、と。
 それからは、小さな小さな抗いしか、できなくなっていた。大人には言わない。できる限り隠れて暮らし、ひたすら謝ってそのときをやり過ごす。
「そっか」
 輝月は、その理由を聞いたことがあった。常のような罵りとともに、ぽんと八宵の口から出てきたのだ。
 あなたなんかが、・・・・・・だなんて信じられない!
 なんて言ってたかな。朧げな記憶をたぐるけど、曖昧な部分は曖昧なまま、答えは出てこなかった。
 あのときみたいに、誰も助けに来てくれないと思った。だって、八宵たちにとってうまい隠れ蓑が、後ろにあったから。
「そういえば、なんでわかったの? 外からは、見えなかったよね?」
「いや。はぐれただろ? それで、あの雑貨店探してたら、中から見えたから・・・・・・」
 そっか。ショーウィンドウだったから、中からは見えるんだ。おかげで助かった。八宵たちが、絶対にバレないと思って選んだ場所が、今光源氏を呼び寄せたんだ。
「よかった・・・・・・ありがとう」
 怖かった。思わず弱くつぶやく。それから、隠すようにもう一度礼を口にして階段を上がり、自分にあてがわれている部屋へ戻った。
「おやすみ」
「うん。おやすみ、姫」
 小さな挨拶がリビングに響く。
「ごめんな・・・・・・」
 その背を追いかけるように発せられたため息まじりの悲しげな声はしかし、今ドアの中に消えようとしている輝月の背中まで届かなかった。
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 定員八人ほどのレトロなバスの扉が、バスガールの手で開けられる。
 これが、月と地上をつなぐただ一本のバスだった。予約制で、一日一本のみ運行。バス停は帝がおわす屋敷の前に設置され、乗るには莫大な料金と、そして一つ、規定を守らなければならない。
 月のことを、地上で他言してはいけない、ということだ。
 何度も何度も言い聞かせられ、母に叱られる子供のような気分になったところで、ようやく地上へと旅立てる。破れば地上出禁の上に、培ってきた社会的地位もなくなってしまう。その厳しい条件のせいか、これまで破った人はいないというし、おそらくこれからも出ないだろう。
 輝月の場合は今光源氏が、全て料金を負担してくれていた。
 このバスの名ーー待宵号(まつよいごう)と書かれた券を渡し、乗り込む。中は、新幹線とかによく見られる横座席。
 大して柔らかくもないクッションの椅子に腰掛けて大きく伸びをして、今光源氏はにこにこする。
「楽しかった?」
 なんで疑問形?
 不思議に思うけど、一応小さくうなずいておく。
 月の都がトラウマである輝月に気を遣ってくれたのかもしれない。怖いこともあったけど、楽しいことも体験させてくれた。苦大なりイコール楽、くらいだけど。
 でも、嘘じゃない。部分を捨てて答えることは、嘘じゃない。切り捨てみたいなもんだから。
 そう考え直し、もう一度、自信を持ってうなずいた。
「出発いたします」
 バスガールのマイク越しの声とともに、すっとバスが動き始める。三度目の乗車だった。夏休みももう終わりかけ、いうこともあってか、二人の他に乗客はいなかった。
 これが夏休みだとか、冬休み、春休み、ついでにゴールデンウィークだったりすると、二、三組いるんじゃないだろうか。
 でも、それくらい地上へ降りる富と覚悟が両方そろっている人は少ないのだ。
 バスが一日一本なので、日帰りが、バスの帰る準備が終わるまで、数秒、数分とよっぽど短くないと不可能であり、長期滞在する人が多い。
 あたりを見回して、遠慮がいらないと思ったのだろう、今光源氏が声を出した。
「もう、夏休みも終わりだな」
「そうだね・・・・・・」
 一抹の寂しさが、二人の間を流れた。今夏は、たくさんの思い出が詰まっている休みだった。それが、終わる。
 海水浴のときの傷も、それを癒す夏祭りも。やりたくないと散々わめきながらも課題を手伝ってもらったこともあった。毎夜の小さな会話が積み重なり、もう二ヶ月。そして、今回の帰郷。
 全てが今、思い出になって溶けてゆく。
 つつがなく八月が終わり、九月に入って、十月に文化祭も終え、十一月も普段と変わらず過ごした。
 昨年と違ったのは、虫時雨の中お月見を今光源氏としたことだ。強引に誘われて、押し切られて引っ張り出された。いつもこうだ。
 いつもはどちらかといえば周りにふよふよ漂う女子に流されて行動する男のくせに、輝月が関わるとなんでこんなに、謎に厚かましくなるんだろう。
 彼に対する幾つもの違和感が芽生えるどころか、すでに輝月の中で葉を生い茂らせ枝を張って育っていた。そろそろ剪定しないと、生活に支障をきたすくらいに。
 でも、切り出せずにいる。別に変じゃないよと、再びゴリ押しで終わりそうな予感がしなくもないからだ。輝月は決して口が達者ではない。だから、いつも押し負けてしまう。
 まあ、いいか。
 ベッドに寝転びふうっとため息をもらす。暖房が効いた部屋で、思わずうとうとしていると。
 がんがん、と窓が叩かれる音で、目が覚めた。かすかに人の声もする。
 あ、忘れてた。氷輪を映す窓に近づいていって、鍵を開ける。
「ごめ〜ん。うわっ、寒っ」
 ひゅぅう、と今光源氏と一緒に吹き込んできた雪まじりの風を、ぴしゃんと窓で遮った。
「寒っ、て・・・・・・俺はこの寒い中来てやったのに? 開けとけよぉっ」
 不満をこぼしながら、エアコンの下で、タイタニックの姿勢のままいつかの輝月のように両手で温風を受け止めている。ごめんごめんと再び謝罪を口にして、ぴっとリモコンで暖房を切った。
「うわ、えっ。えぇえ。ないじゃん、それは」
 途切れた恵みの風に、涙目で詰め寄られた輝月は、目を細めて呆れてみせた。
「はいはい。っていうか、千日通ってくるって言ったのあんただからね。私を責められても」
「でも、千日通って来いって言ったのは姫でしょ」
「私に帰れって言ったのも、あんた。あんたの身に降りかかってる諸悪の根源は、あんた。自業自得自縄自縛因果応報」
 珍しく言い負かされて、うっと詰まった今光源氏は、斜め上を見て沈黙している。
 それから、そういえばさ、と視線を戻した。
「姫、俺の名前、知ってるか?」
「知らない」
 あんた、あんたと連発しすぎただろうか。だよな、と今光源氏はうなずいた。
 思えば知らないのだ。躊躇なくすぱっと答えて、確かに知らない、と自分の答えに納得する。転校生自己紹介のとき寝ていたのだから。
「ていうか、姫なんて呼んでたっけ、俺のこと」
 今光源氏、と答えたら、なにそれ、と返ってくるに違いない。そうしたら、どうやって説明しよう?
 現代の光源氏のことなんて、光源氏はイケメンなんだよなんて、言えない・・・・・・。一人で赤くなって、首を振った。
「さあ。なんて呼んでたっけ」
「いま・・・・・・今、なんとかかんとかって、ほら、先生もさ。『今かぐや姫』みたいな。あれ、どういう意味?」
「えー。私、寝てたし」
 適当に誤魔化しておく。
「ふーん・・・・・・ま、いいけど。翔琉(かける)ね。翔琉。覚えといて」
「かける・・・・・・」
 二度も教えられて、口の中で繰り返す。ああ、確かに。女子たちにカケルくんって呼ばれてたっけ。月で通っていた小学校に同じ名前の子がいたから多少違和感はあるけど、まあ、褒めとこ。
「へぇ。かっこいい」
「えっ、興味ない? すごい棒読みじゃん」
「あ。バレた」
「もーっ。じゃなくて。今日はね」
 話を切り替えて、輝月に向き直る。なにか話があるらしい。
「クリスマスパーティー、参加しない?」
 まただ・・・・・・。よし。今回こそ断る!
 意味のわからない決意をして、顔を厳しく作る。
「嫌だよ」
「い・い・じゃ・ん! クラス皆来るって言ってたし」
 駄々っ子みたいに唇を尖らせ、それからまた、胸の前で手を組んで上目遣いにお願いしてくる。
「ね? この前みたいな思いは、させないから」
「・・・・・・っ」
 一瞬見惚れてから、ぶんぶん頭を振る。コイツ、いつの間にハニートラップなんか覚えたんだ! 危うく引っかかるところだったじゃないか。今光源氏の美貌を使われてはたまらない。
「ダメ。やだ」
「え〜。お願い! 同じベッドで寝かけた仲じゃん!」
「それはっ・・・・・・あんたが勝手にっ」
 初日のことだ。出会った日、母に見つからないように翔琉と抱き合うような格好でベッドに寝てしまった。そのときのことを思い出して赤くなる輝月を置いて、ますます翔琉は追い打ちをかけてくる。
「プレゼント交換あるから。ね?」
 プレゼント交換。
「夕食も、割り勘で出る。だから、お金はいるけど、輝月の分は内緒で俺が払うし」
 内緒で。
「もしかしたら、友達、できるかもだし」
 友達。
「ちょっとで抜けてもいいよ。俺も一緒に抜けるから」
 一緒に。
「ぅう・・・・・・わかった」
 ここまで言われたら、かえって断りにくいんだもん。ね? そうじゃない?
 輝月はうなずいた。その言葉にいつも通り、本当に? やったーっ、と喜んで、今光源氏、改め翔琉は帰って行く。
 まただ。もう、あそこまで押されたら首を横には振れないよ。かたく結んだ人の心を柔らかくするようなあの能力、マジ勘弁してほしい。
 そのくせ、自分の心にはなにかを抱え込んでいる。
 ある道に長けた人が、自分の持つ技術を悪い方向に使ってしまうと他人は手出しが難しくなるもの。
 もう、アイツ、人の心を剥くのが上手いのに、自分の心は何重にも覆い隠しちゃって。
 剥き方を知ってる分、その反抗方法もわかっている。ああ、タチ悪い。
 一人で怒りながら、頭の隅ではプレゼントはなにがいいかなあ、と考え始めていた。
「あっ、南條(なんじょう)さん!」
 一年半、その苗字を使ってきたけど、未だ慣れていない。
 なんじょう、南條・・・・・・あ、私だ。後ろから呼びかけられて、消化してから振り向いた。
「はい」
「来てたんだ」
「あ・・・・・・」
 海に来てた女子の一人だ。ただ一人、話しかけてくれた風変わりなお人。
 月の都よりももっと身を飾る技術は進んでいる。髪だって巻くだけではなく、茶色やときにはピンクなんかにも染めることができる。この人も、例にもれずにきらきら着飾っていた。
 毎朝懇切丁寧に巻いているのだろう、ふわりとまとめられ少しの崩れも見せない外はねのボブに、やっぱりここのJKらしくグロスで彩られた唇が、にこっと笑った。
「こんにちは」
「こん・・・・・・にち、は?」
 なんで私?
 心は驚いていたけど、表面はどぎまぎしながら、一応軽く会釈しておく。
朝日(あさひ)! なにしてるの?」
「あっ・・・・・・今行く!」
 後ろの派手な集団からかかった声に、その女子、朝日は答えて、それからこっちに向かってウインクでもするように、じゃあまた、と言った。
 明るく振る舞っているけど、今の様子や海水浴のときの反応から、この人が集団の圧に苦しんでいるのではないかということは容易に予想がつく。
 歓声と話し声がごった返す中で輝月は一人、隅のソファ席に座り、ぼんやりと辺りを眺めていた。
 クラスメイトの両親が経営しているカフェを貸し切り、どこからか特大のクリスマスツリーを持ってきて、派手なクリスマスパーティーである。
「姫。どお? 友達はできた?」
 隣に翔琉が座る。もう、人の目があるところでは絡まないでって言ってるのに。かなり不満に思うけど、まあ、隅っこだし誰も注目しないからいいか。
「できるわけないじゃん」
 皆が皆、人と触れ合うことがあんたみたいに簡単じゃないのよ・・・・・・ついっと顔をそらす。
「え〜。いい人は?」
「いい人って」
 その言い表し方に、つい合コンかよ、と突っ込みたくなる。輝月の苦笑をいいじゃんといなして、今光源氏は言い直した。
「気が合う人、みたいなの、いなかった? 話しかけてくれたり、さ」
「話しかけて・・・・・・」
 ふっと一人の笑顔が脳裏によぎった。
 あっ、南條さん! 来てたんだ。こんにちは。
 ・・・・・・ああ、ダメダメ。変な期待しちゃいけない。舞い上がったらその分、落ちたときに辛いんだから。急いで頭を振り、追い払った。
「いないよ、・・・・・・そんな、変な人」
「ふーん。そう」
 いかにもつまらなそうにうなずいて、翔琉はテーブルに頬杖をついた。
 そのときいきなり、拍手とともに声がかかった。
「メインイベント〜」
「プレゼント交換しよう!」
 カフェの真ん中に空間が作られる。ずらりと椅子が並べられ、一人一人そこに座った。
「皆、プレゼント出して〜」
 おっ、と翔琉が表情を明るくする。
「ほら行こう。姫」
 ぐっと手首を引かれて、輝月は立ち上がった。
✳︎ ✳︎ ✳︎
「えぇ〜・・・・・・クリスマスまで来るの? 別に、来なくてもいいのに」
 昨日、クリスマス・イヴも来たし、その上さっき、カフェで解散したばっかじゃん。
「いや、来る」
 輝月はその一点の曇りもないきっぱりした言葉になんと打ち返せばいいのかわからず、ため息をつきながら窓を閉める。
「もう・・・・・・」
「なに、その嫌そうな顔」
 してないよ、とめんどくさそうな顔に作り変えて、勉強机の椅子に座る。翔琉は窓の近くの壁にもたれて立っていた。
「今で何ヶ月? えーっと、六、七、八、九、十、十一・・・・・・七ヶ月目になるんだ。おお、七ヶ月」
 指折り数えて、翔琉は感心したように顔を輝かせた。いつの間にか一ヶ月、二ヶ月と年月は過ぎてゆき、ついに半年も越したらしい。
「ね、姫、クリスマス会、楽しかったでしょ?」
「ん? まあ、ね」
 急に変わった話に、気のない同意する。でも、ウソじゃない。
 海水浴のことはほとんど誰も覚えていなくて、最近は翔琉も人目につくところでは付き合いを避けていたから、話の輪には入れなかったものの、あからさまな仲間はずれにもあわず、普通に楽しめた。
「あ、あれ」
 翔琉の視線が、ベッドの上の小さな袋に吸い寄せられている。クリスマス会でもらった、プレゼントだ。
 解散したあと、あ、それ私の、とか俺が買ったやつだ、とか話してたけど、話す相手なんていない輝月は直帰したので、誰からのものかはわからない。
 なので、少し怖いのである。
「開けないの?」
「あ・・・・・・いや、今、開ける」
 輝月の元へやってきたプレゼントの中身は、マジェステだった。一見バレッタみたいなヘアアクセサリーで、束ねた髪に金具を刺し、簪のように留めるもの。ちなみに、初めて見たから全部調べた。
 どうやらマジェステの基本は鼈甲タイプが基本らしくて、これも例にもれずに鼈甲だった。
「お、似合いそうじゃん!」
 窓の近くに立つ翔琉が、横でにこにこしてる。その笑顔から顔を背けて、輝月は答えた。
「・・・・・・そんなことないでしょ」
 普段、まったく髪を結ばない輝月。腰まである自慢の髪の毛は、いつも垂らしたままだ。
 かといって無下に捨ててしまうのももったいないし、これを選んでくれた名も知らぬ子にも申し訳ないし、なにより色使いがなんとも可愛い。
 腕を伸ばして、勉強机の奥に立てて飾っておく。
「え? つけないの?」
「・・・・・・つけ方、あんまよくわかんなかったし」
 それに、似合わないに決まってる。こんな、大人っぽい髪飾り。
 心の中でつぶやいて、ため息をもらした。
「あのっ」
 実験室に移動しようと、教科書、教科書・・・・・・と机の中を探っていたとき、右の方から声がかかった。声の主は、ボブの女の子。
 ああ、クリスマス会のときの。すぐに思い当たった。朝日って呼ばれてた子だ。
 横には二人の女子が付き添っている。ショートながら編み込みなど髪の毛をうまく工夫している子と、明るめの髪を高い位置でポニーテールにしている子。
 なんの用だろう?
「はい?」
「一緒に、行かない?」
「あ・・・・・・うん」
 急いで荷物をまとめて、三人と一緒に教室を出る。ポニーテルを揺らして、笑顔で話しかけられる。
「えーっと、南條さん、だよね」
「うん。南條輝月」
「きづき?」
 聞き返されて、小さくうなずく。
「ええと、私は、朝日」
 これは、知ってる。またうなずく。ポニーテールの子が口を開いた。
(むぎ)。やだよね。髪の色、これ、ほぼ染めてないの。麦の色してるからさ」
「あたしは向日葵(ひまわり)。夏に生まれたから向日葵なんだって。単純なんだよね、ウチの親」
 それぞれに自己紹介をされて、輝月は、順繰りに目を見ながら名前を繰り返す。
「朝日ちゃんと、麦ちゃん、向日葵ちゃん」
「ちゃん、いらないよ。輝月」
 ばさっと麦に言われて、ごめんと思わず謝る。
「なんで謝るの〜。いいって、別に」
「いきなりだし、引くよね正直」
 朝日と向日葵に慰められ、輝月は笑い返す。
「全然、大丈夫」
 そういえばそうだ。なんで今日、いきなり?
 不思議に思ってふと思い返してみれば、今輝月たちのクラスは、冬休みを越してからというものインフルエンザに三分の一ほどを占領され、朝日のグループの女子、大半がやられて休んでいるのだ。
 思えばグループの輪にガンガン入って戯れあっている人々がすぐに感染し、ある程度節度を持って過ごしている朝日たちが感染を免れるのは理にかなったことだ。
 はっと物思いから抜けると、気まずそうな三人が目に入る。
 ああ、いけない。なにか、話しかけなきゃ。こんな話題提供が下手だったらすぐに離れていっちゃう。ちらちらとさりげなく三人に視線を向けて、ふと気づいた。そうだ。
「えっと・・・・・・皆、髪の毛、可愛いね」
「あっ。マジ? やった」
 にやりと朝日が笑った。
「え?」
「これ全部、朝日がやってるんだ。このポニーテール、横三つ編みになってるの」
 麦に横顔を見せてもらって、ああ確かに、と思う。細いけど、確かに可愛く編んであった。向日葵も、歩みを進めながらくるりと一回転してみせた。
「あたしのこの編み込みも。可愛いでしょ?」
「うん、すごく」
「今度、輝月の髪も触っていい?」
 朝日にきらきらした目で見つめられて、首を縦に振った。
「いいよ、全然」
「いい? やったあ」
 そう言って、朝日は喜ぶ。少し面食らったけど、まあ別に触られて減るものじゃないし。
「めちゃくちゃ綺麗だもんね。輝月の髪」
「本当? 嬉しい。自慢なんだ」
 何気ない向日葵の言葉にはにかむ。
 地上に降りて、家以外にできた初めての居場所。確固とした地面ではないけれど、それでもあるだけで十分だ。
 輝月はとても、嬉しかった。
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 最初の方はたどたどしかった会話も、一週間も経てば慣れてきて、すっかり揺るぎようのない居場所になった。
 朝日も今ではほとんど、大きいグループで無理ににこにこしていることはなくなった。外されて、一人になる心配が霧散したからだ。
「輝月、数学の課題教えて」
 ひょこりと机の前から覗いた頭を押し下げる。頭はいてっと小さくうめいて、次は横まで歩いてきた。
「教えて」
「向日葵・・・・・・やってないの?」
「うん、やってない。教えて」
 きっぱりと答えられて、その潔さにふとあの翔琉を重ねてしまう。
 朝日たちと仲良くなれたと報告したら、喜んでくれた翔琉。
 しかし、微かに微妙な顔をしていたのが、少し気になる。絶対なにか隠してる、と否応なく悟ってしまう。嘘が下手なところは、年を越しても変わらないのだ。
「お〜し〜え〜て〜」
「はいはい」
 するすると、差し出されたノートに解いて、解法も口で付け足してやる。全部翔琉から教えてもらったことの発展だけど。
「すご。やっぱり、輝月って頭いい」
 隣に来た麦が、切長の目を見張って言う。確かに、ここ数ヶ月、入学した当初よりも断然成績が伸びていた。多分翔琉のおかげだ、と思う。苦手だった数学の授業も、ついていける。
 まあ、感謝の気持ちとなにも返せない罪悪感は持っているが、月に帰る気はさらさらない。ましてや、地上でのもう一つの居場所ができたばかりなのだ。ますます帰る気がしない。
 と、そこまで思って、ふと気づいた。ああ、そうか。ますますここの滞在が楽しくなって月へ帰らないとなるのが嫌で、翔琉は微妙な顔をしたんだ。
「でも、最初の方ってあんまりテストの出来よくなかったよね? 特に数学とか」
 向日葵が言った。
「えっ、なんで知ってるの? ストーカー?」
「違うよ。後ろの席だったの。見えるんだよね案外。授業中とか寝ててさ、よく起こされてた。嬉しかったよ、あれ。席替えで離れて、したら起こさずにスルーする人もいるって知って。・・・・・・スルーする。スルーする。ははっ、駄洒落みたい」
 向日葵が、盛大に滑って一人で笑っている。それは、全員スルー。
 輝月は微苦笑を浮かべた。
「ああ! あれ面倒なんだけどね。起こした方がいいかなーって。やめなよ寝るの」
「すんません」
 気のない謝罪を返して、向日葵は続ける。
「まあ、だから、最初の方からちょっと気になってたんだよ。輝月のこと。友達になれてよかったあ、って感じ。朝日さまさまだね」
「そんなん、私だって・・・・・・嬉しいよ」
「はーいしみじみしない。私が哀れでしょうがない!」
 一番初対面だった麦が、ぱんぱんと手を叩いて雰囲気をぶった切る。
「すいませんね、ドラマチックになっちゃって。私は、輝月と去年夏に海水浴に行ったんですよー」
 彼女は彼女でこの展開を楽しんでいたらしく、べえっと朝日が舌を出す。
「あ〜、行ったね!」
「うん。彼に連れられて来たんだよね。友達入れてやってもいい? って言われて」
「そんな口実だったの?」
「うん。皆嫉妬心溢れる表情だった。彼女なんじゃないかって」
 恥ずかしい。道理で輪の中に入れてもらえなかったわけだ。
「途中で帰っちゃうし。正直話したかったけど、他の子たちが気にしなくていいんじゃない? って言ってて、それで引き留められなかった。ごめんね、あのときは」
「はーい終わり、この話も終わり。終了!」
 そんなことないと首を振ろうとしたら、再び麦が割り込んできた。
「ごめんってば」
「寂し〜、マウント取りまくりじゃん! サイテー」
「麦とは・・・・・・これからたくさん思い出を作っていこう?」
「あああ、輝月〜」
 ドラマのイケメンが言いそうなセリフを吐息多めで口にすると、麦が抱きついてきた。
「わかったわかった」
「あ! ねね、今度さ」
 内緒話をする子供のように目を輝かせて、朝日が自身の顔の近くに皆を呼び寄せる。輝月と麦はくっついたまま。
「勉、強、会。しな〜い?」 
「いいね。勉強会」
 すぐに同意の声が上がって、続け様に一言。
「輝月の家で」
「えぇ?」
 なんで。思わずもれた素っ頓狂な声に、クスクスと楽しげな笑い声があがる。
「だって、輝月が今回は先生だから」
「そうだね。ね、輝月先生」
「今週末で大丈夫そう?」
 大丈夫そうじゃない・・・・・・。
 とんとん拍子に進められる話に、思わずがくっと肩を落とす。その日だけは、気まぐれに翔琉がしてくる早めの来訪を断らないと。
「わかった。今週末ね」
 輝月はうなずいた。
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「そう。そのメンバーと勉強会するの。だから、結構遅めに来てもらいたいんだ」
「わかった。ていうか、姫。来るのはいいんだね?」
 翔琉が憎らしく言うので、輝月は、帰る気は毛頭ないくせに、つんとそっぽを向いて言い返してやる。
「来ないなら、月に帰る話はもうたち消えだね」
「いやっ、ウソウソ。ごめんって」
 慌てまくる翔琉。やっぱり、変だよね。胸にわだかまり続けていた疑問が、またぞろ動き出す。今なら答えてくれるかな。ガラスの扉、内側から開けてくれるかな。
「ねえ、なんでそんなに私を帰したいの?」
「それは・・・・・・っじゃなくて。人助けって言ったでしょ。あぁ〜、気持ちいいんだよなぁ。人助け」
 まだダメか。バレバレな言い訳を聞き流して、内心でため息をついた。人助けでこんなに親身になれるなんてよっぽどだもん。モテモテだった光源氏でもしないでしょ。絶対に、なにか別の理由があるはず。
「ねえ姫、今度さ、また月に帰ろうよ」
「え、またぁ?」
 この前は翔琉がホームシックになっているのではと気遣って帰郷したけど。
「嫌だ」
 今回は、帰る理由がない。前回の気遣いも勘違いで意味なかったし。またばったり八宵と会ったら最悪だから、嫌だ。
「なんで。前はいいよって、しかも自分から帰るって言ったのに」
「だから、それはぁ・・・・・・」
 え、気遣いに気付いてない? いいんだけどさぁ。ムカつく。かといって気を遣ってやったんだよって自分からネタバラシするほど私、心が冷たくはないんで。
「お金すごいことになるじゃん」
「大丈夫だって、金銭面の話なら。もう、変なとこに気、遣わないで」
 こっちがどこに気を遣ってるか知らないくせに、この野郎。なにを・・・・・・っと危ない。なんでもないです。
 めちゃくちゃに荒れかけた心を押し隠し、なんとかこの申し出を断らなければ、と思案顔を作る。しかし、いい理由が思いつかず、曖昧さを押し切ったような、なんとも煮え切らない表現になってしまった。
「いや、他にもあるの!」
「あ・・・・・・そうだったな。ごめん、忘れてた。八宵だ。またいじめられるのが怖いんだな?」
 根本の原因が八宵だということを思い出したらしい。
 そんな過激な理由じゃなく、他のことで断りたかったんだけどなー・・・・・・八宵の話をしたとき、結構翔琉ショック受けてたから気を遣ってやってたのに。鈍いにも程があるってものでしょ。
 うなだれるようにうなずいて、輝月はふと疑問に思った。あれ? 翔琉の前で私、八宵って単語、口にしたっけかな。
「そうか」
 急に沈んだ声を出して、翔琉は返事をした。
 あ〜あ、ほらね? 凹んだ。でもまあ、これで月に帰ろうとは言ってこないでしょう。不本意ながら、ひとまずよしとする。
「でも、姫」
「ん?」
「原因、わからないんだろ? ちょっと気にならないか」
「気にはなるけど」
 でも、別に、知らなくていい。私がなにをしたかも、私の立場がどんなものかも。
「なんでいきなりそんなこと言うの?」
「実は心当たり・・・・・・じゃなくて、ううん。聞きに帰ろう。月に」
 なに言ってるの、この人。
「はっ? いや、嫌だよ。いいもん、知らなくて。じゃあね、バイバイさよなら」
 問答無用で、ぐいぐい窓の方に押しやる。
「えっ、ちょ、姫?」
 がらっと窓を開けて、半ば追い出すようにして外へと押す。下は屋根だから、すぐには落ちないはずだ。遮断するように、勢いよく窓を閉めた。
「姫?」
 くぐもった声が聞こえてきて、輝月は顔を背ける。
「姫っ、逃げるな!」
 逃げちゃダメだ、ちゃんと理由を教えてもらおう。輝月がなにをしたかも、輝月の立場がどんなものかも。
 知っている。私は、逃げた。逃げ出した。逃げて、失敗して、それでも逃げる。
 情けなくても、人間としてダメダメでも、それでもあの狂気の裏に、どんな忌まわしい理由が引っ付いているのか、それは知りたくなかった。
 怖いのに。触れたら怪我をすると知っているのに。なぜ立ち向かわなければならないの?
 火に自ら入っていくのは夏の虫だけで十分だ。
「一緒に、行くから。一緒に、八宵に立ち向かうから」
 だから姫、帰ろう──。
 ガラス越しの籠った声が、輝月の部屋に響いていた。