それから豆太くんは、狭間の宅配屋の営業日のたびに、田中さん宛ての荷物を持って来るようになった。
 逆に田中さんからは、豆太くん宛てのお菓子や遊び道具と一緒に、たくさんの新鮮な野菜をお土産として持たされる。

「なんか……いつもすみません……」
「なんの! これくらいしかお礼が出来んけの……一人じゃ食べきれんくて、腐らすより喜んで食べてもらったほうがわしも嬉しい!」
「ありがとうございます!」

 今日も瑞穂がいい食材を手に入れてきたと、クロの機嫌がよくなることは嬉しかったし、豆太くんと田中さんの嬉しそうな顔を見るのも、二人に喜んでもらえるのも、本当に幸せだった。

 しかし――。



「こうも続くと、本当に疲れが抜けきらない……」
「若いのに何言うちょるの、はははっ」

 宅配便の出張所で、伸びている私を笑っている千代さんのほうが、よほど若々しく見える時がある。

「千代さんって……何歳なんですか?」

 試しに訊ねてみると、「あらやだ、女の人に年を聞くなんてぇ」と言いながら教えてくれた。

「八十八? ん? 九だったけぇ? とにかく、もうすぐ九十よ」
「九十⁉」

 年配だとは思っていたが、とてもそこまでには見えず、思わず私は叫んでしまった。

「もっと……田中のお爺ちゃんと同じくらいかと思ってました……」
「あらあら、嬉しいことを。庄吉さんは七十五じゃったけぇ? 十五歳も下じゃね」
「十五……」

 とてもそうは思えないともう一度言いかけて、私はどきりとした。確かに千代さんは九十近いとは思えない元気さだが、逆に田中さんが、七十代にしては年を取って感じられるのだ。

(腰を痛めたとかで、少し背が曲がってるし……足もひきずってるし……そういえば最近咳を……)

 ごほごほと咳きこむことが多くて、私が心配すると、少し前に風邪を引いてから咳だけ抜けない、他に症状はないから大丈夫だと笑っていた。

(大丈夫……かな……?)

 ご近所ともかなり距離があるような場所に、一人で住んでいる田中さんのことが心配になってくる。

(本当は、誰かと一緒に住むといいんだろうけど……)

 一瞬、豆太くんの顔が頭をよぎったが、私は首をぶるぶると左右に振って、それを追い払った。

(ダメ、ダメ、豆太くんと田中さんは住む世界が違うんだもの……)

 実際にあやかしであるクロとシロと同居している私は、ともすればその線引きがわからなくなる。
 一人住まいの田中さんと、その田中さんをあそこまで慕っている豆太くんが一緒に生活するというのは、それほどいけないことなのだろうか。

 シロに少し訊ねてみたが、しばらく沈黙した末に、「難しいと思う」という返事だった。
 おしゃべりな彼が、それだけしか答えないことにはかなり深い意味があるように感じたし、クロにはきっと否定されると思ったので、私がそれ以上深入りして、その問題を話題にすることはなかった。

 ただ、自分に出来るせめてものことをと、豆太くんの荷物を届ける時に、田中さんの様子をよく見ておくことは心がけた。



 ある日、いつものように田中さんの家の近くに車を停めて、建物へを続く長いスロープを上がると、異変に気がついた。いつも様々な野菜やお茶などが入れてあるざるやかごが、整頓されて小屋の前に積まれている。
 軒先に下がっていた玉葱やへちまも片づけられており、今まさに田中さんが、自分で彩色したいろいろな形の瓢箪を、大きなダンボールにしまっているところだった。

「こんにちはー」

 声をかけた私を見て、「よお」と手を上げてくれたが、ごほごほと咳きこんで手にしていた瓢箪を落とす。
 私は慌てて田中さんに駆け寄った。

「大丈夫ですか?」

 しばらく背中をさすってから、縁側に置いてあった水筒から麦茶をグラスに注いで田中さんに手渡すと、田中さんはごくごく飲んでひと息つく。

「ありがとう、瑞穂ちゃん。助かったわ」

 お礼を言うとすぐにまた作業を再開するので、私もそれを手伝う。

「全部片づけるんですか?」

 田中さんは眉尻を下げて、少し寂しそうな顔になった。

「ここを引き払うんじゃよ。都会に住んどる息子が、自分のところに来いって前から言ってくれちょったんだけど、なかなかこの咳が抜けんで心配じゃから、もうすぐにでもって……」

 豆太くんや私以外にも、田中さんを気にかけて、心配する存在はいるのだと気がつき、私は少しほっとした。

「そうなんですか……」
「仏壇も準備するから、位牌だけ持って来いって言われたら、いつもの言い訳も通用せん……畑は放り出すことになるけど、仕方ないの……」

 荷物をたくさん運び入れる場所もないので、家財の多くも置いていくことになるのだという。

「よかったら、一つ持って行かんか?」

 箱に詰められた瓢箪の中から、私は赤とオレンジで塗られた小さなものを選んだ。
 田中さんが庭に植えている木から取った実を、乾燥させて中身をくり抜いて彩色して上塗りしてと、一つ一つ手作業で作って、近くの農作物直売所で売っていたのを知っているので、箱にしまわれてしまっているのを見ると、切ない気持ちになる。

「ありがとうございます。出張所に飾りますね」
「ああ」

 田中さんは笑顔で、そよ風宅配便のロゴが入った箱を持ってきた。

「最後にこれを豆太に届けてくれんか。もうわしへの荷物は送らんでいい。これまでにもらったものは、全部大切に持っていくからって伝えてくれるとありがたい」
「はい、わかりました」

 それを聞いた時、豆太くんがどれほど悲しむかと思うと、喉の奥に熱いものがこみあげてきそうになったが、私は必死に我慢した。
 田中さんが、箱の上に封筒を乗せる。

「これは瑞穂ちゃんに。こんな遠くまで一日おきに……大変じゃったやろ? 何度も断ろうと思いながら、来てくれるのが嬉しくて……断りきれんかった。少ないけど、ガソリン代と手間賃。そしてこの宅配便の代金じゃ」

 封筒の中にはかなりの額のお札が入っており、私は慌てて首を振る。

「受け取れません! 私そんなつもりじゃ……」
「わかっとるよ。善意で来てくれちょったんじゃよな。でも仕事もしながら、たいへんだったとわかっちょる。だから受け取ってくんしゃい」

 深々と頭を下げられると、もう断わる言葉が出てこなかった。代わりに、必死にこらえようとしていた涙が溢れてくる。

「出張所の仕事もがんばっての。優しい社員さんが働いちょる、いい宅配便じゃった、そよ風宅配便は……こんなじじいを、七十五まで雇ってくれたんじゃからの……これからいく街には、そよ風宅配便はないのが寂しいのう……」

 涙を必死に拭って、田中さんから預かった荷物を私は大切に抱え直す。

「確かにお預かりしました。明日の夜には、豆太くんに渡せると思います」
「ああ。わしも明後日には出発じゃけ……今頃豆太が喜んどるだろうなと思いながら、明日は荷造りするよ」
「本当にありがとうございました」
「ああ。こちらこそ、ありがとうのう」

 田中さんに見送られて、いつものように車に乗ったが、私はなかなか出発できずにいた。
 瞳は潤ませながらも、最後まで笑顔で私を見送ってくれた田中さんが、顔をくしゃっと歪めて、腕で顔を大きく拭ったのが見えたから――。

「…………」

 唇を噛みしめて、嗚咽をこらえながら車のエンジンをかけた。
 涙で視界が塞がると危ないので、何度も何度も拭いながら、時には道路脇に車を停めて、いつもより長い時間をかけて、山の上の営業所までの道のりを帰った。