小さな町が夕焼けに染まる頃、電車に乗って登校する私の高校は、隣町の繁華街にある。普通に昼間に通う高校ならば住んでいる町にもあったが、進学先に夜間高校を選んだので、私は週に五日、こうして十分と少しの時間を電車に揺られることになった。 
 入学してそろそろ一年になるが、昼間の学校に通えばよかったと後悔したことは一度もない。 大勢のクラスメートに紛れ、学校行事にも部活にも特に積極的に参加しないまま過ごした中学三年間は、私にとって苦痛でしかなかった。だからそれぞれが絶妙に距離を取り、お互いのことを変に詮索しない今の友人関係が、心地よかった。
 あまり多いとはいえないクラスメートは、昼間はそれぞれに仕事を持っており、それでも勉強がしたくて夜学に通っているのだから、余計な時間もお金もない。教室に一緒にいる間は楽しくおしゃべりもするが、それ以外での接触はなかった。そんな割り切った関係が楽だった。
「おはよう。千紗」
「おはよう」
 夕方なのに『おはよう』なんてと、最初は照れ臭く感じた挨拶にも、もう慣れた。十五人しかいない教室。一人で二、三席使えるほど机は余っているが、女の子四人はいつも決まった席に並んで座る。 
「どうしよう……! 私、今日は絶対当たるのに、予習してない!」
「そんなの誰だってしてないよ……」
「千紗! 千紗さま! お願い、急いでこの問題解いて!」
 短い休み時間に交わされる会話は、中学時代によく耳にしていたものと変わらない。だが、どんなことにも「面倒くさい」などと言わず、真剣に向きあう彼女たちが、私は好きだった。 
「うーん……解けるかな……?」
「千紗に解けなきゃ誰が解けるのよ!」
 これまで教室の隅でひっそりと学校生活を送ってきた私を、彼女たちはかなりかってくれている。裏表などまるでない素直な褒め言葉が、面映ゆいながらも嬉しかった。ついらしくもなく、頑張ってしまおうかという気が起きる。
「うん……じゃあ解いてみよう……」
 夢に向かって努力しようと私が前向きになれたのも、ひょっとすると今の環境のおかげかもしれなかった。高いビルの向こうに夕陽が姿を消し、教室の窓から見える風景は、瞬きする間にも黒く塗り潰されていく。代わりに輝き始めるのは色とりどりのネオン。それさえ霞むほどに煌々と電気が点いた夜の教室で、私はこれまでで一番自分らしく、学校生活を送っていた。
 
「ふーん。それじゃあ、圧倒的に男子のほうが多いんだ?」
「うん。毎日全員が揃うってわけじゃないけど、少なくとも女子の三倍はいるかな……」
「そうか……」
 夕方のいつもの時間、弁当屋の裏で猫たちにご飯をあげながら、蒼ちゃんが私の学校について聞いてきた。高校には進学しないと言っている彼の弟に、私の通う夜間高校を勧めようと考えているらしい。
「あまり人と関わりたくないって言うんだ……通信制の高校って手もあるけど、それじゃあいつ、ほんとに家から出ないことになっちゃうからなあ……」
 しゃがんだ格好のまま私を見上げる蒼ちゃんは、優しい『お兄ちゃん』の顔をしていた。
「今は嫌々でも……友だちと結んだ絆が、いつかあいつを助ける日が来る……きっと来ると思う……友だちってさ……いろいろ煩わしいことはあっても決して不必要なものではないよね」
 一言一言ゆっくりと語られる言葉は、まるで私自身へ向けて発されているかのようで、私は真剣に頷き返す。
「うん」
 ぱっと輝くように、蒼ちゃんが笑顔になった。
「千紗ちゃんは素直だ。あいつも……弟も……ほんとはとっても素直なんだ……うん、決めた。ちょっと話をしてみよう」
 すっくと立ち上がった蒼ちゃんは、私に向かって右手をさし出す。
「入学するって決めたら、その時はどうぞよろしくね。先輩」
「うん」
 私も手を出し、蒼ちゃんの手を握る。力強く握り返され、ドキリとした。真っ直ぐに向けられる蒼ちゃんの笑顔はどうしても、私が固く閉ざそうとしている記憶の蓋をずらしてしまう。
(紅君……)
 あの頃、確かに自分に向かってさし出されていた小さな手を、まざまざと思い出した。
(今どうしてるんだろう? 元気にしてるかな……?)
 蒼ちゃんはいつも真正面から私を見ている。それなのに私は、すぐに違う人のことを考える。何を聞いても何を目にしても、思考の一番深いところではいつも紅君のことだけを考えている。
 そういう自分が申し訳なく、私はぎこちなく目を逸らした。まるで私の心の葛藤がわかったかのように、蒼ちゃんも握っていた手を放す。
「じゃあ、また明日。学校……気をつけて行っておいでね、千紗ちゃん」
「うん」
 短い返事しかしない私にも、いつも笑顔で接してくれる人。優しい、優しい人。私が抱えている複雑な思いを全て察してくれているはずなどないが、蒼ちゃんは何も聞かず何も言わず、ただほっとするような優しい時間だけを与えてくれる。
(ごめん蒼ちゃん……ありがとう……)
 その居心地の良さに自分が甘えているということは、私にも重々わかっていた。