徹夜明けの午前中は睡魔との戦いだった。

 昼休みを前にした最後の授業は体育。
 今日は軽い身体能力テストがあり、人間とあやかしの生徒は分かれてテストをおこなった。

 隣のグラウンドからあやかしの男子生徒が凄まじいタイムを記録したと大盛りあがりで、やっぱりあやかしは身体能力が高いんだなと思い知らされる。

 ほかにもあやかしは妖力測定などもあるようで、だいたいの結果は家門の位と同じような順位になるらしい。


 そして事件が起こったのは、体育後のことだった。

「え……」

 体育の後、更衣室のロッカーを開けた私は、小さく声を出す。

 ない、ない、どこにもない。
 ロッカーを閉める前、ブレザーの胸ポケットに入れておいたペンダントが、見当たらない。

 下に落としたのかと探してみてもそれらしいものはなく、その間に生徒たちはみんな更衣室からいなくなる。

「どうして……」

 冷や汗が背中を伝っていく。
 いつもは体育のときも首にかけたままだった。

 けれど今日は、留め具を修理したばかりだったから、もし落としたらいけないと念のためロッカーに入れていたのに。

 喪失感で心臓が大きく脈打ち、手が震えた。
 あれだけが、おじいちゃんと私を繋ぐたったひとつの大切なものなのに。

 それがなくなってしまったら、私は――


『イト。イトとは違う臭いがすりゅ』

小娘(こむしゅめ)の臭いもしゅるよう』

 狭まる視界にコンとポンが現れ、そう私に教えてくれた。

「亜美の、におい?」


 途端に脳裏を駆け巡ったのは、昨夜の亜美とのやり取りだった。

 あのときの亜美の様子には違和感があった。
 ペンダントを見て思案するような、不安を煽るような視線。


「……っ」

 私はロッカーの扉を閉めると、運動着のまま更衣室を出る。

 昼休みで生徒の通りが多くなった廊下を走り、食堂へと向かった。
 生徒のほとんどが学食を利用するため、食堂内はすでに混雑していて進むのも大変だった。

 でも、亜美がいる場所ならわかる。
 いつも取り巻きに席を取らせていて、その場所は毎回同じだから。


「――亜美!!!!」

 亜美と数人の取り巻きが座るテーブルに駆け寄る。
 息を切らした私の姿に、亜美は瞬きを繰り返して見返していた。

 まさか運動着のまま来るとは予想していなかったのだろうか、厚い前髪に隠れた眉毛を小さく顰めている。


「お姉ちゃん、どうして運動着のままなの? ここは食堂なのに」
「お願い、ペンダントを返して」

 亜美の言葉を途中で遮ると、さっそく取り巻きから避難の声が飛んできた。

「なによそれ、亜美の話も聞かないで何様なの? ていうか、ペンダントを返してってなによ。盗ったとでもいいたいわけ?」

「ねえ、亜美はなにがしたいの? どうして私に嫌がらせばかりするの? 私が困るところを見るのがそんなに楽しいの?」

「お、お姉ちゃん……何言ってるの? あたしはなにも……」

 その瞳をうるませて同情を誘うような表情が癇に障る。

 亜美の魂胆なんてわかりきっているのに、ペンダントを失った焦りでいらないことを言ってしまう。

 亜美は、私の存在が気に入らない。
 嫌がらせが満足いくことはなくて、私がいる限り亜美はやり続けるんだ。


「なに意味わかんないこと言ってんのよ!」

 その時、亜美の隣にいた女子が自分のトレイに置かれていたジュース入りのグラスを私目掛けてぶちまけた。

 オレンジ色の液体が顔にかかり、果実の香りが鼻腔を伝う。
 ベトベトした感触に眉を寄せて、ふらついた足場をもう一度踏みしめた。


「いきなり、なにをするの」

「あんたこそ迷惑なのよ。いきなりここに来て喚いて、また亜美を泣かせるなんて」


 周りに視線を流し、私を見る冷たい眼差しに嫌気が差した。

 そっか。この場面を他人が見たとき、私は頭がおかしい女で、亜美は巻き込まれた可哀想な子として映るんだ。

 どんなに本当のことを言ったところで私の心象は最悪で、私を知らない人も大多数が受ける感情に支配されていく。


「だけど、あのペンダントはっ」

「だから、なんで亜美だって決めつけるのよ。証拠でもあんの?」

 コンとポンが、ロッカーに亜美のにおいがすると言った。
 あの子たちがにおいを嗅ぎ分け間違えることはない。

 亜美のにおいが残っていたなら、この子が更衣室に入ってロッカーを開けたのは確実なのに。

 だけどその根拠を述べることはできない。


 ペンダントが無くなったと知ったとき、ぐっと堪えて帰ってから亜美を問いただすのが正解だった?

 でも、だけど。

 ジュースの滴が目に入って、視界が滲む。
 もう、なんだかよくわからない。

 私、こんな人前でなにをしているんだろう……


 
 
「イトちゃん、ここにいたのか」

 しん、と静まり返った食堂に、足音が鳴る。

 耳に馴染む声はこの大勢を前にしても全く臆することはなく、いつも通りだった。


「……天王先輩」


 振り返ると、もう見慣れた笑顔の天王先輩が立っていた。