自分の部屋に、ほぼ初対面の女の子がいる──海殊(みこと)はそんなどうしようもないむず痒さと人生で初めての経験に緊張を覚えながらも、お風呂上がりの琴葉(ことは)をちらりと見る。
 今、彼女は母のスウェットズボンに海殊のTシャツを着ている。下着を着けているのかどうかは、考えない様にしていた。
 自分や母親と同じシャンプーを使っているはずなのに、彼女の長く綺麗な黒髪からは良い匂いがふわふわ漂っていて、その匂いだけで胸の高鳴りを覚える。

「それで……俺は、どこまで聞いていいんだ?」
「え?」

 海殊の唐突な質問に、本棚の本をじーっと見ていた琴葉が驚いてこちらを見た。

「いや、事情とかさ。母さんはあんな感じで楽観的だけど、実際家出状態なんだろ? 警察とかに捜索願出されでもしたら」
「……それはないよ」

 海殊の質問に対して少女は諦めた様に笑うと、はっきりとそう言った。
 もしかすると、海殊が考える以上に琴葉の家庭環境は複雑なのかもしれない。

「もしね……もし、私の事が邪魔だったり、迷惑なんだったらすぐに言ってね。居なくなるから」
「……居なくなる?」

 海殊は彼女の用いた表現に違和感を抱いた。
 普通、こういった時に用いる言葉は「出て行く」「帰る」などの表現が正しい様に思う。しかし、彼女は「居なくなる」と言った。それはまるで、自分の存在そのものが消えてしまう様な表現だ。

「……別に邪魔でも迷惑でもないけどさ。もし何かあった時に対応できなかったら、大変だなって思っただけだよ」
「そこは、大丈夫だから」

 まるで断言する様に言い、琴葉は本棚へと視線を戻した。
 彼女はこういった表現をする事が多い。まるで未来を知っているかの様な発言だ。本当に未来からきたSF少女なのかと若干疑ってしまう。
 だが、その疑いを晴らす言葉も後に出てくる。それが──

「あっ、この小説新刊出てたんだ。って、えっ!? 完結してる!?」

 琴葉は『想い出と君の狭間で』という恋愛小説の最終巻を手に取ったかと思えば、帯を見て吃驚(きっきょう)の声を上げた。
 それは海殊が好きな小説の一つで、元芸能人の今カノと現役芸能人の元カノの間で主人公が振り回される恋愛小説だ。一昨年の春、確か海殊が高校に入学する前に一巻が出て、()()()()()三巻で完結している。

「これ、読んでいい?」

 琴葉は二巻と三巻を手に取ると、瞳を輝かせて訊いてくる。

「……どうぞ」

 海殊が小さく嘆息して肩を竦めると、彼女は早速二巻のページをめくっていた。
 自分が気に入っている小説を同じく気に入ってくれているのは嬉しい。だが、そこにも違和感があった。もし彼女が未来から来たSF少女なら、この小説が三巻で完結している事も知っているだろうし、そこに驚くはずがないのだ。
 それに、こういった事はこれが初めてではない。先程食事中にテレビを見ていて、半年前に有名芸人コンビが解散していた事にも驚いていたし、ある有名人が故人になっていた事についても困惑していた。その様子はまるで、過去から未来に来て未知の情報に遭遇して驚いている様でもあったのだ。
 未来が確定しているかの様に断言する事もあれば、過去の事象を知って困惑もする。はっきり言って、彼女には不自然な事が多すぎた。

(……考え過ぎか。実際、そんな事あるわけないし)

 海殊の部屋のクッションに座って二巻を読み進めている琴葉を見て、もう一度小さく溜め息を吐く。
 少し頭がこんがらがっているのかもしれない。あまりに自分が普段と異なる行動を取っているものだから、きっと疲れているのだろう。

「海殊くんは、(りん)玲華(れいか)、どっちが好き?」

 数ページめくったところで、琴葉が訊いてきた。
 彼女の言う『凛と玲華』とは、『想い出と君の狭間で』に登場するヒロインで、主人公の今カノと元カノだ。性格が似ている様で真逆で、主人公に対する接し方も全く異なる。好みが分かれるところだ。

「あー……どっちだろうな。玲華の執念も嫌いじゃないけど、真面目でひたむきに頑張る凛の方が好きかな」

 海殊は正直に答えた。実際にこの小説では今カノの凛が勝つわけなのだが、それは三巻で結末が出る。三巻での玲華の見せ場は胸にくるものがあって、多くの読者が彼女に惹きつけられるのだけれど、そこに関しては触れない方が良いだろう。

「琴葉は?」
「私も凛派だよ。気が合うね」

 琴葉はそう答えると、嬉しそうにくすくす笑った。
 その時に見せた彼女の笑顔があまりに可愛くて、海殊は今日何度目かの高い胸の高鳴りを感じてしまい、咄嗟に彼女から視線を逸らす。

「で、明日はどうするんだよ」

 そんな自分の感情を隠す為、海殊はぶっきらぼうな物言いで話題を変えた。彼女に内面を悟られるのが嫌だったのだ。

「どうするって?」

 琴葉はきょとんとして首を傾げた。

「学校だよ。行くんだろ?」
「え……!? あ、えっと……うん。行くよ?」

 どこか驚いた様な、困惑しているかの様な反応。

「もしかして、家出な上に不登校?」
「違うから!」

 そんなやり取りをするも、それはどこか暖かくて楽しくて。海殊は自らの胸の中がぽかぽかとしていくのを感じていた。

「じゃあ、えっと……この本借りるね」
「ああ、お好きにどうぞ。朝、寝坊するなよ」
「うん、ありがとう。おやすみ」
「おやすみ」

 そんな挨拶をして、琴葉が部屋から出て行くのを見送る。彼女は海殊の二つ隣の客間で寝る事になっているのだ。
 ほぼ初対面の女の子がうちに来て、自分のシャツを着ていて、更にその子から「おやすみ」と言われる。
 その何とも不思議な感覚にむず痒さを覚えながらも、海殊は自分の顔がにやけてしまっている事を感じて、思わず頬を叩いた。
 こうして、海殊と見ず知らずの家出少女との奇妙な同居生活は始まったのだった。