夢を見ていた。
白くぼんやりとしていて、あやふやな夢だ。
これは今に始まった事ではない。少女はずっと、こうした夢を見ているのだ。
その夢は時折現実と混じっている様にさえ感じて、どこまでが夢でどこからが現実だったのか、彼女にはわからなかった。
ただ、一つだけ言える事がある。
それは、とても幸せな夢を見た、という事。
少女は夢の中で、恋をしたのだ。
少女の知る時代よりも数年ほど進んだ世界で、同級生と恋に落ちた。
その夢では、毎日男の子と学校に行き、お昼を食べて、同じ家に帰って、ご飯を食べた。デートもしたし、二人きりで外泊した時は星空を見上げてキスをした。そして、最後は──二人で花火を見ながら別れた。
ほんの数週間程度の出来事だ。だが、彼女が失っていた数年分を補うに足りる程、濃縮された時間だった。そこには、彼女が走りたかった青春があったのだ。
例え夢の中と言えども、その駆け抜けた青春と恋だけは忘れまいと強く念じる。白くてぼんやりとした靄が自らの意識を覆い尽くそうとしたが、彼女はその恋の夢だけは忘れぬ様にと記憶の引き出しに大切に仕舞った。
肌が少し暑さを感じたり、寒さを感じたりしていた。
きっと、季節が変わっているのだろう──彼女は白い靄の中でそんな事を考えていた。
ただ、その寒さが過ぎた頃に、少しだけ変化が起きた。
彼女の手を、誰かが握ったのだ。それは、いつも彼女の体に触れる手とは少し異なっていた。
優しくて、暖かくて、大好きな手だった。
おそらく"この身体"で触れるのは初めての感触。だが、不思議とその手には覚えがあった。その理由は、きっとその手の感触と温かみにある気がした。
それは、彼女が夢の中で触れた事にある手とそっくりだったのだ。
その手を通じて、色々な感情が彼女の中に流れ込んできた。悲しさと申し訳なさ、そしてそれを勝る嬉しさ……それらがその手を通じて流れてきた瞬間、白くてぼんやりとした靄がほんの少しだけ薄くなった気がして、確かな自らの感情を感じたのである。
それは、嬉しさだった。
もう会えないと思っていた人に会えたという感覚だろうか。或いは、憧れだった人を初めて目の前にした感覚に近いのかもしれない。
そのどちらかはわからない。ただ、彼女はその手のひらから伝ってくる感情に、心が震える程の喜びを感じた。
それからも、その手の温もりはたびたび彼女の手のひらを覆ってくれていた。
それから、少しずつ……少しずつその靄が薄れていっているのを感じて、遂には耳元の声まで聞こえる様になった。
母の声と、男の声が遠くの方から聞こえてくる。内容まではわからない。
ただ、その男の声を彼女は知っていた。知っているはずのない声であるはずなのに、彼女は知っていたのである。
それは、夢の中で彼女が恋をした男性の声だった。夢の中で毎日彼女が話して、彼女への気持ちを語ってくれた声だ。
その声が近付いてくる度に彼女の意識から白い靄が取り払われて、"夢の中の記憶"も鮮明になっていく。
ぼやけていっていたその男の顔や表情、夢の中の出来事さえもはっきりと見えてくる様になっていた。
その男の名は、滝川海殊という。彼女と同じ高校に通っていた、同級生である。
当時、彼女は海殊の事を知らなかった。だが、不可思議な経験を通して、"夢の中で"彼と仲を育んでいったのだ。
(会いたい……! 海殊くんに、会いたい……!)
意識が戻ってくるにつれて、自らの想いと願望をしっかりと思い浮かべられる様になっていた。その気持ちを明確に自覚できる様になってから、白い靄は更に薄まった様に感じた。
前までは足元どころか自分の身体さえも見えない程、靄に覆い尽くされていた。だが、今は違う。前が見えるのだ。
少女は意を決して、歩き始めた。
光が見える方へ。より靄が薄まる方へ。
どれだけの日々を歩き続けたのかわからない。
何日だろうか。何週間だろうか。何か月だろうか。それはわからなかったが、前に進んでいる感覚だけはあった。
徐々に肌が気温を感じられる様になってきて、それはいつかの暑さを想い出す。彼と過ごした季節だ。
耳元で語り掛けられる声も、随分と近くなってきた。彼女が心から好きだと感じた人の声だった。その声が自分の名を呼んでくれていたのだ。
その声を耳元で感じられる様になった時には、白い靄は消えていた──。
*
遠くの方からミンミン蝉の鳴き声が聞こえてくる。
遠くで鳴いているはずなのに、今の彼女にとってはそれはとても近い様に感じた。何かの音をこれほどしっかりと聞けたのは、随分と久しぶりな様に想えた。
それと同時に、身体にはじっとりとした暑さを感じた。空調は入っているのだろうが、それでも暑い。身体の右側から、じんわりとした熱を感じる。こうした暑さを"この肌"で感じたのも、随分久しぶりだった。
「ん……んっ」
声が漏れた。自分の喉から出た声だ。二文字だけの呻き声なのに、えらく億劫だった。喉がからからだ。
「──葉? おい、琴葉!」
誰かが自分の名を呼んでいた。
それは男の声だった。その声の主が彼女の手を強く握ってくれていたのだ。
(ああ……この手だ)
彼女は確信した。
この手があったから、今自分はここにいるのだ、と。ここまで来れたのは、きっとこの手のぬくもりが道を示してくれていたからだ。
彼を見たい。早く会いたい。
そう思うのに、長い間閉じられたままだった瞼がやたらと重くて、持ち上がってくれない。一体どれだけこの身体の筋肉は弱まっているのだ、と呆れた程だった。
重かった瞼が、少しずつ開いていく。
視界がぼやけていて、ピントが合わない。だが、そのぼやけた視界の中には青年がいた。
まだピントは合っていない。しかし、そのシルエットだけで誰だかわかってしまう。それは、彼女が心から会いたいと思っていた人で間違いなかったからだ。
視界が完全に開けて、しっかりと彼を見る。
彼女が知っている彼よりは、ほんの少しだけ大人びた様に思える。高校生の私服ではなく、大学生という感じだ。
だが、彼に間違いなかった。ここにいる彼は、彼女が夢の中で共に過ごした彼に他ならない。
彼は『信じられない』といった表情で愕然としながらも、その瞳を涙で潤ませていた。心配そうで、でもどこか不安そうで、それ以上に嬉しそうだった。
きっと、自分の事を覚えているのかどうか不安なのだろう。だが、それ以上に目覚めたのを喜んでくれている様にも思えた。
そんな彼を見て、あれは夢じゃなかったんだ、と確信を持つ。この青年こそ、彼女の夢を共有している唯一の人物にして、彼女が心から愛した人だ。
それを理解した瞬間に、今度は瞳から溢れ出る涙で再び視界がぼやけてしまった。
「もう……どうして居るの?」
彼女は声と肩を震わせながら、会いたかったその人に向けて、精一杯の笑顔を作ってみせる。
「忘れていいよって……言ったのに」
彼女がその言葉を言い終えたのと、彼が覆い被さる様にして自分に抱き着いてきたのはほぼ同時だった。
薄めの毛布から、鉛の様に重い自分の両腕を何とか持ち上げて、泣きじゃくる彼の背中にその両腕を回す。
あたたかかった。彼女が夢の中で感じていたその体温と、ようやく触れ合えたのだと実感できた。
窓の外を見やると、そこには夏の青空が広がっていた。
彼と出会って、愛を育んだ季節だ。
これから先、自分の人生がどうなるのかはわからない。何年間もの間、眠ったままだったこの身体だ。日常生活に戻るにはかなりの時間を要するだろう。
だが、彼と一緒ならば乗り越えていける。到底抜け出せるとは思えなかった、あの白い靄の中からも抜け出せたのだから。
少女はそんな確信を持って、こう言った。
「大好きだよ、海殊くん。これから二人で……幸せになろうね」
(了)
白くぼんやりとしていて、あやふやな夢だ。
これは今に始まった事ではない。少女はずっと、こうした夢を見ているのだ。
その夢は時折現実と混じっている様にさえ感じて、どこまでが夢でどこからが現実だったのか、彼女にはわからなかった。
ただ、一つだけ言える事がある。
それは、とても幸せな夢を見た、という事。
少女は夢の中で、恋をしたのだ。
少女の知る時代よりも数年ほど進んだ世界で、同級生と恋に落ちた。
その夢では、毎日男の子と学校に行き、お昼を食べて、同じ家に帰って、ご飯を食べた。デートもしたし、二人きりで外泊した時は星空を見上げてキスをした。そして、最後は──二人で花火を見ながら別れた。
ほんの数週間程度の出来事だ。だが、彼女が失っていた数年分を補うに足りる程、濃縮された時間だった。そこには、彼女が走りたかった青春があったのだ。
例え夢の中と言えども、その駆け抜けた青春と恋だけは忘れまいと強く念じる。白くてぼんやりとした靄が自らの意識を覆い尽くそうとしたが、彼女はその恋の夢だけは忘れぬ様にと記憶の引き出しに大切に仕舞った。
肌が少し暑さを感じたり、寒さを感じたりしていた。
きっと、季節が変わっているのだろう──彼女は白い靄の中でそんな事を考えていた。
ただ、その寒さが過ぎた頃に、少しだけ変化が起きた。
彼女の手を、誰かが握ったのだ。それは、いつも彼女の体に触れる手とは少し異なっていた。
優しくて、暖かくて、大好きな手だった。
おそらく"この身体"で触れるのは初めての感触。だが、不思議とその手には覚えがあった。その理由は、きっとその手の感触と温かみにある気がした。
それは、彼女が夢の中で触れた事にある手とそっくりだったのだ。
その手を通じて、色々な感情が彼女の中に流れ込んできた。悲しさと申し訳なさ、そしてそれを勝る嬉しさ……それらがその手を通じて流れてきた瞬間、白くてぼんやりとした靄がほんの少しだけ薄くなった気がして、確かな自らの感情を感じたのである。
それは、嬉しさだった。
もう会えないと思っていた人に会えたという感覚だろうか。或いは、憧れだった人を初めて目の前にした感覚に近いのかもしれない。
そのどちらかはわからない。ただ、彼女はその手のひらから伝ってくる感情に、心が震える程の喜びを感じた。
それからも、その手の温もりはたびたび彼女の手のひらを覆ってくれていた。
それから、少しずつ……少しずつその靄が薄れていっているのを感じて、遂には耳元の声まで聞こえる様になった。
母の声と、男の声が遠くの方から聞こえてくる。内容まではわからない。
ただ、その男の声を彼女は知っていた。知っているはずのない声であるはずなのに、彼女は知っていたのである。
それは、夢の中で彼女が恋をした男性の声だった。夢の中で毎日彼女が話して、彼女への気持ちを語ってくれた声だ。
その声が近付いてくる度に彼女の意識から白い靄が取り払われて、"夢の中の記憶"も鮮明になっていく。
ぼやけていっていたその男の顔や表情、夢の中の出来事さえもはっきりと見えてくる様になっていた。
その男の名は、滝川海殊という。彼女と同じ高校に通っていた、同級生である。
当時、彼女は海殊の事を知らなかった。だが、不可思議な経験を通して、"夢の中で"彼と仲を育んでいったのだ。
(会いたい……! 海殊くんに、会いたい……!)
意識が戻ってくるにつれて、自らの想いと願望をしっかりと思い浮かべられる様になっていた。その気持ちを明確に自覚できる様になってから、白い靄は更に薄まった様に感じた。
前までは足元どころか自分の身体さえも見えない程、靄に覆い尽くされていた。だが、今は違う。前が見えるのだ。
少女は意を決して、歩き始めた。
光が見える方へ。より靄が薄まる方へ。
どれだけの日々を歩き続けたのかわからない。
何日だろうか。何週間だろうか。何か月だろうか。それはわからなかったが、前に進んでいる感覚だけはあった。
徐々に肌が気温を感じられる様になってきて、それはいつかの暑さを想い出す。彼と過ごした季節だ。
耳元で語り掛けられる声も、随分と近くなってきた。彼女が心から好きだと感じた人の声だった。その声が自分の名を呼んでくれていたのだ。
その声を耳元で感じられる様になった時には、白い靄は消えていた──。
*
遠くの方からミンミン蝉の鳴き声が聞こえてくる。
遠くで鳴いているはずなのに、今の彼女にとってはそれはとても近い様に感じた。何かの音をこれほどしっかりと聞けたのは、随分と久しぶりな様に想えた。
それと同時に、身体にはじっとりとした暑さを感じた。空調は入っているのだろうが、それでも暑い。身体の右側から、じんわりとした熱を感じる。こうした暑さを"この肌"で感じたのも、随分久しぶりだった。
「ん……んっ」
声が漏れた。自分の喉から出た声だ。二文字だけの呻き声なのに、えらく億劫だった。喉がからからだ。
「──葉? おい、琴葉!」
誰かが自分の名を呼んでいた。
それは男の声だった。その声の主が彼女の手を強く握ってくれていたのだ。
(ああ……この手だ)
彼女は確信した。
この手があったから、今自分はここにいるのだ、と。ここまで来れたのは、きっとこの手のぬくもりが道を示してくれていたからだ。
彼を見たい。早く会いたい。
そう思うのに、長い間閉じられたままだった瞼がやたらと重くて、持ち上がってくれない。一体どれだけこの身体の筋肉は弱まっているのだ、と呆れた程だった。
重かった瞼が、少しずつ開いていく。
視界がぼやけていて、ピントが合わない。だが、そのぼやけた視界の中には青年がいた。
まだピントは合っていない。しかし、そのシルエットだけで誰だかわかってしまう。それは、彼女が心から会いたいと思っていた人で間違いなかったからだ。
視界が完全に開けて、しっかりと彼を見る。
彼女が知っている彼よりは、ほんの少しだけ大人びた様に思える。高校生の私服ではなく、大学生という感じだ。
だが、彼に間違いなかった。ここにいる彼は、彼女が夢の中で共に過ごした彼に他ならない。
彼は『信じられない』といった表情で愕然としながらも、その瞳を涙で潤ませていた。心配そうで、でもどこか不安そうで、それ以上に嬉しそうだった。
きっと、自分の事を覚えているのかどうか不安なのだろう。だが、それ以上に目覚めたのを喜んでくれている様にも思えた。
そんな彼を見て、あれは夢じゃなかったんだ、と確信を持つ。この青年こそ、彼女の夢を共有している唯一の人物にして、彼女が心から愛した人だ。
それを理解した瞬間に、今度は瞳から溢れ出る涙で再び視界がぼやけてしまった。
「もう……どうして居るの?」
彼女は声と肩を震わせながら、会いたかったその人に向けて、精一杯の笑顔を作ってみせる。
「忘れていいよって……言ったのに」
彼女がその言葉を言い終えたのと、彼が覆い被さる様にして自分に抱き着いてきたのはほぼ同時だった。
薄めの毛布から、鉛の様に重い自分の両腕を何とか持ち上げて、泣きじゃくる彼の背中にその両腕を回す。
あたたかかった。彼女が夢の中で感じていたその体温と、ようやく触れ合えたのだと実感できた。
窓の外を見やると、そこには夏の青空が広がっていた。
彼と出会って、愛を育んだ季節だ。
これから先、自分の人生がどうなるのかはわからない。何年間もの間、眠ったままだったこの身体だ。日常生活に戻るにはかなりの時間を要するだろう。
だが、彼と一緒ならば乗り越えていける。到底抜け出せるとは思えなかった、あの白い靄の中からも抜け出せたのだから。
少女はそんな確信を持って、こう言った。
「大好きだよ、海殊くん。これから二人で……幸せになろうね」
(了)