それから間もなくして、春子は家を発った。
 母を見送ると、海殊は冷凍庫から作り置きしておいたチャーハンを取り出し、レンジで解凍して食べてから、自分の部屋に戻った。
 窓を開け放って、部屋の中の熱気を解放する。空気を入れ替えてから冷房を入れれば、すぐに快適な空間を作れるだろう。
 なんだか色んなものがモヤモヤしていて、気持ちが悪かった。ただ、色々不自然な事は起こっているものの、今日から夏休みである事には変わらない。受験勉強など諸々やる事は多いが、今日くらいはもう寝てしまおう──そう思ってベッドにどさりと寝転がった瞬間だった。
 窓の外から少し強い風が入ってきて、その拍子に勉強机から一枚の紙がひらりと床に落ちる。

(ん……?)

 見覚えがなかった上に、紙がカラフルだった事もあって視線が奪われた。
 その紙に妙に惹かれてしまい、身体を起こして手に取る。それは、今夜開催の花火大会のチラシだった。

(あ、れ……?)

 そのチラシを見た瞬間に、誰かの声が聞こえた気がした。

『えっと、じゃあ……』

 誰かがきゅーを降ろしてこのチラシを持ってきて、彼にこう言ったのだ。

『これ、行きたい』

 その言葉と声が脳裏を()ぎった瞬間、頭の中で欠けていたピースがハマっていく。記憶と"ある少女"の面影が紐づいて、鮮明に"彼女"の面影が蘇った。彼女の名前を思い出したのはそれと同時だ。

「──琴葉!」

 "愛しい人"の名前を呼んでドアの方を振り返ると、そこには寂しげに笑う琴葉の姿があった。何かを諦めた様な、でもそれを受け入れるかの様な笑みだった。
 琴葉の足元には、きゅーが擦り寄っている。彼女はずっと……海殊の後ろにいたのだ。

「お前……ずっと、一緒にいたのかよ」

 海殊が言葉を絞り出すと、琴葉は相変わらず微笑んだまま頷いた。
 その瞬間、海殊は自己嫌悪で死にたくなった。昨夜の誓い、いや、ここ数日彼女を想っていた自分を自分が全否定してしまった様に感じてしまったのだ。自分自身を殴れるのなら全力で殴り飛ばしたかった。

「ごめん……ごめん琴葉! 俺、お前の事忘れないって……昨日の夜誓ったばっかなのに!」

 海殊は琴葉を抱き締めて、涙ながらに謝罪をした。
 自分が最低に思えてならなかった。最低だと彼女に罵倒して欲しかった。
 だが、彼女は柔和に微笑んだまま、首を横に振る。

「仕方ないよ……これは自然な事だから」

 でも、と言葉を区切らせてから、琴葉は鼻を鳴らして海殊の胸に顔を埋めた。

「想い出してくれて……ありがとう」

 涙声で、絞り出す様にして彼女はそう呟いた。
 海殊は自らも涙を流しながら、そんな彼女を力強く抱き締めてやる事しかできなかった。
 本当なら存在しないはずの声、身体、そして体温……きっと、そう遠くない未来に今朝と同じ事が起こるのは明白だ。その時が来たら、祐樹達や春子の様に、海殊も琴葉の事を綺麗さっぱりと忘れてしまうのである。それをまざまざと見せつけられた気がした。

「お前との……琴葉との、デートの約束の日なんだ。忘れて堪るかよ……花火行こうって、約束したじゃねえか……!」

 琴葉はすすり泣きながら、海殊のその言葉に何度も何度も「ありがとう」と御礼を言った。
 しかし、何も礼を言われる事ではない。好きな子から花火大会に行きたいと言われて、それに一緒に行きたいと思っただけだ。高校生同士の惹かれ合う男女として、当たり前の約束をしたに過ぎない。きっと、今夜の花火大会に訪れる多くのカップルと同じ理由だ。その過程とその後に訪れる結果が、少し違うだけである。
 それから夜の花火大会までは、ずっと二人でくっついたまま過ごした。二度と見失わない様にしっかりと手を繋いで、ただ海殊の部屋でぼんやりと身を寄せ合う。
 よくある質問で『もし世界が明日滅びるなら何をする?』というものがある。物語の中だけでなく、テレビ番組や日常の話題でもこのトピックはなくならないところを見ると、人類にとっての永遠の疑問なのだろう。
 美味しいものを食べたい、お金を使い切りたい、映画や音楽などを見尽くしたい、趣味に没頭したい、家族と過ごしたい、恋人と過ごしたい……千差万別の答えがそこにはあるだろう。
 しかし、それぞれが"今"思い浮かぶ答えをその日に実行しているかと言われると、謎である。
 そんな中、海殊はその答えを"今"自分で出していた気がした。
 きっと、彼は世界が滅びる最後の一日を、琴葉とこうして手を繋いで過ごすのだろう。何かを語るわけでもなく、何かをするわけでもない。ただその存在を感じ取っていたくて、最後の瞬間まで一緒にいたくて、彼女と身を寄せ合っているに違いない。
 なぜなら……今、彼らはその世界の終わりを経験しようとしているのだから。
 海殊と琴葉の世界は、もうすぐ終わる。それを、二人ともが実感していた。
 もしここにいる彼女の存在が消えてしまえば、おそらく海殊の記憶からは彼女が消える。そして、彼女の意識が完全に戻らぬものとなれば、それは記憶していないに等しい。
 二人の記憶から互いの記憶が消えてしまうのであれば、それは死に等しいのではないか。

『人のアイデンティティはどこにあるのか?』

 世界最後の日の問いと同じく、これもよく出る話題だ。海殊はその問いの答えも今見つけた様に思う。
 人のアイデンティティ……それは、記憶だ。
 人は記憶があるからこそ、その存在を認知できる。誰かの記憶に残っているからこそ、アイデンティティを見い出せるのだ。
 もし、全ての人の記憶から消えてしまったならば、それこそが本当の意味の死だ。あらゆる人の記憶から消えた瞬間に、その人の存在は消えてしまう。
 そして今、世界は彼女の記憶を消そうとしている。存在を消そうとしている。
 海殊が出会った琴葉という女の子を……否定しようとしているのだ。

(ふざけるなよ、ちくしょう!)

 海殊は琴葉の手を強く握って、手の感触と手のひらから伝わってくる体温を感じながら、部屋の天井を睨みつけた。

(例えお前が琴葉を拒絶したとしても……俺だけは絶対に忘れない。こいつの存在を、消すわけにはいかない。俺にとって何よりも大切なこいつを……消されて堪るか!)

 一度手を離して、琴葉の小さな頭を自分の方に抱え込む。
 柔らかくてサラサラした髪の感触を脳裏に刻み込む為に何度も撫でて、その香りをも忘れない様に鼻腔へと流し込んでいく。
 琴葉はくすぐったそうにしていたが、海殊の方に身体を擦り寄せる事で彼の気持ちに応えていた。
 日が暮れるまで、二人はずっとそうして互いの存在を感じ合っていた。