それから夜までの間、海殊と琴葉は夏を満喫した。
昼食を食べた後はコテージを出て、周囲の森を散策。琴葉は蛇や虫を見てキャーキャー騒いだり、小川に足を浸しながら気持ちいいと言ったり、野生の兎を見つければ可愛いと顔を輝かせたりしていた。色とりどりの自然と同じくらい多彩に輝く彼女の顔を見ていると、海殊はそれだけで幸せな気持ちになれた。
それと同時に、この時間はそう長くは続かないのだろうと心の何処かで感じてしまって、泣きたくもなってしまう。それだけは琴葉に悟られまいと、普段より大袈裟に喜んだり驚いたりしてみせて、夏を精一杯満喫してみせた。彼女と過ごすこの夏だけは、絶対に忘れないに。
夕暮れになってコテージに戻ると、二人でインスタントな夕食を食べる。
本当は琴葉に何か作ってもらった方が絶対に美味しいのだが、もう多くは望まない。彼女と一緒に食事を摂れるだけでも、今の海殊にとっては幸せだったのだ。そうした食事をしている間にも、いつ終わるかわからないこの時間を少しでも良いから長引かせてくれと何かに祈っていた。
ちなみに、春子には『今日は外泊する。琴葉も一緒だから心配しないでくれ』とだけメッセージを送ってある。今の彼女にとって『琴葉』が認識できるかどうかわからないが、これはせめてもの抗いだった。
こうしてメッセージに残しておけば、琴葉という存在が残ってくれるのではないか、春子が琴葉を思い出してくれるのではないか……そんな淡い希望を抱いてのものだった。
「天気良いし、外出て見ない? 流れ星見えるかも!」
二人ともシャワーを浴び終えて、夜の九時を過ぎたあたりだ。髪を乾かし終えた琴葉が、唐突にそんな提案をした。
このあたりは一切の街灯がないので、コテージの電気さえ消してしまえば外の明かりは一切なくなる。山の上でもあるので、きっと夜空が綺麗に見えるだろう。
「お、それいいな。俺、流れ星見た事ないんだよ」
「実は私も。今夜見れるといいね」
二人は笑みを交わし合って、電気を消してから外に出た。
七月の下旬でもう夏なのに、外はクーラーが不要なくらい涼しくて気持ちが良い。都会人は田舎をバカにする傾向があるが、こうした空があるなら田舎も悪いものではないと思わされた。
コテージの前の芝生に二人して並んで寝っ転がって、真っ暗な世界から夜空を見上げた。
「わ、ぁ……凄く綺麗」
隣の琴葉が感嘆の声を上げた。
「ああ。凄いな。星に手が届きそうだ」
海殊は無意識にその星空に向けて手を伸ばしていた。
都会から見るより空が近くて、なんだかもう少し手が長ければその星が掴み取れそうな気分になってくる。夜空から星が降ってきている様にひとつひとつの星々がくっきりと見えていて、それぞれ輝いていた。
「あれがデネブでしょ? あっちがアルタイルで、それでこっち側にあるのがベガ」
琴葉が夏の大三角をそれぞれ指差して言った。
「なんか昔流行った曲の歌詞みたいだな」
海殊達が小学生くらいの頃に流行った楽曲だった。どこにいっても流れていたので、そのフレーズには聞き覚えがあったのだ。
「えへへ、バレた?」
悪戯げに微笑んで、琴葉は海殊の手をそっと握った。その手を握り返して、夜空を眺める琴葉の横顔を盗み見る。
琴葉はご機嫌な様子で、その楽曲の鼻歌を歌っていた。彼女の鼻歌を聞きながら、視線の先を横顔から夜空へと戻す。
「……私の事、もう全部判ってるんだよね?」
鼻歌が途切れたかと思うと、琴葉が唐突にそう訊いてきた。
「いや……俺が知ってるのは、君が水谷琴葉じゃなくて、二年前まで同じ学年だった柚木琴葉って事だけかな」
海殊は少し躊躇したが、そう答えて続けた。
「後は……その柚木琴葉が事故に遭って以降、ずっと眠り続けてるって事くらい」
「それ、殆ど全部知ってるって事だよ」
少し茶化した様子で、琴葉が笑った。
今もまだ右手には琴葉の手があって、彼女の感触がある。それにほっと海殊は小さく安堵の息を吐いた。この話題を出したからと行って、唐突に彼女が消えてしまうといった事はなさそうだ。
「いや、全然判ってないよ。お前がもし病院で寝ているなら……俺が毎日話していて、今こうして触れているお前は何なんだよ」
ずっと心に秘めていた疑問を、遂に口に出す。
これを実際に言うのは、少し勇気が必要だった。だが、琴葉からこの話題を出したという事は、もう話してくれる気になったという事だろう。
琴葉は「ごめんね」と前置いてから続けた。
「何で私がここにいるのかは……正直、自分でもわからないの」
「わからない?」
「うん……ずっと、夢を見てて。毎日夢を見てて……でも、そうして夢を見る時間もどんどん減っていって。きっとこのまま行くと、私は消えちゃうんだろうなって……思ったの」
琴葉曰く、事故に遭って以降は毎日眠っている時間と夢と現実の狭間の様な状態を交互に繰り返していたのだと言う。感覚的にいうと、ノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返している状態が近いそうだ。
レム睡眠の様な状態になった時、彼女は自分の意識や思考を自覚できて、自分が生きているのだと実感できたそうだ。その状態の時にはうっすらと母親の声が聞こえている事もあって、彼女なりに精一杯身体を動かして自分が生きている事を伝えていたのだという。
しかし、どこまでが現実でどこまでが夢なのか、眠ったままの少女は理解ができなかった。彼女にとってはそれが毎日の繰り返しで、時間の概念もなかったらしい。
しかし、ある時を境に、そんな彼女の毎日に異変が生じた。所謂意識がある状態の時でも、その意識に白い靄がかかり始めたのだ。その靄は日に日に濃くなっていき、それが濃くなるにつれ、自分の意識がどんどん薄れていくのを感じたのだと言う。
海殊はその話を聞きながら、それが明穂の言う『容態が悪くなってきた』状態なのだろうな、と察した。
「それで……私、願ったの」
「願った?」
「うん……もう少しだけ時間が欲しいって。ほんの少しでいいから、希望を下さいって……強く、神様に念じたの」
そう念じて強い光を感じた後、気付くとあの場所にいたのだという。即ち、海殊と出会ったあの公園だ。海殊が彼女に話し掛けたのは、それから間もない事だったらしい。
そこで彼女は初めて自分がこの世界に存在していて、誰かに認識された事を実感したのだそうだ。
(そっか……それで、あの時泣いてたのか)
初めて琴葉と話した日の事を思い出して、納得する。
彼女は海殊に話し掛けられると、唐突に涙していた。当時はその理由がわからなかったが、今ならわかる。あれこそが自分が誰かに見えていて、誰かと接する事ができると実感できた瞬間だったのだ。
夢だと思っていた事が、夢ではなかったと実感できた時だったのである。
「それで……実はね、今私はこっちで起きている時に寝ていて、こっちで眠るとあっちで起きているの」
「え? どういう事?」
「つまり……解りやすく言うと、ノンレム睡眠の時が今の私って事」
琴葉の説明によると、こちらで起きている時は本体が寝ていて、こちらが寝ている時に本体が起きているのだという。
「だから、こっちの体が目覚める度、毎日安心して泣きそうになってた。まだ私はここにいていいんだって……でも」
最近になってまた靄が濃くなったの──琴葉はそう付け足した。
彼女自身、どういう原理でこの現象が起きているのかはわかっていない。いわば、これは完全な奇跡だ。だが、その奇跡もいつまでも続くわけではない。この靄の存在が、彼女にそれを教えていた。
靄が濃くなっていって、彼女の本体の意識が薄まれば薄まっていく程、こっちの身体が弱っていくのだという。それが顕著となったのがここ数日だ。
靄が濃くなると、琴葉から遠い順──親しくない順──に見えにくくなっていって、覚えている人も徐々に少なくなっていった。そして、遂には今日、よく話していた祐樹達や春子にも見えなくなり、彼らの記憶からも消えてしまったのである。
「でも、今のお前は少し調子が良いじゃないか。回復している兆しなんじゃないか?」
駅を降りてからくらいだろうか。琴葉の調子は、今朝よりも大分良くなっていた様に思う。
森の中の獣道も普通に歩けたし、握力も戻っている。朝は手を握り返す事すら殆どできていなかったが、今ではしっかりと手を握り返してくれている。海殊からみれば、回復している様にも思えるのだ。
しかし、琴葉は首を横に振る。
「多分ね……今は、風前の灯火なんだと思う。もうすぐ消えちゃうってわかってるから……もう後先考えずに、海殊くんとの時間を楽しみたいって。それが今の私が、一番したい事なんだと思う。でも……」
そこで、ぐすっと鼻を鳴らしたかと思うと、声が潤んだ。
「琴葉?」
慌てて身体を起こして隣を見ると、そこには泣きじゃくる琴葉の姿があった。
「海殊くんに忘れられるのは、やだ……やだよ」
涙声でそう言った時、遂には我慢の限界に達したのだろう。琴葉は海殊の身体に縋りつく様にして、啼泣した。
誰かの記憶から抜け落ち始めた時から、そして誰かの視界に映らなくなり始めてから、彼女はずっとそれを恐怖していたのだろう。誰に言えるわけでもない。もし海殊に言おうものなら、それは自分がこの世ならざる存在だと言ってしまう事になる。
その間、本体が弱っていくのを感じながら、そしてこちらの自分の存在が薄れていくのを感じながら、その恐怖に耐えていたのだ。たった独りで、その孤独と恐怖に耐えていたのである。
そして、今……それを話したのはきっと、いつまでこの姿を保っていられるのか、彼女自身もうわからないからだ。
「嫌だ……そんなの嫌だ! お前の事、忘れたくねえよ……!」
海殊の瞳からも涙が零れ落ちていた。ただその細い体を抱き締めて、彼女の体温を感じて、例え無理だとわかっていても、その存在を脳裏に刻む事しかできなかった。
「こんなに誰かの事を好きになったのなんて、初めてなんだ……ずっと一緒にいたいって思ったの、初めてなんだよ。なあ琴葉、頼むよ……傍に、いてくれよ」
無理だとわかっていた。
なぜなら、今ここにいる琴葉は……本当の琴葉ではないからだ。人ならざる者によって奇跡が齎されて、夢の中の彼女が現れているだけに過ぎないのである。
「私だって……忘れて欲しくない。離れたくない。こんなにも海殊くんの事、好きなのに……大好きなのに!」
琴葉は海殊の首根っこに腕を回して、哭しながら続けた。
「好きな人と過ごせる毎日を手に入れたのに……こんな夢みたいな生活を手に入れたのに。どうして私だけこうなるの……!? どうして……? ねえ、誰か教えてよ……!」
流涕しながら誰かに哀訴する琴葉を、海殊はただ抱き締めてやる事しかできなかった。自身も落涙で咽びながら、ただ泣きじゃくる彼女の髪を撫でてやる。ただただ己の無力さを呪う事しかできなかった。
だが、人なる者に人ならざる者の事などわかるはずがない。ましてや、どの様な原理で彼女がここにいるのかさえわからないのだ。不条理の中にある不条理など、誰に訴え掛ければいいのかさえわからない。
二人は互いを抱き締め合いながら、この不幸を呪い、歔欷するしかなかったのである。夏の夜空の下、二人はそれから暫く啼泣していた。それ以外に何もできる事がなかったからだ。
「ねえ……海殊くんは、誰かとキス、した事ある……?」
二人の啼泣がすすり泣きに変わった頃だった。琴葉が顔を上げて、海殊に訊いた。
「……あるわけないだろ。年齢=カノジョいない歴だぞ」
そう言ってやると、彼女はくすっと笑った。
「よかった……私も同じ」
「知ってる。本の中の恋愛にしか興味なかったんだろ?」
「もう。人の過去を詮索しないでよ。恥ずかしい」
琴葉は少し怒った顔を作ったものの、すぐに顔を綻ばせた。
「何かの本で読んだけど、男の子ってファーストキスの相手は一生憶えてるっていうじゃない? あれってほんとかな……?」
「さあ……」
海殊は何も返せなかった。したことがないのだから、わかるはずがない。
だが、その話は海殊もどこかで聞いた事があった。何かの小説だったかもしれないし、映画かもしれない。或いは、別の媒体の可能性もある。
「じゃあさ……試してみない?」
涙で潤ませた瞳で、おそるおそる琴葉が上目で海殊を見つめて言った。
「試す?」
「うん。ファーストキスの相手なら忘れないのかどうか……私達で試してみるの」
まるで、子供みたいな提案。藁にも縋りたいというのは、まさしくこういった状況を指すのだろう。今の彼らにはそんな事しか縋れるものがなかったのだ。
「こんな可愛い子と初めてのキスをしたら、忘れるわけがない」
「ほんとかなぁ」
「絶対に忘れない。絶対だ」
琴葉の目を見据えて、しっかりとそう宣言してみせる。
無駄な抵抗かもしれない。その時がきたら忘れてしまうのかもしれない。だが、何か一つでも強く印象に残る事があれば、覚えていられる可能性もあるのではないだろうか。それならば、その一縷の望みに賭けてみたい。
いや……そうではない。海殊はただ、彼女と過ごした証が欲しかったのだ。彼女と過ごしたこの時間を覚えていたいし、彼女が存在した証が欲しいのである。
目を合わせて、お互いに相手をじっと見つめる。
夏の夜空がその綺麗な瞳に反射しいていて、いつも輝いている瞳がより輝いて見えた。
どちらともなく顔を寄せて……二人の唇が重なる。一度してからは、止まらなかった。何度も何度も唇を重ね合わせて、記憶の隅々にまでその存在を刻み込んでいく。
初めてのキスの味は、予想外にしょっぱかった。二人の涙がまじりあっていたせいだ。
だが、それでも二人の口付けは止まらなかった。一回一回のキスの味、感触、息遣い、体温、それら全てを脳裏に刻んで行く。
それから暫くの時を経て、唇を離した時に、琴葉は涙を流しながらこう言った。
「私の事……ちゃんと憶えててね?」
昼食を食べた後はコテージを出て、周囲の森を散策。琴葉は蛇や虫を見てキャーキャー騒いだり、小川に足を浸しながら気持ちいいと言ったり、野生の兎を見つければ可愛いと顔を輝かせたりしていた。色とりどりの自然と同じくらい多彩に輝く彼女の顔を見ていると、海殊はそれだけで幸せな気持ちになれた。
それと同時に、この時間はそう長くは続かないのだろうと心の何処かで感じてしまって、泣きたくもなってしまう。それだけは琴葉に悟られまいと、普段より大袈裟に喜んだり驚いたりしてみせて、夏を精一杯満喫してみせた。彼女と過ごすこの夏だけは、絶対に忘れないに。
夕暮れになってコテージに戻ると、二人でインスタントな夕食を食べる。
本当は琴葉に何か作ってもらった方が絶対に美味しいのだが、もう多くは望まない。彼女と一緒に食事を摂れるだけでも、今の海殊にとっては幸せだったのだ。そうした食事をしている間にも、いつ終わるかわからないこの時間を少しでも良いから長引かせてくれと何かに祈っていた。
ちなみに、春子には『今日は外泊する。琴葉も一緒だから心配しないでくれ』とだけメッセージを送ってある。今の彼女にとって『琴葉』が認識できるかどうかわからないが、これはせめてもの抗いだった。
こうしてメッセージに残しておけば、琴葉という存在が残ってくれるのではないか、春子が琴葉を思い出してくれるのではないか……そんな淡い希望を抱いてのものだった。
「天気良いし、外出て見ない? 流れ星見えるかも!」
二人ともシャワーを浴び終えて、夜の九時を過ぎたあたりだ。髪を乾かし終えた琴葉が、唐突にそんな提案をした。
このあたりは一切の街灯がないので、コテージの電気さえ消してしまえば外の明かりは一切なくなる。山の上でもあるので、きっと夜空が綺麗に見えるだろう。
「お、それいいな。俺、流れ星見た事ないんだよ」
「実は私も。今夜見れるといいね」
二人は笑みを交わし合って、電気を消してから外に出た。
七月の下旬でもう夏なのに、外はクーラーが不要なくらい涼しくて気持ちが良い。都会人は田舎をバカにする傾向があるが、こうした空があるなら田舎も悪いものではないと思わされた。
コテージの前の芝生に二人して並んで寝っ転がって、真っ暗な世界から夜空を見上げた。
「わ、ぁ……凄く綺麗」
隣の琴葉が感嘆の声を上げた。
「ああ。凄いな。星に手が届きそうだ」
海殊は無意識にその星空に向けて手を伸ばしていた。
都会から見るより空が近くて、なんだかもう少し手が長ければその星が掴み取れそうな気分になってくる。夜空から星が降ってきている様にひとつひとつの星々がくっきりと見えていて、それぞれ輝いていた。
「あれがデネブでしょ? あっちがアルタイルで、それでこっち側にあるのがベガ」
琴葉が夏の大三角をそれぞれ指差して言った。
「なんか昔流行った曲の歌詞みたいだな」
海殊達が小学生くらいの頃に流行った楽曲だった。どこにいっても流れていたので、そのフレーズには聞き覚えがあったのだ。
「えへへ、バレた?」
悪戯げに微笑んで、琴葉は海殊の手をそっと握った。その手を握り返して、夜空を眺める琴葉の横顔を盗み見る。
琴葉はご機嫌な様子で、その楽曲の鼻歌を歌っていた。彼女の鼻歌を聞きながら、視線の先を横顔から夜空へと戻す。
「……私の事、もう全部判ってるんだよね?」
鼻歌が途切れたかと思うと、琴葉が唐突にそう訊いてきた。
「いや……俺が知ってるのは、君が水谷琴葉じゃなくて、二年前まで同じ学年だった柚木琴葉って事だけかな」
海殊は少し躊躇したが、そう答えて続けた。
「後は……その柚木琴葉が事故に遭って以降、ずっと眠り続けてるって事くらい」
「それ、殆ど全部知ってるって事だよ」
少し茶化した様子で、琴葉が笑った。
今もまだ右手には琴葉の手があって、彼女の感触がある。それにほっと海殊は小さく安堵の息を吐いた。この話題を出したからと行って、唐突に彼女が消えてしまうといった事はなさそうだ。
「いや、全然判ってないよ。お前がもし病院で寝ているなら……俺が毎日話していて、今こうして触れているお前は何なんだよ」
ずっと心に秘めていた疑問を、遂に口に出す。
これを実際に言うのは、少し勇気が必要だった。だが、琴葉からこの話題を出したという事は、もう話してくれる気になったという事だろう。
琴葉は「ごめんね」と前置いてから続けた。
「何で私がここにいるのかは……正直、自分でもわからないの」
「わからない?」
「うん……ずっと、夢を見てて。毎日夢を見てて……でも、そうして夢を見る時間もどんどん減っていって。きっとこのまま行くと、私は消えちゃうんだろうなって……思ったの」
琴葉曰く、事故に遭って以降は毎日眠っている時間と夢と現実の狭間の様な状態を交互に繰り返していたのだと言う。感覚的にいうと、ノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返している状態が近いそうだ。
レム睡眠の様な状態になった時、彼女は自分の意識や思考を自覚できて、自分が生きているのだと実感できたそうだ。その状態の時にはうっすらと母親の声が聞こえている事もあって、彼女なりに精一杯身体を動かして自分が生きている事を伝えていたのだという。
しかし、どこまでが現実でどこまでが夢なのか、眠ったままの少女は理解ができなかった。彼女にとってはそれが毎日の繰り返しで、時間の概念もなかったらしい。
しかし、ある時を境に、そんな彼女の毎日に異変が生じた。所謂意識がある状態の時でも、その意識に白い靄がかかり始めたのだ。その靄は日に日に濃くなっていき、それが濃くなるにつれ、自分の意識がどんどん薄れていくのを感じたのだと言う。
海殊はその話を聞きながら、それが明穂の言う『容態が悪くなってきた』状態なのだろうな、と察した。
「それで……私、願ったの」
「願った?」
「うん……もう少しだけ時間が欲しいって。ほんの少しでいいから、希望を下さいって……強く、神様に念じたの」
そう念じて強い光を感じた後、気付くとあの場所にいたのだという。即ち、海殊と出会ったあの公園だ。海殊が彼女に話し掛けたのは、それから間もない事だったらしい。
そこで彼女は初めて自分がこの世界に存在していて、誰かに認識された事を実感したのだそうだ。
(そっか……それで、あの時泣いてたのか)
初めて琴葉と話した日の事を思い出して、納得する。
彼女は海殊に話し掛けられると、唐突に涙していた。当時はその理由がわからなかったが、今ならわかる。あれこそが自分が誰かに見えていて、誰かと接する事ができると実感できた瞬間だったのだ。
夢だと思っていた事が、夢ではなかったと実感できた時だったのである。
「それで……実はね、今私はこっちで起きている時に寝ていて、こっちで眠るとあっちで起きているの」
「え? どういう事?」
「つまり……解りやすく言うと、ノンレム睡眠の時が今の私って事」
琴葉の説明によると、こちらで起きている時は本体が寝ていて、こちらが寝ている時に本体が起きているのだという。
「だから、こっちの体が目覚める度、毎日安心して泣きそうになってた。まだ私はここにいていいんだって……でも」
最近になってまた靄が濃くなったの──琴葉はそう付け足した。
彼女自身、どういう原理でこの現象が起きているのかはわかっていない。いわば、これは完全な奇跡だ。だが、その奇跡もいつまでも続くわけではない。この靄の存在が、彼女にそれを教えていた。
靄が濃くなっていって、彼女の本体の意識が薄まれば薄まっていく程、こっちの身体が弱っていくのだという。それが顕著となったのがここ数日だ。
靄が濃くなると、琴葉から遠い順──親しくない順──に見えにくくなっていって、覚えている人も徐々に少なくなっていった。そして、遂には今日、よく話していた祐樹達や春子にも見えなくなり、彼らの記憶からも消えてしまったのである。
「でも、今のお前は少し調子が良いじゃないか。回復している兆しなんじゃないか?」
駅を降りてからくらいだろうか。琴葉の調子は、今朝よりも大分良くなっていた様に思う。
森の中の獣道も普通に歩けたし、握力も戻っている。朝は手を握り返す事すら殆どできていなかったが、今ではしっかりと手を握り返してくれている。海殊からみれば、回復している様にも思えるのだ。
しかし、琴葉は首を横に振る。
「多分ね……今は、風前の灯火なんだと思う。もうすぐ消えちゃうってわかってるから……もう後先考えずに、海殊くんとの時間を楽しみたいって。それが今の私が、一番したい事なんだと思う。でも……」
そこで、ぐすっと鼻を鳴らしたかと思うと、声が潤んだ。
「琴葉?」
慌てて身体を起こして隣を見ると、そこには泣きじゃくる琴葉の姿があった。
「海殊くんに忘れられるのは、やだ……やだよ」
涙声でそう言った時、遂には我慢の限界に達したのだろう。琴葉は海殊の身体に縋りつく様にして、啼泣した。
誰かの記憶から抜け落ち始めた時から、そして誰かの視界に映らなくなり始めてから、彼女はずっとそれを恐怖していたのだろう。誰に言えるわけでもない。もし海殊に言おうものなら、それは自分がこの世ならざる存在だと言ってしまう事になる。
その間、本体が弱っていくのを感じながら、そしてこちらの自分の存在が薄れていくのを感じながら、その恐怖に耐えていたのだ。たった独りで、その孤独と恐怖に耐えていたのである。
そして、今……それを話したのはきっと、いつまでこの姿を保っていられるのか、彼女自身もうわからないからだ。
「嫌だ……そんなの嫌だ! お前の事、忘れたくねえよ……!」
海殊の瞳からも涙が零れ落ちていた。ただその細い体を抱き締めて、彼女の体温を感じて、例え無理だとわかっていても、その存在を脳裏に刻む事しかできなかった。
「こんなに誰かの事を好きになったのなんて、初めてなんだ……ずっと一緒にいたいって思ったの、初めてなんだよ。なあ琴葉、頼むよ……傍に、いてくれよ」
無理だとわかっていた。
なぜなら、今ここにいる琴葉は……本当の琴葉ではないからだ。人ならざる者によって奇跡が齎されて、夢の中の彼女が現れているだけに過ぎないのである。
「私だって……忘れて欲しくない。離れたくない。こんなにも海殊くんの事、好きなのに……大好きなのに!」
琴葉は海殊の首根っこに腕を回して、哭しながら続けた。
「好きな人と過ごせる毎日を手に入れたのに……こんな夢みたいな生活を手に入れたのに。どうして私だけこうなるの……!? どうして……? ねえ、誰か教えてよ……!」
流涕しながら誰かに哀訴する琴葉を、海殊はただ抱き締めてやる事しかできなかった。自身も落涙で咽びながら、ただ泣きじゃくる彼女の髪を撫でてやる。ただただ己の無力さを呪う事しかできなかった。
だが、人なる者に人ならざる者の事などわかるはずがない。ましてや、どの様な原理で彼女がここにいるのかさえわからないのだ。不条理の中にある不条理など、誰に訴え掛ければいいのかさえわからない。
二人は互いを抱き締め合いながら、この不幸を呪い、歔欷するしかなかったのである。夏の夜空の下、二人はそれから暫く啼泣していた。それ以外に何もできる事がなかったからだ。
「ねえ……海殊くんは、誰かとキス、した事ある……?」
二人の啼泣がすすり泣きに変わった頃だった。琴葉が顔を上げて、海殊に訊いた。
「……あるわけないだろ。年齢=カノジョいない歴だぞ」
そう言ってやると、彼女はくすっと笑った。
「よかった……私も同じ」
「知ってる。本の中の恋愛にしか興味なかったんだろ?」
「もう。人の過去を詮索しないでよ。恥ずかしい」
琴葉は少し怒った顔を作ったものの、すぐに顔を綻ばせた。
「何かの本で読んだけど、男の子ってファーストキスの相手は一生憶えてるっていうじゃない? あれってほんとかな……?」
「さあ……」
海殊は何も返せなかった。したことがないのだから、わかるはずがない。
だが、その話は海殊もどこかで聞いた事があった。何かの小説だったかもしれないし、映画かもしれない。或いは、別の媒体の可能性もある。
「じゃあさ……試してみない?」
涙で潤ませた瞳で、おそるおそる琴葉が上目で海殊を見つめて言った。
「試す?」
「うん。ファーストキスの相手なら忘れないのかどうか……私達で試してみるの」
まるで、子供みたいな提案。藁にも縋りたいというのは、まさしくこういった状況を指すのだろう。今の彼らにはそんな事しか縋れるものがなかったのだ。
「こんな可愛い子と初めてのキスをしたら、忘れるわけがない」
「ほんとかなぁ」
「絶対に忘れない。絶対だ」
琴葉の目を見据えて、しっかりとそう宣言してみせる。
無駄な抵抗かもしれない。その時がきたら忘れてしまうのかもしれない。だが、何か一つでも強く印象に残る事があれば、覚えていられる可能性もあるのではないだろうか。それならば、その一縷の望みに賭けてみたい。
いや……そうではない。海殊はただ、彼女と過ごした証が欲しかったのだ。彼女と過ごしたこの時間を覚えていたいし、彼女が存在した証が欲しいのである。
目を合わせて、お互いに相手をじっと見つめる。
夏の夜空がその綺麗な瞳に反射しいていて、いつも輝いている瞳がより輝いて見えた。
どちらともなく顔を寄せて……二人の唇が重なる。一度してからは、止まらなかった。何度も何度も唇を重ね合わせて、記憶の隅々にまでその存在を刻み込んでいく。
初めてのキスの味は、予想外にしょっぱかった。二人の涙がまじりあっていたせいだ。
だが、それでも二人の口付けは止まらなかった。一回一回のキスの味、感触、息遣い、体温、それら全てを脳裏に刻んで行く。
それから暫くの時を経て、唇を離した時に、琴葉は涙を流しながらこう言った。
「私の事……ちゃんと憶えててね?」