家に帰るまでの道のりは、無言だった。ただ手を繋いで、家に帰るしかなかった。気の利いた言葉など浮かんできやしない。
こうして琴葉と手を繋いで帰るのは、初めてデートをした時以来だ。あの時は手を繋いでいるだけでドキドキして、甘酸っぱい気持ちに覆われていた。
それが今では、切なさと虚しさと、この現象を創り出している誰かへの怒りしかなかった。どうしてこんな想いをしなくちゃいけないんだという理不尽さ、どうしてこんなに彼女を苦しめるんだという怒り、それらが海殊の胸のうちを覆っていた。
「あ、おかえりー……って、終業式にしては早くない?」
家の玄関扉を開けると、丁度今夜勤から帰ってきたらしい春子が出迎えてくれた。
今靴を脱いだところといった様子で、いきなり玄関が開いたので驚いている様子だった。
「母さんもお帰り。まあ、終業式だし、別に出なくてもいいかなって」
海殊は微苦笑を浮かべて答えた。
「ほう、あの真面目な海殊クンがおさぼりねえ? まあ、いいんじゃない? あんた真面目過ぎたから、それくらいの方がお母さんは安心よ」
春子は笑みを浮かべて、そう言った。
母親のいつも通りさに海殊は安堵の息を吐いた時だった。
「あ、良い事思い付いたわ!」
春子が唐突に明るい声を上げて、振り向いた。
「せっかく海殊も学校サボった事だし、久々に"親子水入らずで"ランチでも行こっか? お母さん車借りてきちゃうわよ?」
「えっ……?」
思わず、声を詰まらせた。
海殊の隣には、今も変わらず琴葉がいる。しかし、春子は琴葉の方を見向きもせず『親子水入らずで』と言った。
海殊と同じ期間だけ琴葉と過ごした春子にさえ、もう琴葉は見えていなかったのだ。
「母さん……一個だけ訊いていい?」
「ん? なあに? どっか行きたい場所でもあるの?」
「いや……そうじゃなくてさ。俺の隣に、誰かいる?」
息子の不自然な言葉に、春子は一瞬固まった。
そして、彼の左右を見ては怪訝そうに首を傾げる。
「ん? それは何かの謎かけ? あ、夜勤明けだからって心配してるなー? 大丈夫大丈夫、お母さんこう見えて身体は──」
「ごめん、母さん。今日はやめとくよ。母さんはゆっくり休んで」
海殊は母の言葉を遮ると、琴葉の手を引いて再び玄関扉から出て行った。
そのまま彼女の手を引いて、駅に向かう。
琴葉は何も言わずにただ俯いて、海殊の後をついてきていた。駅前に着くと、ATMでお金を三万程引き出す。春子から毎月いくらか小遣いを渡されているが、本代以外は殆ど使い道がなくて、貯金に回していた。昨年の夏にしたバイト代もまだ全然余っているし、数日どこかに行ける分くらいの貯金はあった。
「……どこ、行くの?」
三千円程パスモにチャージをしている海殊を見て、琴葉が訊いた。
「どこか……ここじゃない場所」
こうとしか答えようがなかった。
どこか明確に行先があるわけではない。ただ、ここから離れたかった。琴葉の存在を否定するかの様なこの場所から、ただただ離れたかったのだ。
そのまま彼女の手を引いて、駅の改札に入っていく。皮肉な事に、二人で同時に改札を潜っているのに誰も不自然には思わなかったし、駅員どころか改札機も反応しなかった。
とりあえず山梨方面の電車に乗った。東京から遠く離れた場所で、できるだけ人が少ない場所、いや、どこか二人きりになれる場所に行きたかった。
他に誰も人がいなくて、二人きりで過ごせる場所なら周囲の目を気にしなくていいはずだ。もう自分だけが琴葉を見えていたなら、それでいい──海殊はその様に考えていた。
まだ朝の通勤時刻だからか、下り電車にも関わらず多かった。海殊は琴葉が乗客に押しつぶされないように、必死に隙間を作って彼女を守って見せる。もしかすると、他の乗客からすれば、一人で踏ん張って車両の隅っこにスペースを作っている謎の高校生に見えているのかもしれない。
しかし、そんな周囲の目はどうでもよかった。海殊にとっては目の前に大切な女の子がいて、その子を守る事など当たり前だったからだ。
「無理しなくていいよ」
琴葉は力なく、そして申し訳なさそうにそう言った。
だが、海殊は何も聞き入れなかった。無理などしてるつもりはなかったからだ。むしろ、今の彼にとっては一番やりたい事がそれだったのである。
大きな市駅を超えたあたりで人はぐっと減り、ようやく座席に腰掛ける事ができて、一息吐く。繋いでいない方の手でスマートフォンを取り出し、画面をタップしてみると、春子や祐樹達から心配のメッセージがいくつか届いていた。
「……ごめんね」
隣の琴葉が唐突に謝った。何に謝っているのかわからなかった。
「謝るな。お前は……何も悪くないだろ」
海殊はそう答えて、メッセージ欄を閉じてからブラウザを起動する。
どこか二人で過ごせそうな場所を探す必要があったからだ。
「俺は……諦めないから。絶対、諦めないから」
何を諦めないのか……それは、もう海殊自身もわからなかった。
だが、この不条理な世界に対してだけは抗いたかった。
例えこの世界が琴葉を拒絶したとしても、自分だけは彼女の隣に立っていたかったのである。
こうして琴葉と手を繋いで帰るのは、初めてデートをした時以来だ。あの時は手を繋いでいるだけでドキドキして、甘酸っぱい気持ちに覆われていた。
それが今では、切なさと虚しさと、この現象を創り出している誰かへの怒りしかなかった。どうしてこんな想いをしなくちゃいけないんだという理不尽さ、どうしてこんなに彼女を苦しめるんだという怒り、それらが海殊の胸のうちを覆っていた。
「あ、おかえりー……って、終業式にしては早くない?」
家の玄関扉を開けると、丁度今夜勤から帰ってきたらしい春子が出迎えてくれた。
今靴を脱いだところといった様子で、いきなり玄関が開いたので驚いている様子だった。
「母さんもお帰り。まあ、終業式だし、別に出なくてもいいかなって」
海殊は微苦笑を浮かべて答えた。
「ほう、あの真面目な海殊クンがおさぼりねえ? まあ、いいんじゃない? あんた真面目過ぎたから、それくらいの方がお母さんは安心よ」
春子は笑みを浮かべて、そう言った。
母親のいつも通りさに海殊は安堵の息を吐いた時だった。
「あ、良い事思い付いたわ!」
春子が唐突に明るい声を上げて、振り向いた。
「せっかく海殊も学校サボった事だし、久々に"親子水入らずで"ランチでも行こっか? お母さん車借りてきちゃうわよ?」
「えっ……?」
思わず、声を詰まらせた。
海殊の隣には、今も変わらず琴葉がいる。しかし、春子は琴葉の方を見向きもせず『親子水入らずで』と言った。
海殊と同じ期間だけ琴葉と過ごした春子にさえ、もう琴葉は見えていなかったのだ。
「母さん……一個だけ訊いていい?」
「ん? なあに? どっか行きたい場所でもあるの?」
「いや……そうじゃなくてさ。俺の隣に、誰かいる?」
息子の不自然な言葉に、春子は一瞬固まった。
そして、彼の左右を見ては怪訝そうに首を傾げる。
「ん? それは何かの謎かけ? あ、夜勤明けだからって心配してるなー? 大丈夫大丈夫、お母さんこう見えて身体は──」
「ごめん、母さん。今日はやめとくよ。母さんはゆっくり休んで」
海殊は母の言葉を遮ると、琴葉の手を引いて再び玄関扉から出て行った。
そのまま彼女の手を引いて、駅に向かう。
琴葉は何も言わずにただ俯いて、海殊の後をついてきていた。駅前に着くと、ATMでお金を三万程引き出す。春子から毎月いくらか小遣いを渡されているが、本代以外は殆ど使い道がなくて、貯金に回していた。昨年の夏にしたバイト代もまだ全然余っているし、数日どこかに行ける分くらいの貯金はあった。
「……どこ、行くの?」
三千円程パスモにチャージをしている海殊を見て、琴葉が訊いた。
「どこか……ここじゃない場所」
こうとしか答えようがなかった。
どこか明確に行先があるわけではない。ただ、ここから離れたかった。琴葉の存在を否定するかの様なこの場所から、ただただ離れたかったのだ。
そのまま彼女の手を引いて、駅の改札に入っていく。皮肉な事に、二人で同時に改札を潜っているのに誰も不自然には思わなかったし、駅員どころか改札機も反応しなかった。
とりあえず山梨方面の電車に乗った。東京から遠く離れた場所で、できるだけ人が少ない場所、いや、どこか二人きりになれる場所に行きたかった。
他に誰も人がいなくて、二人きりで過ごせる場所なら周囲の目を気にしなくていいはずだ。もう自分だけが琴葉を見えていたなら、それでいい──海殊はその様に考えていた。
まだ朝の通勤時刻だからか、下り電車にも関わらず多かった。海殊は琴葉が乗客に押しつぶされないように、必死に隙間を作って彼女を守って見せる。もしかすると、他の乗客からすれば、一人で踏ん張って車両の隅っこにスペースを作っている謎の高校生に見えているのかもしれない。
しかし、そんな周囲の目はどうでもよかった。海殊にとっては目の前に大切な女の子がいて、その子を守る事など当たり前だったからだ。
「無理しなくていいよ」
琴葉は力なく、そして申し訳なさそうにそう言った。
だが、海殊は何も聞き入れなかった。無理などしてるつもりはなかったからだ。むしろ、今の彼にとっては一番やりたい事がそれだったのである。
大きな市駅を超えたあたりで人はぐっと減り、ようやく座席に腰掛ける事ができて、一息吐く。繋いでいない方の手でスマートフォンを取り出し、画面をタップしてみると、春子や祐樹達から心配のメッセージがいくつか届いていた。
「……ごめんね」
隣の琴葉が唐突に謝った。何に謝っているのかわからなかった。
「謝るな。お前は……何も悪くないだろ」
海殊はそう答えて、メッセージ欄を閉じてからブラウザを起動する。
どこか二人で過ごせそうな場所を探す必要があったからだ。
「俺は……諦めないから。絶対、諦めないから」
何を諦めないのか……それは、もう海殊自身もわからなかった。
だが、この不条理な世界に対してだけは抗いたかった。
例えこの世界が琴葉を拒絶したとしても、自分だけは彼女の隣に立っていたかったのである。