「よっ、海殊!」
「おはよー滝川」

 登校中に、後ろから唐突に声が掛けられた。祐樹の声だ。クラスメイトの二人もいた。いつもの三バカ大集合である。

「お、おはよう」

 海殊は緊張した面持ちで、挨拶を返す。
 隣の琴葉は恥ずかしそうに顔を伏せていた。通学中に朝っぱらから手を繋いでいるのだ。それも当然である。

「いよいよ高校最後の夏休みだなぁ」
「あーあ、また彼女無しで夏休みだよ」
「いや、夏休み中に彼女ができる事もあるから! 大学生のお姉さんが筆おろししてくれたりだとか!」
「そうだ! 夏のアバンチュールは諦めちゃいけないぜ!」

 そんな会話を交わしながら、海殊の横に並んで三人が歩き出した。
 隣の琴葉には一切目もくれず、高校最後の夏休みに託す夢をそれぞれが語っていた。

(あ、れ……?)

 何か、嫌な予感がした。
 無意識のうちに、琴葉の手を強く握っていた。手から脂汗が出ていないか、不安になってくる。
 いつもなら、もし朝の通学中にこうして出くわせば、「琴葉ちゃんおはよー」「あー、いいなぁ。俺も可愛い後輩と通学してえ」だのと文句を垂れていた彼らが、一切何も触れてこない。
 これは、とても不自然な事だった。

「まー、海殊は国公立志望だもんな。恋愛どころじゃねえか」

 祐樹が呆れた様な笑みを浮かべて、海殊を見た。
 そこには何の皮肉や嫌味もなく、ただ純粋に大変そうだという気持ちでそう言っていた様に思えた。
 琴葉は顔を伏せているので、どんな表情かはわからない。ただ、先程よりも歩く速度がゆっくりになっていた。それがただ歩くのが困難というわけではない事は海殊にもわかった。

「おい……何、言ってんだよ」

 海殊はどうしようもない絶望感に苛まれながらも、そう声を絞りだしていた。

「あん? どうした?」
「国公立じゃなかったっけ?」

 友人達が立ち止まって、怪訝そうに海殊を見る。隣の彼女には、一切の目線もくれないで。

「お前ら、冗談で言ってんだよな?」

 声が震えていた。信じたくない気持ちと、理不尽な怒り、それから恐れ。色んな感情が海殊の中から溢れ出てきていた。

「は? 何が?」

 祐樹が眉を顰めて、首を傾げる。

「俺が最近受験よか恋愛に忙しいの、知ってんだろ。後輩の彼女がいて……一緒に飯食ったりとかして、嫉妬したりして。デートの心得とか、鬱陶しいくらいに語ってきたりさ……してたじゃねえかよ……!」

 ここ数週間、昼休みは五人で過ごしていた事が多かった。海殊に会いに来た琴葉をとっ捕まえて、一緒に食べようと祐樹が誘ったのが切っ掛けだった。
 そこで琴葉が海殊の恋人だと嘯いてから、学校では海殊と琴葉は付き合っている事になっていた。海殊も悪い気はしなくて、それを否定した事はなかった。
 海殊を色恋男と散々(なじ)ってきた三人だ。それを知らないはずがないのである。
 しかし──

「はッ!? え!? 海殊、彼女いんの!?」
「しかも後輩!? いつの間に!?」
「ふざけんなよ、紹介しろよテメェ!」

 三人は驚き、そして怒り始めた。
 彼らの驚きや怒りはあまりに頓珍漢で、海殊からすれば場違いだ。
 その頓珍漢さが許せなくて、怒りに打ち震える。いや、怒りというより、ただただ現実を認めたくないだけなのかもしれない。

「ふざけてんのはお前らだろ! 俺の隣にいるだろ、琴葉が! 朝っぱらから手ぇ繋いでさ! お前ら、そんな俺をからかってんのか!? ああ!?」

 繋がれた手を掲げて、見せてやる。白くて綺麗な手が、そこには確かにあるはずなのだ。海殊はその柔らかで華奢な手の感触を、しっかりと感じているのだから。
 隣の琴葉が小さな声で「もういいよ」と呟いていたが、何も良くなかった。こんな事が、許されていいはずがなかったのだ。
 だが、三人はぽかんとしたまま、不思議そうに海殊を見ていた。そして、三人ともが気まずそうに顔を見合わせて、申し訳なさそうにこう言った。

「お前……一人で手ぇ上げて、いきなりどうした?」
「エア彼女?」
「いや、海殊。さすがにお前の真面目キャラでそれは笑えねえって」

 何とか三人は面白おかしそうに冗談で済ませようとしていた。というより、本当に海殊を心配している様だ。そこには一切の悪気は感じなかった。
 だらんと、繋がれた手が落ちる。
 琴葉は俯いたまま何も言葉を発さなかった。海殊も何も言葉を発せなかった。
 もう彼らは……琴葉を覚えていないどころか、彼女の事が見えてすらいなかったのだ。

「糞ッ!」

 海殊はどうしようもなく腹が立ってきてしまって、そのまま彼女の手を引いて学校とは反対側へ行く。
 琴葉が海殊の名を呼び、そして三人の友人達も同じく彼の名を呼んだ。だが、彼は足を止める事なく、それらを無視して今来た道を戻っていった。

(ふざけるな、ふざけるな……ふざけるなよ!)

 繋いだ手からは、確かに彼女の感触を感じるのに。それなのに、彼らにはその存在が認識できないのだ。
 それはもしかすると、明穂が言っていた琴葉の容態が悪化している事が関係しているのかもしれない。
 だが、これではまるで、琴葉がこの世界から拒絶されているみたいではないか。そうやって拒絶するなら、どうして彼女がここにいるのだと、彼女をこの世界に戻した"誰か"に強い怒りを覚えた。あまりに理不尽で、あまりに可哀想ではないか。

「ねえ、待って! どこ行くつもりなの? 学校、こっちじゃないよ?」
「帰る。ふざけんなってんだ。あんな場所……お前が否定される様な場所なんて、行ってられるか!」
「海殊くん……」

 海殊の強い言葉に、琴葉はくしゃっと顔を歪ませて、それを隠す様に俯いた。肩を震わせて、鼻を啜らせている。

「俺は……俺は、ちゃんとお前の事、見えてるから。覚えてるから。絶対に……絶対に!」

 海殊も泣きたい気持ちになっていた。
 でも、もっと泣きたいのはきっと彼女の方だ。ここで自分が泣くわけにはいかない、と何とか涙腺に力を込める。
 琴葉は海殊の言葉に、少しだけ手を強く握る事で応えた。きっと彼女にとっては精一杯握り返したつもりなのだろう。その弱々しさが、より一層切なさを強めていた。