【WEB版】夏の終わり、透明な君と恋をした

「どうしたんですか……?」
「いえ、すみません……実は」

 ここ最近、娘の容態が良くないんです──明穂はそう続けて、鼻を啜った。
 どくん、と海殊の胸が跳ね上がった。嫌な跳ね上がり方で、何だか不安感がどんどん胸中を覆っていく。
 琴葉の具合が悪くなってきたのは、二週間前。もともと昏睡状態だったのだが、反応がなくなってこのまま目を醒まさないかもしれない、と担当医から説明を受けたのだと言う。

「それって……」
「はい……復帰の見込みがもうないかもしれない、と言われました」
「そん、な……」

 その言葉を聞いた瞬間、海殊の両腕から力がへにゃりと抜けていった。今日こうした絶望を味わうのは、何度目だろうか。もう勘弁してくれと言いたかった。
 これまでは話し掛けていれば何かしら反応を返してくれていたのだが、その反応が日に日に薄れていっているのだと言う。そして、その反応が全くなくなってしまったのが、二週間前……それは奇しくも、海殊と琴葉が出会った頃合いと一致していた。

「それで、考えて下さいって……お医者様からも言われて」
「考えるって……?」
「これ以上の延命治療は、と……」

 明穂は敢えて言葉を濁していた。これに関しては医師もかなり言葉を濁していたそうだ。
 延命治療と尊厳死の問題は、現代医療に於いてもかなり際どい問題だ。医師によっても死生観は異なる上に、宗教的な概念の問題も出てくる。
 だが、延命する以上は入院費もかかるし、ただ生きながらえるだけという問題でもない。生命を維持させるには最低限必要な水分や栄養補給も必要であるし、生命維持装置も必要だ。そこには保護者の負担というものがある。ただ生きながらえて欲しいという気持ちだけではどうにもならない事もあるのだ。

「あの子、高校に入ったらたくさん青春するんだって、言ってたんです。本だけじゃなくて、遊びも恋愛も、もっと色々経験したいって……それなのに、どうしてあの子がッ」

 明穂は両手で顔を覆って、静かにすすり泣いた。
 海殊はそれに対して、何の言葉も掛けてやれなかった。いや、彼は別の事を考えていたのだ。
 どうして琴葉はその状況になってから、海殊の前に現れたのだろうか、と。ただ、その説明も、今の明穂の言葉で説明がつく。
 未練や後悔──そして、それらを払拭する為の、最後の足掻き。琴葉があの日現れたのは、そういった目的があったのではないだろうか。もう自らの意思や自我がそう長く保てないと悟って、最後の抵抗を試みているのでないだろうか。
 無論、そんな確証はない。琴葉にその自覚があるのかさえわからなかった。
 ただ、もしそうなら、彼女の未練を拭い去ってやれるのは、自分だけなのではないか──海殊はその様にも考えていた。
 それから暫く、明穂は静かに泣いていた。きっと、この人はずっとこうして一人で泣いているのだろう。その姿を見ていれば、医師が提案するのもわからなくはない。きっと、もう自分の人生を生きた方が良い、とその医師は明穂に言いたかったのではないだろうか。
 海殊は何も言えず、ただテーブルの上にある紅茶を睨みつける事しかできなかった。どんな言葉を発しても慰めにならない事はわかっていたし、どんな言葉を用意しても自分の心を慰められないのがわかっていたからだ。

「滝川さん、って言いましたっけ……」

 暫く歔欷(きょき)していた明穂が落ち着いたかと思えば、唐突にそう話し出した。

「あなたの御蔭で……決心できました」
「え?」

 決心とは"どっちの"決心だろうか。どうして自分がその決心に関係するのか、さっぱりわからなかった。
 海殊は彼女の言葉の続きを待った。望まぬ方の決心を言われた場合、どう反応すれば良いのかわからなかった。止める権利が自分にあるのかなど、わかるはずもない。しかし、最悪の決断だけは辞めて欲しい。
 暫くの沈黙の後、明穂が言葉を紡いだ。

「まだ娘をそうして覚えてくれている人がいるなら……一縷の望みがあるのなら、最後の最後まであの子を信じてみようって……そう、思いました」
「……そうですか」

 海殊は大きく息を吐いた。無論、安堵の息だ。
 正解に辿り着いた途端それを終わらされてしまうのでは、堪ったものではない。
 まだ、琴葉の自我や意識は残っている。それが完全に消えたわけではない事を、彼だけが知っていた。
 ならば、できる事がまだあるはずなのだ。せめてそれをやり尽くして、海殊も琴葉と同じく足掻きたい。

「あ、滝川さん。失礼な事をお伺いしてもよろしいですか?」
「はい、何でしょう?」
「滝川さんは、娘……琴葉に好意を持っていたり、しますか?」

 その言葉に海殊は一瞬息を詰まらせた。この質問の答え次第で、未来が大きく変わる気がしたからだ。
 だが、彼の答えなど、決まっている。決まっているからきっと、彼は今この場に辿り着いたのだ。
 海殊は大きく深呼吸してから、明穂の顔をしっかりと見据えた。

「はい……俺は、琴葉さんの事が好きです。一目惚れでした」

 自分で自分を鼓舞する為に、そして覚悟する為に、はっきりと答えた。明穂はそれに対して「まあっ」と嬉しそうに笑っていた。
 そう、きっと一目惚れだ。夜の公園で独りで雨に打たれている、どこか浮世離れしていた彼女を公園で見掛けた瞬間に、海殊は恋に落ちていたのだ。
 あの儚く消えてしまいそうな少女を守ってあげたい──きっと、そう思っていたのだと思う。だから彼はあの晩、彼女を放っておけなかったのだ。
 それに、自ら決意する以外に、きっとこの言葉は明穂にとっても支えになると思うのだ。自分と同じく娘の帰りを待つ者がいると解れば、彼女も踏ん張れるのではないか。いや、踏ん張ってもらわなければ困るのである。まだ諦めていない琴葉の為にも。
 それからほんの少しだけ会話を交わして、海殊は柚木家を出た。手には、病院名と病室番号が書かれた紙が握られている。

『これから病院にいくつもりなんですけど、一緒にお見舞いにいきますか?』

 あの後、明穂からそう尋ねられた。
 海殊は迷った。会って見たい気持ちは確かにある。だが同時に、何か嫌な予感がしたのだ。
 ここで実体(ホンモノ)に会ってしまったら、今家にいる琴葉はどうなってしまうのだろうか。もしかすると、自分も祐樹達の様に琴葉を忘れてしまうのではないだろうか。そんな危惧を抱いたのだ。
 少しだけ悩んで、結局海殊は断った。
 今海殊が知っている琴葉は、"その琴葉"ではない。ならば、まずは"彼の知る琴葉"を幸せにしよう。そう思ったのである。
 結果、海殊は「まだ心の準備ができていないから」と答えた。これも無論、嘘偽りない本音だ。まだ実体(ホンモノ)に会う心の準備はできていなかったのである。
 明穂はその答えを聞くと、このメモ書きを書いて彼に渡した。

『気が向いたら来てやって下さいね。あの子も喜ぶと思いますから』

 それに対して、海殊は『いつか、必ず』と返した。
 それから柚木家を少し離れたところで、彼は鞄の中から一冊の新しい本を取り出した。
 本のタイトルは『記憶の片隅に』で、以前琴葉と見に行った映画の原作だ。以前は図書館で読んだものだったので、もう一度読み直そうと新しいものを買い直したのである。
 その本の真ん中に、明穂から貰ったメモをしっかりと挟み込む。
 
(ここに入れておけば、まあ無くさないだろ)

 本をパタンと閉じて、もう一度鞄に仕舞う。
 いつか覚悟ができた時、もう一度この本を開こう。その時こそ、本物の琴葉と会う時だ。
 海殊は陰鬱な気持ちで家路を歩いていた。
 予想していたよりも早く、そして容易に真実には迫れた。だが、これを知ってしまって良かったのだろうか。そんな疑問が頭の中に思い浮かぶのだ。
 彼がここ数週間毎日過ごして、人生に喜びを感じていたものの正体──それは、非現実的なものだった。正直、今の今も信じ切れていない。
 だが、信じざるを得なかった。今彼が共に過ごしている水谷琴葉は、二年前事故に遭って以降昏睡している柚木琴葉だった。それは教師の話と柚木琴葉の母の話からも明らかだ。
 そして、彼女は今この瞬間も眠っていて、消えゆく自我と意識と戦っている。自分を残そうと必死に足掻いているのだ。

(そんな事を知らされて……どうしろって言うんだよ!)

 もしフィクション世界の主人公であれば、ここで何か能力に目覚めて彼女を救えるのかもしれない。奇跡を起こせるのかもしれない。
 しかし、海殊はただの人間だ。神でもなければ何か特殊能力があるわけでもない。消えつつある彼女の意識を救う手立てもなければ、眠り姫を起こせる奇跡を持ち合わせているわけでもないのだ。
 結局何をどうすればいいのかわからないまま、家の前に着いてしまった。気持ちの整理も、現実を受け入れ切れているわけでもない。
 今のまま琴葉と会って、どんな顔をすればいいのだろうか。
 ただ、放課後に職員室に行って片っ端から一年の担任に質問して回って、その後に琴葉の実家にも寄っていたので、もう結構いい時間だ。これ以上遅くなると、琴葉にも心配させてしまうだろう。
 海殊は大きく溜め息を吐いてから、自分の手のひらでぱちっと両頬を叩いた。

(しっかりしろ、滝川海殊。俺なんかより、琴葉はもっと大変なんだ。あいつがまだ諦めてないのに、俺が諦めてどうする)

 そう自分を叱咤激励してから表情を引き締めて、家を睨みつけた。
 ここからは自分との戦いでもある。きっと、これから辛い事が起きるだろう。それでもその現実と向き合えるだろうか?
 そう自問自答してから、「当たり前だろ」と答えてみせる。
 その覚悟をしたからこそ、海殊は琴葉の母に『あなたの娘が好きです』と赤面ものの告白をしてきたのだ。琴葉の為にも、その母の為にも、向き合って乗り越えなければならないのである。

「……よし、行くぞ。俺は普通、俺は普通」

 海殊は深呼吸して可能な限り普通に琴葉と接せれる様に自己暗示をかけてから、玄関扉を開いた。

「あっ、やっと帰ってきた。海殊くん、おかえり」

 玄関扉を開いてすぐに彼を迎えてくれたのは、子猫のきゅーちゃんを抱っこしている琴葉だった。
 彼女を見た瞬間に瞳の奥から何かが込み上げてきそうになったが、それを気合で止める。

「遅かったね。晩御飯どうしようかと思ってたの」

 私もうお腹ぺこぺこだよ、と付け足して琴葉は眉を下げた。
 今日は春子の帰りが遅いので、先に二人で食べておいて欲しいと連絡がきていた。その事は琴葉も知っているので、既に食事の準備を終えているのだろう。いい匂いが玄関の方まで漂ってきている。
 海殊は彼女に気付かれない様に小さく深呼吸すると、口角を上げてみせた。

「ごめんごめん、ちょっと色々長引いちゃってさ。着替えてくるから、すぐに飯食っちゃおう」

 靴を脱いでから家に上がると、琴葉が抱きかかえる子猫の頭を撫でてやる。
 その拍子に彼女と目が合った。彼女の青みがかった綺麗で大きな瞳は、じっと海殊を見上げている。
 そんな彼女を見てしまったからだろうか。海殊の手は、子猫の頭から自然と琴葉へと移っていて、無意識に彼女の頬を撫でていた。

「海殊くん……?」

 少し驚いた様な表情をしていたが、琴葉は振り払ったり身を捩ったりはしなかった。
 化粧っ気のない琴葉の肌は殻を剥いたゆで卵みたいに綺麗で、ぷるぷるしている。それなのに薄ピンクの唇からは妙な色気を感じてしまって、心がぎゅっと締め付けられた。

(こんなに……こんなにはっきりと感触を感じられるのに。こいつは……!)

 一度固めたはずの涙腺がまた緩みそうになって、思わず彼女の頬から手を離す。

「……どうしたの?」

 いつもならしない行動の数々に、さすがに琴葉も不審に思ったのだろう。心配そうに海殊を見つめていた。

「いや。何でもないよ。お前の肌、すっげー綺麗だからさ。前から実は触ってみたかったんだ」

 どこのチャラ男だ、と自分で自分に突っ込みながらも、海殊はそう嘯いた。いや、前から触れてみたかったというのは嘘ではないのだけれど。
 琴葉はその海殊らしからぬ言葉にぷっと吹き出した。

「もう、やだ。海殊くんのえっち」
「悪い、衝動に逆らえなかった」
「いきなり過ぎて、心臓停まりそうになったよ」
「じゃあ、今度は前もって許可を得よう」
「そういう問題じゃないよっ!」

 そんなやり取りをしてから互いに笑い合う。
 まるで恋人の様なやり取り。でも、どこかぎこちなくて、互いが互いに気遣い合っている様な感覚。本当の恋人になれたならば、こんなぎこちなさもなくなるのだろうか。

「琴葉」

 二人の笑いが収まると、海殊は小さく息を吐いてから彼女の名を呼んだ。

「なあに?」
「もうすぐ夏休みだろ。行きたい所とか、やりたい事とかないか? もしあるなら、そこ行こう」
「海殊くん……」

 琴葉は息を飲んで、そんな海殊をじっと見据えていたが、すぐに顔を綻ばせた。

「えっと、じゃあ……」

 彼女はそう言ってきゅーちゃんを降ろすと、ぱたぱたとリビングに行ってから、すぐに戻ってきた。手にはチラシがある。

「これ、行きたい」

 そう言って、そのチラシを海殊に手渡す。
 それは毎年七月の終盤に開催されている大きな花火大会のチラシだった。海殊は行った事はないが、祐樹達は毎年行っているらしい。

「……わかった。行こう」

 海殊は柔らかく微笑んで、頷いて見せた。
 人混みが嫌いなので、本当は花火大会は苦手だ。だが、いつまで琴葉と過ごせるかはわからない。
 琴葉が生身の人間であるならこんな事は気にしないのだが、彼女は海殊が思っている以上に不安定な存在だ。明穂の話から察する限り、朝起きたらいきなりいなくなっている、という事だって有り得るのである。
 それならば……彼女の望みを叶えてあげたい。それぐらいしか、今の自分にできる事など思い浮かばなかった。

「やった! どうせなら浴衣着たいな。おばさん、持ってないかな?」
「どうだろう? もしかしたら持ってるかも。訊いておくよ」

 人混みは嫌いだ。花火大会なんて死んでも行きたくないと思っていた。
 しかし、琴葉の楽しみにしている表情を見ていると、そんな花火大会にも行きたいと思えてしまう。
 それが不思議で、そんな自分の変化が面白くて、でもそんな時間はいつまでも続かないかもしれないと思うと、やっぱり寂しかった。
「母さん、琴葉と花火見に行く事になったんだけど、浴衣ってある?」

 春子が仕事から帰ってくるなり、海殊はそう母に尋ねた。
 恥ずかしがり屋だと思っていた息子が臆面もなく唐突にそんな事を訊いたので、母は何も言わず息子の額と自分の額に手を当て、熱を比べたものだった。
 母親のこの行動には少し苛立ちと恥ずかしさを覚えたが、琴葉が面白そうにくすくす笑っていたので、何とか堪える事はできた。その笑顔の為なら何でもいいか、と思える様になっていたのである。

「あたしが昔着ていたのでいいなら、押し入れの奥にあるわよ。クリーニングに出しておいてあげるわね」

 息子のそんな様子を見て、春子は呆れた様に笑うとそう言った。
 明日クリーニングに出せばおそらくギリギリ花火の日には間に合うだろうとの事だ。
 母が押し入れから浴衣を出してきて、実際にその浴衣を見せると、柄や色合いが琴葉の好みだったらしく、彼女も大いに喜んでいた。

「着付けは一人でできる? あたし、その日は仕事が入ってるから……」
「帯を通すだけのタイプですよね? これなら大丈夫です!」

 二人が居間で浴衣を広げて、そんなやり取りをしていた。
 青を基調とした少し大人っぽい浴衣だが(実際に大人が着ていたものなのでそれも仕方ないが)、きっと琴葉なら何を着ても似合うだろう。
 昔は春子も今より大分細かった様で、サイズも細身の琴葉とぴったりだった。

「母さん、今その浴衣着たらはち切れるでしょ」
「あんた、ぶっ殺すわよ」

 親子で憎まれ口を叩き合っている中、琴葉は嬉しそうに二人の言い合いを眺めていた。
 もし、彼女の母・明穂がこんな光景を見ていたらどう思うだろうか。海殊は唐突にそんな事を考えてしまう様になっていた。
 今も毎日、娘の復活を信じて病院に通う彼女。きっと、明穂も娘とこんなやり取りをしたかったのだと思う。
 柚木家の中には、至る所に琴葉の面影があった。きっと見るのも辛いだろう。
 しかし、それでも彼女は娘がまたこの家で暮らすと信じて、当時のままに残してあるのだ。できれば、彼女にも琴葉と会わせてやりたい。しかし、二人はきっと、会えないのだ。それは琴葉が家に帰らず海殊の家にいる事が証明していた。
 そこに関して、海殊ができる事はほぼない。家に連れて帰ろうとしても琴葉は嫌がるだろうし、無理矢理連れて帰ったところでもし明穂に彼女が見えなければ、心に傷を負うのは自分だ。
 こうして琴葉を楽しませてやりつつ、彼女の回復を願う他ないのだ。

(いや、俺も楽しみたいのかな。琴葉と過ごす時間を)

 女性に体型の事を言うのはどうの、と春子と一緒になって海殊に文句を言う琴葉を見ながら、海殊はそんな事を考えるのだった。

       *

 この日を境に海殊の中では何かが変わった。とにかく今を一生懸命生きる様になったのだ。
 すぐにできる事はすぐにやって、何でも即断即決即行動が主となっていた。それはきっと、いつ"その時"が訪れるかわからないからだろう。明日死ぬつもりで行動しろ、というのは色々な人が言っているが、まさしくこの時の海殊は、そんな気分だったのである。
 その翌日から、海殊は行動的になっていた。というより、琴葉が喜びそうな事の為なら行動的になった、という表現が正しい。
 学校帰りにゲームセンターに寄ったり、ショッピングに出掛けたりした。図書館に行って二人で閉館時間まで二人で本を読んだり、たまには漫画でも、という事で漫画喫茶にも行った。
 漫画喫茶ではちょっと勇気を出して、カップルシートというものを利用してみた。琴葉は『カップルシート』という響きとそのブースの狭さに最初は恥ずかしがっていたけれど(否応なしに身体が触れ合う距離になるのだ)、途中からは海殊の方に身体を預けて、二人で寝ころびながら漫画を見ていた。
 琴葉が身じろぎする度に身体が触れ合って、ふわりと彼女の香りが鼻を擽る度にドキドキしていた。自分の心臓の音が彼女に聞こえてしまうのではないかと不安になった程だ。
 ただ、それは彼女も同じな様で、恥ずかしそうにちらちらと海殊の方を見ていた。そんな彼女が愛おしかった。
 こうしてカップルシートを利用してはいるが、無論琴葉とは付き合っているわけではないし、それらしい事は最初のデートで手を繋いで以来していない。ただ、こうしていると本当に彼氏彼女みたいに思えてきて、不思議だった。海殊に凭れかかってくる琴葉からは、確かに体温も感じたし、重みも感じたのだ。
 家でも春子が帰ってくるまでは二人きりだが、ここまで密着する事はない。家ではどうにも恥ずかしさが先行してしまうのである。
 ただ、それに関して言うと、このカップルシートというのは悪くなかった。ブースは狭いが、壁があるので周りの目を気にする必要がない。誰の目を気にするでもなく、ただ琴葉と過ごす時間を大切にできている気がしたのだ。
 彼女の母・明穂は、琴葉は高校に入ってから青春を謳歌したかったのではないか、と言っていた。それならば、彼女にその青春とやらを経験させてやるのが良い──彼はそう考え至ったのである。
 尤も、彼女より二年長く高校に通っているくせに、青春を経験できていないのは海殊も同じである。これが正しい青春なのかはわからなかったが、思いつく限りの事はやりたかった。
 琴葉が見えているかどうかについては、人それぞれだった。見える人もいれば見えない人もいるが、積極的に海殊が彼女に話し掛けていると、自ずと見えている様だった。
 だが、一日、また一日と日が経つにつれて、見えない人の方が増えてきている様に感じた。海殊が独り言を話している様に思われているらしく、怪訝な目で見られる事もあったのだ。
 だが、祐樹達友人や春子は普段と変わらなかった。彼らには琴葉がちゃんと見えていて、いつも通り接してくれていたのだ。それだけが海殊の支えだった。
 琴葉も自身の異常に関しては察しているだろう。自分の存在が見えなかった時、いつも気まずそうにしている。だが、それを気にさせない様に海殊はいつも明るく振舞っていた。
 琴葉とて、真実を言わないのはきっと言いたくないからだ。或いはそれを言ってしまうと、もしかすると彼女自身が今の状態を保てなくなってしまうのかもしれない。
 それならば、見える人達とだけで彼女が日常を楽しく過ごせればいい──そう考えていた。
 しかし……そんな日は、そう長くは続かなかった。
 翌日に終業式を控えた日の夜だった。台所で琴葉が夕飯を作っている時、からん、と菜箸が落ちる音がした。
 これだけなら、特に気にする必要もなかった。ただ、それから何度も同じ音が聞こえてきたのだ。
 心配になって台所を覗きに行くと、彼女は自分の右手を唖然とした表情で見ていた。その右手はぷるぷると痙攣していて、何度も握ったり開いたりしているが、力が全く入っていない。

「……琴葉?」
「な、何でもない! 何でも……ないから」

 琴葉は海殊がいる事に気付いて、慌てて床に落ちた菜箸を拾おうとするが、手に持った瞬間、菜箸は指の隙間からするりと落ちていた。
 それはまるで、握力がほとんどなくなってしまっている様だった。菜箸を持つ事ができないのだ。

「あ、あれ? お、おかしいなぁ……今日、体育で右手首ぐねっちゃったからかな? さっきまで大丈夫だったんだけど……」

 琴葉は何とか焦りを隠して笑顔を作っているが、無理をしているのは明らかだった。

(弱って……いってるのか)

 琴葉の容態が悪くなっていっている、と彼女の母・明穂は言っていた。
 そして今思い返してみれば、登下校中も何もないところで躓く事が今日は多かった。
 琴葉の"本体"が今、どういった状況なのかはわからない。だが、"この琴葉"が弱っているのは間違いなかった。

「ごめんね、すぐに洗って──」

 気付けば海殊は、菜箸を拾おうと屈んだ琴葉をそっと抱き締めていた。
 思わず泣きたくなってしまったからかもしれない。彼女と過ごす、この夢の様な時間の終わりが近付いてきている事を、感じ取ってしまったのだろう。それを隠す為に、そして彼女の存在を確かめる為にも、彼女に触れていたかったのだ。

「海殊、くん……? どうしたの……?」

 彼女の声は震えていた。
 何かを堪える様にして、言葉を絞り出している様にも思えた。
 こうして触れていれば彼女は確かに存在していて、彼女の体温も重みも感じる事ができる。しかし、実際の彼女は今にも消えてしまいそうな程儚くて、それを思うと海殊も瞼の裏が熱くなって、鼻水まで出てしまいそうだった。

「……大丈夫だから。俺が作るから」

 琴葉の肩を強く抱き締めて、耳元でそう言ってやる。

「でも海殊くん、料理得意じゃないでしょ……?」
「じゃあ、横で指南してくれ。それならきっと、俺でも作れるから」
「うん……わかった」

 そうして琴葉の代わりに菜箸を拾って洗うと、彼女に見守られながら調理を開始した。
 冷凍ご飯があったので、メニューはチャーハンに替えた。あまり難しくないというのと、今の琴葉の握力ではスプーンで食べられる食事の方が良いと思ったからだ。
 それから横で作り方や調味料の塩梅を教えてもらいながら、チャーハンを作った。ただ野菜を刻んで冷凍ご飯と一緒に炒めるだけかと思っていたのだが、手順や調味料の加え方などの工程が思ったよりあって、途中でスマートフォンにメモを取りながら作っていった。
 指導の甲斐あって、遂に琴葉特製チャーハンができた。見るからに絶品だ。匂いだけでも美味しそうなのが伝わってくる。

「「いただきます」」

 二人でチャーハンを食べ始める。さすがに横で付きっ切りで教えてもらった甲斐もあって、そのチャーハンは美味しかった。美味しかったけれど、同時に悲しくて泣きたくなってしまった。
 もう彼女は、料理すら作れないほど弱ってきてしまっているのだ。
 琴葉を盗み見ていると、スプーンであれば問題なく食事は摂れているようだ。だが、この調子でいくとそれすらできなくなってしまう時もくるのではないだろうか。
 きっと、彼女の異変は春子にも気付かれてしまう。その時どう説明すれば良いのだろうか?
 何もかもが未知の体験で、どう物事を進めて、どう解決していいのかすらわからない。完全な八方塞がりだ。
 幸い、春子は夜勤なので朝まで帰ってこない。今夜はまだ琴葉の身体についてはまだ悟られる事はないだろう。

(でも……いつまで隠し通せるんだろうな)

 ぼんやりとテレビを眺めながら、チャーハンを口に運んでいる琴葉を見てふと思う。
 テレビを見ている様で、焦点は合っていない。ただぼーっとそこにあるものを見ているだけ、という感じだ。
 明日の夜はおそらく、三人で食事を取るだろう。その際もスプーンかフォークで食べるメニューでないと厳しい。
 だが、それが何日も続くとさすがに怪しまれる。それに、十七年もの間彼の母親をやっている人物でもある。隠し通せるとは思えなかった。

「……? あ、海殊くんの作ったチャーハン美味しいよ?」

 ふとこちらの視線に気付いて、琴葉はいつも通りの笑顔を見せた。
 きっと今、彼女自身不安で仕方ないのだろう。それにも関わらず、彼女は海殊に笑顔を向けてくれている。そんな彼女が愛しくて堪らなかった。

「これから得意料理はチャーハンって言う事にするよ」
「うん。この味なら免許皆伝しちゃう」

 二人でそんな言葉と笑顔を交わして、食事を続けた。
 このチャーハンの味だけは守りたい……何となくだが、海殊はその様に考えていた。

       *

「あ、そういえばさ、風呂とか大丈夫か?」

 食後に食器を洗っている最中、海殊が隣の琴葉に訊いた。
 琴葉が洗おうとしたので、それを止めて彼が洗っている。今の彼女の握力では、お皿を落とし兼ねないからだ。
 琴葉は不満がったが、洗い終えた食器を拭いてもらう事で合意を得て、今に至る。彼女はテーブルの上にお皿を置いてから、左手の布巾で拭いている。かなり不便そうだ。

「え? 大丈夫って?」
「いや、髪とか洗えんのかなって……手、痛いんだろ?」
「それくらいなら大丈夫だよ。左手も使えるし……って、もしかして、一緒にお風呂入ろうとしてた?」
「は、はあ!? ちち、ちがッ!?」

 思わぬ質問返しに、海殊は狼狽えた。
 全くそういうつもりで訊いたのではないが、そう捉えられても仕方がない質問だ。

「えっち」
「違うって! 純粋に心配してだなッ」
「えー? ほんとかなぁ」

 悪戯げに笑う琴葉はどこか楽しそうで、何とか暗くなりそうな雰囲気を吹き飛ばそうと、無理に明るく振舞っている様でもあった。
 それから暫くそれをネタにからかわれた。本当に心配損である。
 だが──会話の終わりに、彼女が小さく「ごめんね」と呟いていたのを海殊は聞き逃さなかった。
 一学期の終業式──それは、海殊が高校生活に於いて二度と『一学期』というものを迎える事がない事を意味していた。高校生で、いや、人生で『一学期』と呼べるものは、二度と味わう事がないのである。
 そんな事も相まって、終業式はもう少し感慨深いものでもあるのかなと思っていたが……実際には特にいつもと変わらなかった。それよりももっと大切なものが、今の彼にはあったからだ。
 幸い、春子は夜勤が長引いているのか、朝になっても帰ってきていなかった。朝方、海殊のスマートフォンに『まだ帰れない』と動物が泣いているスタンプが届いていたところを見ると、帰るのはもう少し後だろう。
 春子は職業柄何かトラブルが舞い込んでいると、それの対応で帰れない事が屡々ある。その度にこうしてスタンプを送ってくるのだ。可哀想だなとは思うが、そういった職を選んでしまったのだから仕方がない。
 そして、春子がそうした職についてくれているからこそ、海殊は何不自由なく暮らせているのだ。海殊は寝起きに『頑張って』とだけ返して、スマートフォンの画面を消した。
 激励の言葉とは裏腹に、今日ばかりは少し春子の不幸に助けられたな、と思ってしまっていた。弱りつつある琴葉を見られた時の言い訳をまだ何も考え付いていなかったのだ。
 そして、今のこの海殊と琴葉の光景の言い訳も。

「手を繋いで登校だなんて……なんだかリア充カップルみたいだね?」

 琴葉は繋がれた手を見てそう言った。恥ずかしそうではあるが、同時に嬉しそうでもある。

「……そうしないと、お前転ぶだろ。昨日もよく躓いてたし」
「うん……ごめんね」

 彼女は顔を伏せて、ぽそりとそう謝った。
 その「ごめん」は一体どこに掛かっているのだろうか。一緒に手を繋いで登校せざるを得ない事を言っているのか、いつもよりペースを落として、琴葉が転ばない様に気遣いながら歩いている事なのか、それともそれを想定して、いつもより十分程家を早く出ている事だろうか。或いは、その全てなのかもしれない。

「別に……俺は、ずっとお前とこうして手を繋ぎたかったから。お前の体調が悪いのを利用してるだけだよ」

 海殊は敢えて、一番最初の理由にだけ触れた。これは彼の本音でもあった。
 恋愛経験のなかった彼は、こうして何か理由がないと手を繋ごうとも言い出せなかったのだ。

「そうなんだ……じゃあ、ラッキーかも」
「は? 何が?」
「私も、ずっと繋ぎたかったから」

 彼女ははにかんで、隣の海殊を見上げた。

「……なら、もっと早く言い出せばよかったな」
「うん。ほんとだよ」

 それから二人の会話はなかった。ただ黙って、この数週間二人で歩いた道のりを歩く。
 祐樹達にこの光景を見られると、なんと言われるだろうか?
 手を繋いで登校している事を突っ込まれるのか──とは言え、彼らは二人が付き合っていると思っているのだけれど──琴葉の身体の調子が良くなさそうな事を心配されるのか、どちらだろう?
 本当の事を言うと、琴葉も無理に学校に行く必要はないのだと思う。彼女とそれについて話したわけではないが、おそらく彼女は海殊が授業を受けている間、一人で過ごしている。
 それも当然だ。彼女は一年生ではないし、彼女が過ごしていたクラスなどないのだから、学校で授業を受ける事などできるはずがないのである。きっと、昼休みや放課後までどこかで本を読むなりして時間を潰しているのだろう。身体の具合が悪いならば、無理に登校する必要はない。
 だが、もしその間に消えてしまっていたら──?
 その可能性を鑑みると、恐ろしくなってつい学校へと連れ出したいと思ってしまうのだ。それに、彼女自身も休むという発想はないらしく、海殊が朝声を掛ける前に制服に着替えていた。おそらく彼女も同じ気持ちなのだ。
 全て判っているのだから、いい加減もう話し合ってみればいいのではないか、とも考えた。
 だが、もしそれを言葉にした瞬間に彼女が消えてしまったらどうしよう、と不安になって、海殊からは話し出せずにいた。こればっかりは、琴葉から話し出してもらわないと、海殊にはどうにもならない。
 ちらりと隣の琴葉を見ると、彼女は何とか遅れない様にと必死に歩いている。握られている手は弱々しく、海殊が力を緩めるとするりと抜け落ちてしまいそうだ。

(こんな状況で、何ができるって言うんだよ)

 海殊は内心で舌打ちをして、こんな過酷な状況を生み出した者を強く憎んだ。
 彼女がここにいるのは、まさしく奇跡だ。だが、そうした奇跡の先にあるのに、あまりに過酷ではないか。誰が引き起こしたのかまではわからないが、何とも腹立たしく思うのだ。

(花火大会は、明日だっけか……)

 琴葉が行きたいと言った花火大会。それは、明日の夜に開催される。浴衣もクリーニングされて綺麗になったものが届くだろう。

(それまで、()ってくれ……)

 彼女が望んだ景色を、見せてやる──こうして弱っていっている彼女を見ていると、もうそれしか海殊にはできる事がないように思えた。
「よっ、海殊!」
「おはよー滝川」

 登校中に、後ろから唐突に声が掛けられた。祐樹の声だ。クラスメイトの二人もいた。いつもの三バカ大集合である。

「お、おはよう」

 海殊は緊張した面持ちで、挨拶を返す。
 隣の琴葉は恥ずかしそうに顔を伏せていた。通学中に朝っぱらから手を繋いでいるのだ。それも当然である。

「いよいよ高校最後の夏休みだなぁ」
「あーあ、また彼女無しで夏休みだよ」
「いや、夏休み中に彼女ができる事もあるから! 大学生のお姉さんが筆おろししてくれたりだとか!」
「そうだ! 夏のアバンチュールは諦めちゃいけないぜ!」

 そんな会話を交わしながら、海殊の横に並んで三人が歩き出した。
 隣の琴葉には一切目もくれず、高校最後の夏休みに託す夢をそれぞれが語っていた。

(あ、れ……?)

 何か、嫌な予感がした。
 無意識のうちに、琴葉の手を強く握っていた。手から脂汗が出ていないか、不安になってくる。
 いつもなら、もし朝の通学中にこうして出くわせば、「琴葉ちゃんおはよー」「あー、いいなぁ。俺も可愛い後輩と通学してえ」だのと文句を垂れていた彼らが、一切何も触れてこない。
 これは、とても不自然な事だった。

「まー、海殊は国公立志望だもんな。恋愛どころじゃねえか」

 祐樹が呆れた様な笑みを浮かべて、海殊を見た。
 そこには何の皮肉や嫌味もなく、ただ純粋に大変そうだという気持ちでそう言っていた様に思えた。
 琴葉は顔を伏せているので、どんな表情かはわからない。ただ、先程よりも歩く速度がゆっくりになっていた。それがただ歩くのが困難というわけではない事は海殊にもわかった。

「おい……何、言ってんだよ」

 海殊はどうしようもない絶望感に苛まれながらも、そう声を絞りだしていた。

「あん? どうした?」
「国公立じゃなかったっけ?」

 友人達が立ち止まって、怪訝そうに海殊を見る。隣の彼女には、一切の目線もくれないで。

「お前ら、冗談で言ってんだよな?」

 声が震えていた。信じたくない気持ちと、理不尽な怒り、それから恐れ。色んな感情が海殊の中から溢れ出てきていた。

「は? 何が?」

 祐樹が眉を顰めて、首を傾げる。

「俺が最近受験よか恋愛に忙しいの、知ってんだろ。後輩の彼女がいて……一緒に飯食ったりとかして、嫉妬したりして。デートの心得とか、鬱陶しいくらいに語ってきたりさ……してたじゃねえかよ……!」

 ここ数週間、昼休みは五人で過ごしていた事が多かった。海殊に会いに来た琴葉をとっ捕まえて、一緒に食べようと祐樹が誘ったのが切っ掛けだった。
 そこで琴葉が海殊の恋人だと嘯いてから、学校では海殊と琴葉は付き合っている事になっていた。海殊も悪い気はしなくて、それを否定した事はなかった。
 海殊を色恋男と散々(なじ)ってきた三人だ。それを知らないはずがないのである。
 しかし──

「はッ!? え!? 海殊、彼女いんの!?」
「しかも後輩!? いつの間に!?」
「ふざけんなよ、紹介しろよテメェ!」

 三人は驚き、そして怒り始めた。
 彼らの驚きや怒りはあまりに頓珍漢で、海殊からすれば場違いだ。
 その頓珍漢さが許せなくて、怒りに打ち震える。いや、怒りというより、ただただ現実を認めたくないだけなのかもしれない。

「ふざけてんのはお前らだろ! 俺の隣にいるだろ、琴葉が! 朝っぱらから手ぇ繋いでさ! お前ら、そんな俺をからかってんのか!? ああ!?」

 繋がれた手を掲げて、見せてやる。白くて綺麗な手が、そこには確かにあるはずなのだ。海殊はその柔らかで華奢な手の感触を、しっかりと感じているのだから。
 隣の琴葉が小さな声で「もういいよ」と呟いていたが、何も良くなかった。こんな事が、許されていいはずがなかったのだ。
 だが、三人はぽかんとしたまま、不思議そうに海殊を見ていた。そして、三人ともが気まずそうに顔を見合わせて、申し訳なさそうにこう言った。

「お前……一人で手ぇ上げて、いきなりどうした?」
「エア彼女?」
「いや、海殊。さすがにお前の真面目キャラでそれは笑えねえって」

 何とか三人は面白おかしそうに冗談で済ませようとしていた。というより、本当に海殊を心配している様だ。そこには一切の悪気は感じなかった。
 だらんと、繋がれた手が落ちる。
 琴葉は俯いたまま何も言葉を発さなかった。海殊も何も言葉を発せなかった。
 もう彼らは……琴葉を覚えていないどころか、彼女の事が見えてすらいなかったのだ。

「糞ッ!」

 海殊はどうしようもなく腹が立ってきてしまって、そのまま彼女の手を引いて学校とは反対側へ行く。
 琴葉が海殊の名を呼び、そして三人の友人達も同じく彼の名を呼んだ。だが、彼は足を止める事なく、それらを無視して今来た道を戻っていった。

(ふざけるな、ふざけるな……ふざけるなよ!)

 繋いだ手からは、確かに彼女の感触を感じるのに。それなのに、彼らにはその存在が認識できないのだ。
 それはもしかすると、明穂が言っていた琴葉の容態が悪化している事が関係しているのかもしれない。
 だが、これではまるで、琴葉がこの世界から拒絶されているみたいではないか。そうやって拒絶するなら、どうして彼女がここにいるのだと、彼女をこの世界に戻した"誰か"に強い怒りを覚えた。あまりに理不尽で、あまりに可哀想ではないか。

「ねえ、待って! どこ行くつもりなの? 学校、こっちじゃないよ?」
「帰る。ふざけんなってんだ。あんな場所……お前が否定される様な場所なんて、行ってられるか!」
「海殊くん……」

 海殊の強い言葉に、琴葉はくしゃっと顔を歪ませて、それを隠す様に俯いた。肩を震わせて、鼻を啜らせている。

「俺は……俺は、ちゃんとお前の事、見えてるから。覚えてるから。絶対に……絶対に!」

 海殊も泣きたい気持ちになっていた。
 でも、もっと泣きたいのはきっと彼女の方だ。ここで自分が泣くわけにはいかない、と何とか涙腺に力を込める。
 琴葉は海殊の言葉に、少しだけ手を強く握る事で応えた。きっと彼女にとっては精一杯握り返したつもりなのだろう。その弱々しさが、より一層切なさを強めていた。
 家に帰るまでの道のりは、無言だった。ただ手を繋いで、家に帰るしかなかった。気の利いた言葉など浮かんできやしない。
 こうして琴葉と手を繋いで帰るのは、初めてデートをした時以来だ。あの時は手を繋いでいるだけでドキドキして、甘酸っぱい気持ちに覆われていた。
 それが今では、切なさと虚しさと、この現象を創り出している誰かへの怒りしかなかった。どうしてこんな想いをしなくちゃいけないんだという理不尽さ、どうしてこんなに彼女を苦しめるんだという怒り、それらが海殊の胸のうちを覆っていた。

「あ、おかえりー……って、終業式にしては早くない?」

 家の玄関扉を開けると、丁度今夜勤から帰ってきたらしい春子が出迎えてくれた。
 今靴を脱いだところといった様子で、いきなり玄関が開いたので驚いている様子だった。

「母さんもお帰り。まあ、終業式だし、別に出なくてもいいかなって」

 海殊は微苦笑を浮かべて答えた。

「ほう、あの真面目な海殊クンがおさぼりねえ? まあ、いいんじゃない? あんた真面目過ぎたから、それくらいの方がお母さんは安心よ」

 春子は笑みを浮かべて、そう言った。
 母親のいつも通りさに海殊は安堵の息を吐いた時だった。

「あ、良い事思い付いたわ!」

 春子が唐突に明るい声を上げて、振り向いた。

「せっかく海殊も学校サボった事だし、久々に"親子水入らずで"ランチでも行こっか? お母さん車借りてきちゃうわよ?」
「えっ……?」

 思わず、声を詰まらせた。
 海殊の隣には、今も変わらず琴葉がいる。しかし、春子は琴葉の方を見向きもせず『親子水入らずで』と言った。
 海殊と同じ期間だけ琴葉と過ごした春子にさえ、もう琴葉は見えていなかったのだ。

「母さん……一個だけ訊いていい?」
「ん? なあに? どっか行きたい場所でもあるの?」
「いや……そうじゃなくてさ。俺の隣に、誰かいる?」

 息子の不自然な言葉に、春子は一瞬固まった。
 そして、彼の左右を見ては怪訝そうに首を傾げる。

「ん? それは何かの謎かけ? あ、夜勤明けだからって心配してるなー? 大丈夫大丈夫、お母さんこう見えて身体は──」
「ごめん、母さん。今日はやめとくよ。母さんはゆっくり休んで」

 海殊は母の言葉を遮ると、琴葉の手を引いて再び玄関扉から出て行った。
 そのまま彼女の手を引いて、駅に向かう。
 琴葉は何も言わずにただ俯いて、海殊の後をついてきていた。駅前に着くと、ATMでお金を三万程引き出す。春子から毎月いくらか小遣いを渡されているが、本代以外は殆ど使い道がなくて、貯金に回していた。昨年の夏にしたバイト代もまだ全然余っているし、数日どこかに行ける分くらいの貯金はあった。

「……どこ、行くの?」

 三千円程パスモにチャージをしている海殊を見て、琴葉が訊いた。

「どこか……ここじゃない場所」

 こうとしか答えようがなかった。
 どこか明確に行先があるわけではない。ただ、ここから離れたかった。琴葉の存在を否定するかの様なこの場所から、ただただ離れたかったのだ。
 そのまま彼女の手を引いて、駅の改札に入っていく。皮肉な事に、二人で同時に改札を潜っているのに誰も不自然には思わなかったし、駅員どころか改札機も反応しなかった。
 とりあえず山梨方面の電車に乗った。東京から遠く離れた場所で、できるだけ人が少ない場所、いや、どこか二人きりになれる場所に行きたかった。
 他に誰も人がいなくて、二人きりで過ごせる場所なら周囲の目を気にしなくていいはずだ。もう自分だけが琴葉を見えていたなら、それでいい──海殊はその様に考えていた。
 まだ朝の通勤時刻だからか、下り電車にも関わらず多かった。海殊は琴葉が乗客に押しつぶされないように、必死に隙間を作って彼女を守って見せる。もしかすると、他の乗客からすれば、一人で踏ん張って車両の隅っこにスペースを作っている謎の高校生に見えているのかもしれない。
 しかし、そんな周囲の目はどうでもよかった。海殊にとっては目の前に大切な女の子がいて、その子を守る事など当たり前だったからだ。

「無理しなくていいよ」

 琴葉は力なく、そして申し訳なさそうにそう言った。
 だが、海殊は何も聞き入れなかった。無理などしてるつもりはなかったからだ。むしろ、今の彼にとっては一番やりたい事がそれだったのである。
 大きな市駅を超えたあたりで人はぐっと減り、ようやく座席に腰掛ける事ができて、一息吐く。繋いでいない方の手でスマートフォンを取り出し、画面をタップしてみると、春子や祐樹達から心配のメッセージがいくつか届いていた。

「……ごめんね」

 隣の琴葉が唐突に謝った。何に謝っているのかわからなかった。

「謝るな。お前は……何も悪くないだろ」

 海殊はそう答えて、メッセージ欄を閉じてからブラウザを起動する。
 どこか二人で過ごせそうな場所を探す必要があったからだ。

「俺は……諦めないから。絶対、諦めないから」

 何を諦めないのか……それは、もう海殊自身もわからなかった。
 だが、この不条理な世界に対してだけは抗いたかった。
 例えこの世界が琴葉を拒絶したとしても、自分だけは彼女の隣に立っていたかったのである。
 海殊と琴葉が辿り着いた場所は、山奥にあった素泊まりコテージだった。
 電車での移動中に調べていたところ、価格もそれほど高くなくて、駅からバスでいけるコテージを見つけたのだ。今の海殊の持ち金でも何泊かできる。それに、コテージひとつひとつが離れていて、他の利用客と接触する可能性もなさそうだ。今の海殊達にとってはうってつけの場所だった。
 他の人達に琴葉が見えないのなら、二人きりで過ごして周囲の視線を気にしなくていいという問題もある。
 ただ、明日は琴葉が見たがっていた花火大会があるので、一度家に戻る事になるだろう。その際に、春子にどう話せばいいのか、未だ何も思いついていない。
 だが、今はそんな後先よりも、琴葉と過ごす時間を大事にしたかった。というより、既に現実離れしている問題が生じているのに、後先など考えていられなかった。その時その時になってから、目の前にある問題を解決していくしかないのだ。尤も、今海殊が採っている手段は現実逃避に他ならないのだけれど。
 二人はキャンプ場の最寄駅前にあるスーパーで食べられそうなものを色々買い込んだ。今の琴葉では調理も難しい事から、インスタント食品やスナック菓子、琴葉の好きな甘いお菓子……買い込み過ぎて、二日でも食べきれない程の量になっている。

「こんなに食べたら太っちゃうよ」
「夏だし、ちょっと運動したら痩せるよ」

 そんな会話のやり取りをして、バスに乗り込む。コテージはここからバスで一時間弱だ。
 バスに乗り込む際、運転手が怪訝な顔をして海殊を見ていた。明らかに地元の人間でない者が、"ひとりで話ながら"大量の食べ物を持っているのだ。きっと、彼からすれば気味が悪かっただろう。
 今はそれらに関して、一切気にしない。もうここに来るまでの間、散々変な目で見られたのだ。今更気になるわけがなかった。
 一応であるが、制服で移動するのは色々面倒事もありそうだったので、途中でTシャツだけ買った。下は制服ズボンであるが、上がシャツであればそれほど不審がられる事もないだろう。
 琴葉も何か着るものを買おうかと尋ねると、彼女は物悲しげに微笑んで、首を横に振っただけだった。
 それから、海殊達以外に乗客がいないバスの一番後部座席に座って、琴葉と見える景色についてああだこうだ語らいながら、バス移動を楽しんだ。
 さっきまであった憂鬱な気分はどこかに消えて、何だか駆け落ちをしているみたいでドキドキした。そうして他に誰もいない空間だと、純粋に二人の時間を楽しめたのだ。それは琴葉も同じ様で、先程までの物悲しそうな表情は消えていた。
 およそ一時間近いバス移動を終えた海殊は、受付で料金を先払いして鍵を貰ってから、早速与えられたコテージへと向かう。
 年齢は偽って大学生という事にしたので、そのあたりを疑われる事はなかった。少し大人っぽい雰囲気だったのが功を奏したのかもしれない。
 ただ、一人で人のいないコテージに素泊まりするという点については訝しまれたので『芸大生で、コンクールに出す為のネタを探す為に自然の中に浸りたい』とだけ言っておいた。最近読んだ小説の設定だったが、こう言えば大抵『そんなものか』と思ってくれるので、便利なのだ。
 実際に海殊は芸大生事情などわからないが、それは他の一般人も同じである。芸大生ならそんな事もするのかもしれない、と思ってもらえるというだけである。
 受付がある建物の外で待たせていた琴葉と合流すると、二人でそのままコテージへと向かった。まだ夏休み前だからか人は殆どおらず、コテージまで誰とも会わずに辿り着く事ができた。

「おお……値段の割に本格的なんだな」
「うん、素敵!」

 コテージの中に入ると、海殊と琴葉がそれぞれ感嘆の言葉を漏らした。
 コテージはログハウスになっていて、室内は木の香りで覆われていた。建物は一階建てだが、リビングに風呂、トイレ、台所がある。部屋の隅に布団が三つ程並んでいて、寝床にも困らなさそうだ。ネット回線も繋がっているらしくて、本当にここで生活できてしまえそうだった。

「ちょっとご飯食べたらさ、周りの森探検しにいかない? 色々新しい発見がありそう!」

 琴葉が笑顔で提案してくる。
 さっきまで元気がなかった琴葉だが、バスに乗ってからはややテンションが高い。歩く速度や握力なども戻っていた。
 周囲から人がいなくなってから、琴葉の体調はかなり回復した様に感じる。歩く事や何かを持つ事も苦ではないらしく、受付からコテージまでは一人で歩いていても問題なさそうだった。
 全く原理などわからないが、認識されるべく人が多ければ多いだけ、より彼女の生命力みたいなものが消費されていたのかもしれない。

「ああ。じゃあ、カップ麺食って早速探検しにいくか」
「うん! お湯沸かすね」

 いそいそと準備をし始める琴葉と並んで、一緒に仕度をする。
 なんだか、同棲を開始したカップルみたいで。でも、この時間はそう長くは続かない事も頭の片隅ではわかっていて。
 もしかすると、琴葉もそれがわかっているから、明るく振舞っているのかもしれない。
 それから夜までの間、海殊と琴葉は夏を満喫した。
 昼食を食べた後はコテージを出て、周囲の森を散策。琴葉は蛇や虫を見てキャーキャー騒いだり、小川に足を浸しながら気持ちいいと言ったり、野生の兎を見つければ可愛いと顔を輝かせたりしていた。色とりどりの自然と同じくらい多彩に輝く彼女の顔を見ていると、海殊はそれだけで幸せな気持ちになれた。
 それと同時に、この時間はそう長くは続かないのだろうと心の何処かで感じてしまって、泣きたくもなってしまう。それだけは琴葉に悟られまいと、普段より大袈裟に喜んだり驚いたりしてみせて、夏を精一杯満喫してみせた。彼女と過ごすこの夏だけは、絶対に忘れないに。
 夕暮れになってコテージに戻ると、二人でインスタントな夕食を食べる。
 本当は琴葉に何か作ってもらった方が絶対に美味しいのだが、もう多くは望まない。彼女と一緒に食事を摂れるだけでも、今の海殊にとっては幸せだったのだ。そうした食事をしている間にも、いつ終わるかわからないこの時間を少しでも良いから長引かせてくれと何かに祈っていた。
 ちなみに、春子には『今日は外泊する。琴葉も一緒だから心配しないでくれ』とだけメッセージを送ってある。今の彼女にとって『琴葉』が認識できるかどうかわからないが、これはせめてもの抗いだった。
 こうしてメッセージに残しておけば、琴葉という存在が残ってくれるのではないか、春子が琴葉を思い出してくれるのではないか……そんな淡い希望を抱いてのものだった。

「天気良いし、外出て見ない? 流れ星見えるかも!」

 二人ともシャワーを浴び終えて、夜の九時を過ぎたあたりだ。髪を乾かし終えた琴葉が、唐突にそんな提案をした。
 このあたりは一切の街灯がないので、コテージの電気さえ消してしまえば外の明かりは一切なくなる。山の上でもあるので、きっと夜空が綺麗に見えるだろう。

「お、それいいな。俺、流れ星見た事ないんだよ」
「実は私も。今夜見れるといいね」

 二人は笑みを交わし合って、電気を消してから外に出た。
 七月の下旬でもう夏なのに、外はクーラーが不要なくらい涼しくて気持ちが良い。都会人は田舎をバカにする傾向があるが、こうした空があるなら田舎も悪いものではないと思わされた。
 コテージの前の芝生に二人して並んで寝っ転がって、真っ暗な世界から夜空を見上げた。

「わ、ぁ……凄く綺麗」

 隣の琴葉が感嘆の声を上げた。

「ああ。凄いな。星に手が届きそうだ」

 海殊は無意識にその星空に向けて手を伸ばしていた。
 都会から見るより空が近くて、なんだかもう少し手が長ければその星が掴み取れそうな気分になってくる。夜空から星が降ってきている様にひとつひとつの星々がくっきりと見えていて、それぞれ輝いていた。

「あれがデネブでしょ? あっちがアルタイルで、それでこっち側にあるのがベガ」

 琴葉が夏の大三角をそれぞれ指差して言った。

「なんか昔流行った曲の歌詞みたいだな」

 海殊達が小学生くらいの頃に流行った楽曲だった。どこにいっても流れていたので、そのフレーズには聞き覚えがあったのだ。

「えへへ、バレた?」

 悪戯げに微笑んで、琴葉は海殊の手をそっと握った。その手を握り返して、夜空を眺める琴葉の横顔を盗み見る。
 琴葉はご機嫌な様子で、その楽曲の鼻歌を歌っていた。彼女の鼻歌を聞きながら、視線の先を横顔から夜空へと戻す。

「……私の事、もう全部判ってるんだよね?」

 鼻歌が途切れたかと思うと、琴葉が唐突にそう訊いてきた。

「いや……俺が知ってるのは、君が水谷琴葉じゃなくて、二年前まで同じ学年だった柚木琴葉って事だけかな」

 海殊は少し躊躇したが、そう答えて続けた。

「後は……その柚木琴葉が事故に遭って以降、ずっと眠り続けてるって事くらい」
「それ、殆ど全部知ってるって事だよ」

 少し茶化した様子で、琴葉が笑った。
 今もまだ右手には琴葉の手があって、彼女の感触がある。それにほっと海殊は小さく安堵の息を吐いた。この話題を出したからと行って、唐突に彼女が消えてしまうといった事はなさそうだ。

「いや、全然判ってないよ。お前がもし病院で寝ているなら……俺が毎日話していて、今こうして触れているお前は何なんだよ」

 ずっと心に秘めていた疑問を、遂に口に出す。
 これを実際に言うのは、少し勇気が必要だった。だが、琴葉からこの話題を出したという事は、もう話してくれる気になったという事だろう。
 琴葉は「ごめんね」と前置いてから続けた。

「何で私がここにいるのかは……正直、自分でもわからないの」
「わからない?」
「うん……ずっと、夢を見てて。毎日夢を見てて……でも、そうして夢を見る時間もどんどん減っていって。きっとこのまま行くと、私は消えちゃうんだろうなって……思ったの」

 琴葉曰く、事故に遭って以降は毎日眠っている時間と夢と現実の狭間の様な状態を交互に繰り返していたのだと言う。感覚的にいうと、ノンレム睡眠とレム睡眠を繰り返している状態が近いそうだ。
 レム睡眠の様な状態になった時、彼女は自分の意識や思考を自覚できて、自分が生きているのだと実感できたそうだ。その状態の時にはうっすらと母親の声が聞こえている事もあって、彼女なりに精一杯身体を動かして自分が生きている事を伝えていたのだという。
 しかし、どこまでが現実でどこまでが夢なのか、眠ったままの少女は理解ができなかった。彼女にとってはそれが毎日の繰り返しで、時間の概念もなかったらしい。
 しかし、ある時を境に、そんな彼女の毎日に異変が生じた。所謂意識がある状態の時でも、その意識に白い靄(もや)がかかり始めたのだ。その靄は日に日に濃くなっていき、それが濃くなるにつれ、自分の意識がどんどん薄れていくのを感じたのだと言う。
 海殊はその話を聞きながら、それが明穂の言う『容態が悪くなってきた』状態なのだろうな、と察した。

「それで……私、願ったの」
「願った?」
「うん……もう少しだけ時間が欲しいって。ほんの少しでいいから、希望を下さいって……強く、神様に念じたの」

 そう念じて強い光を感じた後、気付くとあの場所にいたのだという。即ち、海殊と出会ったあの公園だ。海殊が彼女に話し掛けたのは、それから間もない事だったらしい。
 そこで彼女は初めて自分がこの世界に存在していて、誰かに認識された事を実感したのだそうだ。

(そっか……それで、あの時泣いてたのか)

 初めて琴葉と話した日の事を思い出して、納得する。
 彼女は海殊に話し掛けられると、唐突に涙していた。当時はその理由がわからなかったが、今ならわかる。あれこそが自分が誰かに見えていて、誰かと接する事ができると実感できた瞬間だったのだ。
 夢だと思っていた事が、夢ではなかったと実感できた時だったのである。

「それで……実はね、今私はこっちで起きている時に寝ていて、こっちで眠るとあっちで起きているの」
「え? どういう事?」
「つまり……解りやすく言うと、ノンレム睡眠の時が今の私って事」

 琴葉の説明によると、こちらで起きている時は本体が寝ていて、こちらが寝ている時に本体が起きているのだという。

「だから、こっちの体が目覚める度、毎日安心して泣きそうになってた。まだ私はここにいていいんだって……でも」

 最近になってまた靄が濃くなったの──琴葉はそう付け足した。
 彼女自身、どういう原理でこの現象が起きているのかはわかっていない。いわば、これは完全な奇跡だ。だが、その奇跡もいつまでも続くわけではない。この靄の存在が、彼女にそれを教えていた。
 靄が濃くなっていって、彼女の本体の意識が薄まれば薄まっていく程、こっちの身体が弱っていくのだという。それが顕著となったのがここ数日だ。
 靄が濃くなると、琴葉から遠い順──親しくない順──に見えにくくなっていって、覚えている人も徐々に少なくなっていった。そして、遂には今日、よく話していた祐樹達や春子にも見えなくなり、彼らの記憶からも消えてしまったのである。

「でも、今のお前は少し調子が良いじゃないか。回復している兆しなんじゃないか?」

 駅を降りてからくらいだろうか。琴葉の調子は、今朝よりも大分良くなっていた様に思う。
 森の中の獣道も普通に歩けたし、握力も戻っている。朝は手を握り返す事すら殆どできていなかったが、今ではしっかりと手を握り返してくれている。海殊からみれば、回復している様にも思えるのだ。
 しかし、琴葉は首を横に振る。

「多分ね……今は、風前の灯火なんだと思う。もうすぐ消えちゃうってわかってるから……もう後先考えずに、海殊くんとの時間を楽しみたいって。それが今の私が、一番したい事なんだと思う。でも……」

 そこで、ぐすっと鼻を鳴らしたかと思うと、声が潤んだ。

「琴葉?」

 慌てて身体を起こして隣を見ると、そこには泣きじゃくる琴葉の姿があった。

「海殊くんに忘れられるのは、やだ……やだよ」

 涙声でそう言った時、遂には我慢の限界に達したのだろう。琴葉は海殊の身体に縋りつく様にして、啼泣(ていきゅう)した。
 誰かの記憶から抜け落ち始めた時から、そして誰かの視界に映らなくなり始めてから、彼女はずっとそれを恐怖していたのだろう。誰に言えるわけでもない。もし海殊に言おうものなら、それは自分がこの世ならざる存在だと言ってしまう事になる。
 その間、本体が弱っていくのを感じながら、そしてこちらの自分の存在が薄れていくのを感じながら、その恐怖に耐えていたのだ。たった独りで、その孤独と恐怖に耐えていたのである。
 そして、今……それを話したのはきっと、いつまでこの姿を保っていられるのか、彼女自身もうわからないからだ。

「嫌だ……そんなの嫌だ! お前の事、忘れたくねえよ……!」

 海殊の瞳からも涙が零れ落ちていた。ただその細い体を抱き締めて、彼女の体温を感じて、例え無理だとわかっていても、その存在を脳裏に刻む事しかできなかった。

「こんなに誰かの事を好きになったのなんて、初めてなんだ……ずっと一緒にいたいって思ったの、初めてなんだよ。なあ琴葉、頼むよ……傍に、いてくれよ」

 無理だとわかっていた。
 なぜなら、今ここにいる琴葉は……本当の琴葉ではないからだ。人ならざる者によって奇跡が(もたら)されて、夢の中の彼女が現れているだけに過ぎないのである。

「私だって……忘れて欲しくない。離れたくない。こんなにも海殊くんの事、好きなのに……大好きなのに!」

 琴葉は海殊の首根っこに腕を回して、哭しながら続けた。

「好きな人と過ごせる毎日を手に入れたのに……こんな夢みたいな生活を手に入れたのに。どうして私だけこうなるの……!? どうして……? ねえ、誰か教えてよ……!」

 流涕(りゅうてい)しながら誰かに哀訴する琴葉を、海殊はただ抱き締めてやる事しかできなかった。自身も落涙で咽びながら、ただ泣きじゃくる彼女の髪を撫でてやる。ただただ己の無力さを呪う事しかできなかった。
 だが、人なる者に人ならざる者の事などわかるはずがない。ましてや、どの様な原理で彼女がここにいるのかさえわからないのだ。不条理の中にある不条理など、誰に訴え掛ければいいのかさえわからない。
 二人は互いを抱き締め合いながら、この不幸を呪い、歔欷(きょき)するしかなかったのである。夏の夜空の下、二人はそれから暫く啼泣していた。それ以外に何もできる事がなかったからだ。

「ねえ……海殊くんは、誰かとキス、した事ある……?」

 二人の啼泣がすすり泣きに変わった頃だった。琴葉が顔を上げて、海殊に訊いた。

「……あるわけないだろ。年齢=カノジョいない歴だぞ」

 そう言ってやると、彼女はくすっと笑った。

「よかった……私も同じ」
「知ってる。本の中の恋愛にしか興味なかったんだろ?」
「もう。人の過去を詮索しないでよ。恥ずかしい」

 琴葉は少し怒った顔を作ったものの、すぐに顔を綻ばせた。

「何かの本で読んだけど、男の子ってファーストキスの相手は一生憶えてるっていうじゃない? あれってほんとかな……?」
「さあ……」

 海殊は何も返せなかった。したことがないのだから、わかるはずがない。
 だが、その話は海殊もどこかで聞いた事があった。何かの小説だったかもしれないし、映画かもしれない。或いは、別の媒体の可能性もある。

「じゃあさ……試してみない?」

 涙で潤ませた瞳で、おそるおそる琴葉が上目で海殊を見つめて言った。

「試す?」
「うん。ファーストキスの相手なら忘れないのかどうか……私達で試してみるの」

 まるで、子供みたいな提案。藁にも縋りたいというのは、まさしくこういった状況を指すのだろう。今の彼らにはそんな事しか縋れるものがなかったのだ。

「こんな可愛い子と初めてのキスをしたら、忘れるわけがない」
「ほんとかなぁ」
「絶対に忘れない。絶対だ」

 琴葉の目を見据えて、しっかりとそう宣言してみせる。
 無駄な抵抗かもしれない。その時がきたら忘れてしまうのかもしれない。だが、何か一つでも強く印象に残る事があれば、覚えていられる可能性もあるのではないだろうか。それならば、その一縷の望みに賭けてみたい。
 いや……そうではない。海殊はただ、彼女と過ごした証が欲しかったのだ。彼女と過ごしたこの時間を覚えていたいし、彼女が存在した証が欲しいのである。
 目を合わせて、お互いに相手をじっと見つめる。
 夏の夜空がその綺麗な瞳に反射しいていて、いつも輝いている瞳がより輝いて見えた。
 どちらともなく顔を寄せて……二人の唇が重なる。一度してからは、止まらなかった。何度も何度も唇を重ね合わせて、記憶の隅々にまでその存在を刻み込んでいく。
 初めてのキスの味は、予想外にしょっぱかった。二人の涙がまじりあっていたせいだ。
 だが、それでも二人の口付けは止まらなかった。一回一回のキスの味、感触、息遣い、体温、それら全てを脳裏に刻んで行く。
 それから暫くの時を経て、唇を離した時に、琴葉は涙を流しながらこう言った。

「私の事……ちゃんと憶えててね?」