翌日に終業式を控えた日の夜だった。台所で琴葉が夕飯を作っている時、からん、と菜箸が落ちる音がした。
 これだけなら、特に気にする必要もなかった。ただ、それから何度も同じ音が聞こえてきたのだ。
 心配になって台所を覗きに行くと、彼女は自分の右手を唖然とした表情で見ていた。その右手はぷるぷると痙攣していて、何度も握ったり開いたりしているが、力が全く入っていない。

「……琴葉?」
「な、何でもない! 何でも……ないから」

 琴葉は海殊がいる事に気付いて、慌てて床に落ちた菜箸を拾おうとするが、手に持った瞬間、菜箸は指の隙間からするりと落ちていた。
 それはまるで、握力がほとんどなくなってしまっている様だった。菜箸を持つ事ができないのだ。

「あ、あれ? お、おかしいなぁ……今日、体育で右手首ぐねっちゃったからかな? さっきまで大丈夫だったんだけど……」

 琴葉は何とか焦りを隠して笑顔を作っているが、無理をしているのは明らかだった。

(弱って……いってるのか)

 琴葉の容態が悪くなっていっている、と彼女の母・明穂は言っていた。
 そして今思い返してみれば、登下校中も何もないところで躓く事が今日は多かった。
 琴葉の"本体"が今、どういった状況なのかはわからない。だが、"この琴葉"が弱っているのは間違いなかった。

「ごめんね、すぐに洗って──」

 気付けば海殊は、菜箸を拾おうと屈んだ琴葉をそっと抱き締めていた。
 思わず泣きたくなってしまったからかもしれない。彼女と過ごす、この夢の様な時間の終わりが近付いてきている事を、感じ取ってしまったのだろう。それを隠す為に、そして彼女の存在を確かめる為にも、彼女に触れていたかったのだ。

「海殊、くん……? どうしたの……?」

 彼女の声は震えていた。
 何かを堪える様にして、言葉を絞り出している様にも思えた。
 こうして触れていれば彼女は確かに存在していて、彼女の体温も重みも感じる事ができる。しかし、実際の彼女は今にも消えてしまいそうな程儚くて、それを思うと海殊も瞼の裏が熱くなって、鼻水まで出てしまいそうだった。

「……大丈夫だから。俺が作るから」

 琴葉の肩を強く抱き締めて、耳元でそう言ってやる。

「でも海殊くん、料理得意じゃないでしょ……?」
「じゃあ、横で指南してくれ。それならきっと、俺でも作れるから」
「うん……わかった」

 そうして琴葉の代わりに菜箸を拾って洗うと、彼女に見守られながら調理を開始した。
 冷凍ご飯があったので、メニューはチャーハンに替えた。あまり難しくないというのと、今の琴葉の握力ではスプーンで食べられる食事の方が良いと思ったからだ。
 それから横で作り方や調味料の塩梅を教えてもらいながら、チャーハンを作った。ただ野菜を刻んで冷凍ご飯と一緒に炒めるだけかと思っていたのだが、手順や調味料の加え方などの工程が思ったよりあって、途中でスマートフォンにメモを取りながら作っていった。
 指導の甲斐あって、遂に琴葉特製チャーハンができた。見るからに絶品だ。匂いだけでも美味しそうなのが伝わってくる。

「「いただきます」」

 二人でチャーハンを食べ始める。さすがに横で付きっ切りで教えてもらった甲斐もあって、そのチャーハンは美味しかった。美味しかったけれど、同時に悲しくて泣きたくなってしまった。
 もう彼女は、料理すら作れないほど弱ってきてしまっているのだ。
 琴葉を盗み見ていると、スプーンであれば問題なく食事は摂れているようだ。だが、この調子でいくとそれすらできなくなってしまう時もくるのではないだろうか。
 きっと、彼女の異変は春子にも気付かれてしまう。その時どう説明すれば良いのだろうか?
 何もかもが未知の体験で、どう物事を進めて、どう解決していいのかすらわからない。完全な八方塞がりだ。
 幸い、春子は夜勤なので朝まで帰ってこない。今夜はまだ琴葉の身体についてはまだ悟られる事はないだろう。

(でも……いつまで隠し通せるんだろうな)

 ぼんやりとテレビを眺めながら、チャーハンを口に運んでいる琴葉を見てふと思う。
 テレビを見ている様で、焦点は合っていない。ただぼーっとそこにあるものを見ているだけ、という感じだ。
 明日の夜はおそらく、三人で食事を取るだろう。その際もスプーンかフォークで食べるメニューでないと厳しい。
 だが、それが何日も続くとさすがに怪しまれる。それに、十七年もの間彼の母親をやっている人物でもある。隠し通せるとは思えなかった。

「……? あ、海殊くんの作ったチャーハン美味しいよ?」

 ふとこちらの視線に気付いて、琴葉はいつも通りの笑顔を見せた。
 きっと今、彼女自身不安で仕方ないのだろう。それにも関わらず、彼女は海殊に笑顔を向けてくれている。そんな彼女が愛しくて堪らなかった。

「これから得意料理はチャーハンって言う事にするよ」
「うん。この味なら免許皆伝しちゃう」

 二人でそんな言葉と笑顔を交わして、食事を続けた。
 このチャーハンの味だけは守りたい……何となくだが、海殊はその様に考えていた。

       *

「あ、そういえばさ、風呂とか大丈夫か?」

 食後に食器を洗っている最中、海殊が隣の琴葉に訊いた。
 琴葉が洗おうとしたので、それを止めて彼が洗っている。今の彼女の握力では、お皿を落とし兼ねないからだ。
 琴葉は不満がったが、洗い終えた食器を拭いてもらう事で合意を得て、今に至る。彼女はテーブルの上にお皿を置いてから、左手の布巾で拭いている。かなり不便そうだ。

「え? 大丈夫って?」
「いや、髪とか洗えんのかなって……手、痛いんだろ?」
「それくらいなら大丈夫だよ。左手も使えるし……って、もしかして、一緒にお風呂入ろうとしてた?」
「は、はあ!? ちち、ちがッ!?」

 思わぬ質問返しに、海殊は狼狽えた。
 全くそういうつもりで訊いたのではないが、そう捉えられても仕方がない質問だ。

「えっち」
「違うって! 純粋に心配してだなッ」
「えー? ほんとかなぁ」

 悪戯げに笑う琴葉はどこか楽しそうで、何とか暗くなりそうな雰囲気を吹き飛ばそうと、無理に明るく振舞っている様でもあった。
 それから暫くそれをネタにからかわれた。本当に心配損である。
 だが──会話の終わりに、彼女が小さく「ごめんね」と呟いていたのを海殊は聞き逃さなかった。