「母さん、琴葉と花火見に行く事になったんだけど、浴衣ってある?」
春子が仕事から帰ってくるなり、海殊はそう母に尋ねた。
恥ずかしがり屋だと思っていた息子が臆面もなく唐突にそんな事を訊いたので、母は何も言わず息子の額と自分の額に手を当て、熱を比べたものだった。
母親のこの行動には少し苛立ちと恥ずかしさを覚えたが、琴葉が面白そうにくすくす笑っていたので、何とか堪える事はできた。その笑顔の為なら何でもいいか、と思える様になっていたのである。
「あたしが昔着ていたのでいいなら、押し入れの奥にあるわよ。クリーニングに出しておいてあげるわね」
息子のそんな様子を見て、春子は呆れた様に笑うとそう言った。
明日クリーニングに出せばおそらくギリギリ花火の日には間に合うだろうとの事だ。
母が押し入れから浴衣を出してきて、実際にその浴衣を見せると、柄や色合いが琴葉の好みだったらしく、彼女も大いに喜んでいた。
「着付けは一人でできる? あたし、その日は仕事が入ってるから……」
「帯を通すだけのタイプですよね? これなら大丈夫です!」
二人が居間で浴衣を広げて、そんなやり取りをしていた。
青を基調とした少し大人っぽい浴衣だが(実際に大人が着ていたものなのでそれも仕方ないが)、きっと琴葉なら何を着ても似合うだろう。
昔は春子も今より大分細かった様で、サイズも細身の琴葉とぴったりだった。
「母さん、今その浴衣着たらはち切れるでしょ」
「あんた、ぶっ殺すわよ」
親子で憎まれ口を叩き合っている中、琴葉は嬉しそうに二人の言い合いを眺めていた。
もし、彼女の母・明穂がこんな光景を見ていたらどう思うだろうか。海殊は唐突にそんな事を考えてしまう様になっていた。
今も毎日、娘の復活を信じて病院に通う彼女。きっと、明穂も娘とこんなやり取りをしたかったのだと思う。
柚木家の中には、至る所に琴葉の面影があった。きっと見るのも辛いだろう。
しかし、それでも彼女は娘がまたこの家で暮らすと信じて、当時のままに残してあるのだ。できれば、彼女にも琴葉と会わせてやりたい。しかし、二人はきっと、会えないのだ。それは琴葉が家に帰らず海殊の家にいる事が証明していた。
そこに関して、海殊ができる事はほぼない。家に連れて帰ろうとしても琴葉は嫌がるだろうし、無理矢理連れて帰ったところでもし明穂に彼女が見えなければ、心に傷を負うのは自分だ。
こうして琴葉を楽しませてやりつつ、彼女の回復を願う他ないのだ。
(いや、俺も楽しみたいのかな。琴葉と過ごす時間を)
女性に体型の事を言うのはどうの、と春子と一緒になって海殊に文句を言う琴葉を見ながら、海殊はそんな事を考えるのだった。
*
この日を境に海殊の中では何かが変わった。とにかく今を一生懸命生きる様になったのだ。
すぐにできる事はすぐにやって、何でも即断即決即行動が主となっていた。それはきっと、いつ"その時"が訪れるかわからないからだろう。明日死ぬつもりで行動しろ、というのは色々な人が言っているが、まさしくこの時の海殊は、そんな気分だったのである。
その翌日から、海殊は行動的になっていた。というより、琴葉が喜びそうな事の為なら行動的になった、という表現が正しい。
学校帰りにゲームセンターに寄ったり、ショッピングに出掛けたりした。図書館に行って二人で閉館時間まで二人で本を読んだり、たまには漫画でも、という事で漫画喫茶にも行った。
漫画喫茶ではちょっと勇気を出して、カップルシートというものを利用してみた。琴葉は『カップルシート』という響きとそのブースの狭さに最初は恥ずかしがっていたけれど(否応なしに身体が触れ合う距離になるのだ)、途中からは海殊の方に身体を預けて、二人で寝ころびながら漫画を見ていた。
琴葉が身じろぎする度に身体が触れ合って、ふわりと彼女の香りが鼻を擽る度にドキドキしていた。自分の心臓の音が彼女に聞こえてしまうのではないかと不安になった程だ。
ただ、それは彼女も同じな様で、恥ずかしそうにちらちらと海殊の方を見ていた。そんな彼女が愛おしかった。
こうしてカップルシートを利用してはいるが、無論琴葉とは付き合っているわけではないし、それらしい事は最初のデートで手を繋いで以来していない。ただ、こうしていると本当に彼氏彼女みたいに思えてきて、不思議だった。海殊に凭れかかってくる琴葉からは、確かに体温も感じたし、重みも感じたのだ。
家でも春子が帰ってくるまでは二人きりだが、ここまで密着する事はない。家ではどうにも恥ずかしさが先行してしまうのである。
ただ、それに関して言うと、このカップルシートというのは悪くなかった。ブースは狭いが、壁があるので周りの目を気にする必要がない。誰の目を気にするでもなく、ただ琴葉と過ごす時間を大切にできている気がしたのだ。
彼女の母・明穂は、琴葉は高校に入ってから青春を謳歌したかったのではないか、と言っていた。それならば、彼女にその青春とやらを経験させてやるのが良い──彼はそう考え至ったのである。
尤も、彼女より二年長く高校に通っているくせに、青春を経験できていないのは海殊も同じである。これが正しい青春なのかはわからなかったが、思いつく限りの事はやりたかった。
琴葉が見えているかどうかについては、人それぞれだった。見える人もいれば見えない人もいるが、積極的に海殊が彼女に話し掛けていると、自ずと見えている様だった。
だが、一日、また一日と日が経つにつれて、見えない人の方が増えてきている様に感じた。海殊が独り言を話している様に思われているらしく、怪訝な目で見られる事もあったのだ。
だが、祐樹達友人や春子は普段と変わらなかった。彼らには琴葉がちゃんと見えていて、いつも通り接してくれていたのだ。それだけが海殊の支えだった。
琴葉も自身の異常に関しては察しているだろう。自分の存在が見えなかった時、いつも気まずそうにしている。だが、それを気にさせない様に海殊はいつも明るく振舞っていた。
琴葉とて、真実を言わないのはきっと言いたくないからだ。或いはそれを言ってしまうと、もしかすると彼女自身が今の状態を保てなくなってしまうのかもしれない。
それならば、見える人達とだけで彼女が日常を楽しく過ごせればいい──そう考えていた。
しかし……そんな日は、そう長くは続かなかった。
春子が仕事から帰ってくるなり、海殊はそう母に尋ねた。
恥ずかしがり屋だと思っていた息子が臆面もなく唐突にそんな事を訊いたので、母は何も言わず息子の額と自分の額に手を当て、熱を比べたものだった。
母親のこの行動には少し苛立ちと恥ずかしさを覚えたが、琴葉が面白そうにくすくす笑っていたので、何とか堪える事はできた。その笑顔の為なら何でもいいか、と思える様になっていたのである。
「あたしが昔着ていたのでいいなら、押し入れの奥にあるわよ。クリーニングに出しておいてあげるわね」
息子のそんな様子を見て、春子は呆れた様に笑うとそう言った。
明日クリーニングに出せばおそらくギリギリ花火の日には間に合うだろうとの事だ。
母が押し入れから浴衣を出してきて、実際にその浴衣を見せると、柄や色合いが琴葉の好みだったらしく、彼女も大いに喜んでいた。
「着付けは一人でできる? あたし、その日は仕事が入ってるから……」
「帯を通すだけのタイプですよね? これなら大丈夫です!」
二人が居間で浴衣を広げて、そんなやり取りをしていた。
青を基調とした少し大人っぽい浴衣だが(実際に大人が着ていたものなのでそれも仕方ないが)、きっと琴葉なら何を着ても似合うだろう。
昔は春子も今より大分細かった様で、サイズも細身の琴葉とぴったりだった。
「母さん、今その浴衣着たらはち切れるでしょ」
「あんた、ぶっ殺すわよ」
親子で憎まれ口を叩き合っている中、琴葉は嬉しそうに二人の言い合いを眺めていた。
もし、彼女の母・明穂がこんな光景を見ていたらどう思うだろうか。海殊は唐突にそんな事を考えてしまう様になっていた。
今も毎日、娘の復活を信じて病院に通う彼女。きっと、明穂も娘とこんなやり取りをしたかったのだと思う。
柚木家の中には、至る所に琴葉の面影があった。きっと見るのも辛いだろう。
しかし、それでも彼女は娘がまたこの家で暮らすと信じて、当時のままに残してあるのだ。できれば、彼女にも琴葉と会わせてやりたい。しかし、二人はきっと、会えないのだ。それは琴葉が家に帰らず海殊の家にいる事が証明していた。
そこに関して、海殊ができる事はほぼない。家に連れて帰ろうとしても琴葉は嫌がるだろうし、無理矢理連れて帰ったところでもし明穂に彼女が見えなければ、心に傷を負うのは自分だ。
こうして琴葉を楽しませてやりつつ、彼女の回復を願う他ないのだ。
(いや、俺も楽しみたいのかな。琴葉と過ごす時間を)
女性に体型の事を言うのはどうの、と春子と一緒になって海殊に文句を言う琴葉を見ながら、海殊はそんな事を考えるのだった。
*
この日を境に海殊の中では何かが変わった。とにかく今を一生懸命生きる様になったのだ。
すぐにできる事はすぐにやって、何でも即断即決即行動が主となっていた。それはきっと、いつ"その時"が訪れるかわからないからだろう。明日死ぬつもりで行動しろ、というのは色々な人が言っているが、まさしくこの時の海殊は、そんな気分だったのである。
その翌日から、海殊は行動的になっていた。というより、琴葉が喜びそうな事の為なら行動的になった、という表現が正しい。
学校帰りにゲームセンターに寄ったり、ショッピングに出掛けたりした。図書館に行って二人で閉館時間まで二人で本を読んだり、たまには漫画でも、という事で漫画喫茶にも行った。
漫画喫茶ではちょっと勇気を出して、カップルシートというものを利用してみた。琴葉は『カップルシート』という響きとそのブースの狭さに最初は恥ずかしがっていたけれど(否応なしに身体が触れ合う距離になるのだ)、途中からは海殊の方に身体を預けて、二人で寝ころびながら漫画を見ていた。
琴葉が身じろぎする度に身体が触れ合って、ふわりと彼女の香りが鼻を擽る度にドキドキしていた。自分の心臓の音が彼女に聞こえてしまうのではないかと不安になった程だ。
ただ、それは彼女も同じな様で、恥ずかしそうにちらちらと海殊の方を見ていた。そんな彼女が愛おしかった。
こうしてカップルシートを利用してはいるが、無論琴葉とは付き合っているわけではないし、それらしい事は最初のデートで手を繋いで以来していない。ただ、こうしていると本当に彼氏彼女みたいに思えてきて、不思議だった。海殊に凭れかかってくる琴葉からは、確かに体温も感じたし、重みも感じたのだ。
家でも春子が帰ってくるまでは二人きりだが、ここまで密着する事はない。家ではどうにも恥ずかしさが先行してしまうのである。
ただ、それに関して言うと、このカップルシートというのは悪くなかった。ブースは狭いが、壁があるので周りの目を気にする必要がない。誰の目を気にするでもなく、ただ琴葉と過ごす時間を大切にできている気がしたのだ。
彼女の母・明穂は、琴葉は高校に入ってから青春を謳歌したかったのではないか、と言っていた。それならば、彼女にその青春とやらを経験させてやるのが良い──彼はそう考え至ったのである。
尤も、彼女より二年長く高校に通っているくせに、青春を経験できていないのは海殊も同じである。これが正しい青春なのかはわからなかったが、思いつく限りの事はやりたかった。
琴葉が見えているかどうかについては、人それぞれだった。見える人もいれば見えない人もいるが、積極的に海殊が彼女に話し掛けていると、自ずと見えている様だった。
だが、一日、また一日と日が経つにつれて、見えない人の方が増えてきている様に感じた。海殊が独り言を話している様に思われているらしく、怪訝な目で見られる事もあったのだ。
だが、祐樹達友人や春子は普段と変わらなかった。彼らには琴葉がちゃんと見えていて、いつも通り接してくれていたのだ。それだけが海殊の支えだった。
琴葉も自身の異常に関しては察しているだろう。自分の存在が見えなかった時、いつも気まずそうにしている。だが、それを気にさせない様に海殊はいつも明るく振舞っていた。
琴葉とて、真実を言わないのはきっと言いたくないからだ。或いはそれを言ってしまうと、もしかすると彼女自身が今の状態を保てなくなってしまうのかもしれない。
それならば、見える人達とだけで彼女が日常を楽しく過ごせればいい──そう考えていた。
しかし……そんな日は、そう長くは続かなかった。