海殊は陰鬱な気持ちで家路を歩いていた。
 予想していたよりも早く、そして容易に真実には迫れた。だが、これを知ってしまって良かったのだろうか。そんな疑問が頭の中に思い浮かぶのだ。
 彼がここ数週間毎日過ごして、人生に喜びを感じていたものの正体──それは、非現実的なものだった。正直、今の今も信じ切れていない。
 だが、信じざるを得なかった。今彼が共に過ごしている水谷琴葉は、二年前事故に遭って以降昏睡している柚木琴葉だった。それは教師の話と柚木琴葉の母の話からも明らかだ。
 そして、彼女は今この瞬間も眠っていて、消えゆく自我と意識と戦っている。自分を残そうと必死に足掻いているのだ。

(そんな事を知らされて……どうしろって言うんだよ!)

 もしフィクション世界の主人公であれば、ここで何か能力に目覚めて彼女を救えるのかもしれない。奇跡を起こせるのかもしれない。
 しかし、海殊はただの人間だ。神でもなければ何か特殊能力があるわけでもない。消えつつある彼女の意識を救う手立てもなければ、眠り姫を起こせる奇跡を持ち合わせているわけでもないのだ。
 結局何をどうすればいいのかわからないまま、家の前に着いてしまった。気持ちの整理も、現実を受け入れ切れているわけでもない。
 今のまま琴葉と会って、どんな顔をすればいいのだろうか。
 ただ、放課後に職員室に行って片っ端から一年の担任に質問して回って、その後に琴葉の実家にも寄っていたので、もう結構いい時間だ。これ以上遅くなると、琴葉にも心配させてしまうだろう。
 海殊は大きく溜め息を吐いてから、自分の手のひらでぱちっと両頬を叩いた。

(しっかりしろ、滝川海殊。俺なんかより、琴葉はもっと大変なんだ。あいつがまだ諦めてないのに、俺が諦めてどうする)

 そう自分を叱咤激励してから表情を引き締めて、家を睨みつけた。
 ここからは自分との戦いでもある。きっと、これから辛い事が起きるだろう。それでもその現実と向き合えるだろうか?
 そう自問自答してから、「当たり前だろ」と答えてみせる。
 その覚悟をしたからこそ、海殊は琴葉の母に『あなたの娘が好きです』と赤面ものの告白をしてきたのだ。琴葉の為にも、その母の為にも、向き合って乗り越えなければならないのである。

「……よし、行くぞ。俺は普通、俺は普通」

 海殊は深呼吸して可能な限り普通に琴葉と接せれる様に自己暗示をかけてから、玄関扉を開いた。

「あっ、やっと帰ってきた。海殊くん、おかえり」

 玄関扉を開いてすぐに彼を迎えてくれたのは、子猫のきゅーちゃんを抱っこしている琴葉だった。
 彼女を見た瞬間に瞳の奥から何かが込み上げてきそうになったが、それを気合で止める。

「遅かったね。晩御飯どうしようかと思ってたの」

 私もうお腹ぺこぺこだよ、と付け足して琴葉は眉を下げた。
 今日は春子の帰りが遅いので、先に二人で食べておいて欲しいと連絡がきていた。その事は琴葉も知っているので、既に食事の準備を終えているのだろう。いい匂いが玄関の方まで漂ってきている。
 海殊は彼女に気付かれない様に小さく深呼吸すると、口角を上げてみせた。

「ごめんごめん、ちょっと色々長引いちゃってさ。着替えてくるから、すぐに飯食っちゃおう」

 靴を脱いでから家に上がると、琴葉が抱きかかえる子猫の頭を撫でてやる。
 その拍子に彼女と目が合った。彼女の青みがかった綺麗で大きな瞳は、じっと海殊を見上げている。
 そんな彼女を見てしまったからだろうか。海殊の手は、子猫の頭から自然と琴葉へと移っていて、無意識に彼女の頬を撫でていた。

「海殊くん……?」

 少し驚いた様な表情をしていたが、琴葉は振り払ったり身を捩ったりはしなかった。
 化粧っ気のない琴葉の肌は殻を剥いたゆで卵みたいに綺麗で、ぷるぷるしている。それなのに薄ピンクの唇からは妙な色気を感じてしまって、心がぎゅっと締め付けられた。

(こんなに……こんなにはっきりと感触を感じられるのに。こいつは……!)

 一度固めたはずの涙腺がまた緩みそうになって、思わず彼女の頬から手を離す。

「……どうしたの?」

 いつもならしない行動の数々に、さすがに琴葉も不審に思ったのだろう。心配そうに海殊を見つめていた。

「いや。何でもないよ。お前の肌、すっげー綺麗だからさ。前から実は触ってみたかったんだ」

 どこのチャラ男だ、と自分で自分に突っ込みながらも、海殊はそう嘯いた。いや、前から触れてみたかったというのは嘘ではないのだけれど。
 琴葉はその海殊らしからぬ言葉にぷっと吹き出した。

「もう、やだ。海殊くんのえっち」
「悪い、衝動に逆らえなかった」
「いきなり過ぎて、心臓停まりそうになったよ」
「じゃあ、今度は前もって許可を得よう」
「そういう問題じゃないよっ!」

 そんなやり取りをしてから互いに笑い合う。
 まるで恋人の様なやり取り。でも、どこかぎこちなくて、互いが互いに気遣い合っている様な感覚。本当の恋人になれたならば、こんなぎこちなさもなくなるのだろうか。

「琴葉」

 二人の笑いが収まると、海殊は小さく息を吐いてから彼女の名を呼んだ。

「なあに?」
「もうすぐ夏休みだろ。行きたい所とか、やりたい事とかないか? もしあるなら、そこ行こう」
「海殊くん……」

 琴葉は息を飲んで、そんな海殊をじっと見据えていたが、すぐに顔を綻ばせた。

「えっと、じゃあ……」

 彼女はそう言ってきゅーちゃんを降ろすと、ぱたぱたとリビングに行ってから、すぐに戻ってきた。手にはチラシがある。

「これ、行きたい」

 そう言って、そのチラシを海殊に手渡す。
 それは毎年七月の終盤に開催されている大きな花火大会のチラシだった。海殊は行った事はないが、祐樹達は毎年行っているらしい。

「……わかった。行こう」

 海殊は柔らかく微笑んで、頷いて見せた。
 人混みが嫌いなので、本当は花火大会は苦手だ。だが、いつまで琴葉と過ごせるかはわからない。
 琴葉が生身の人間であるならこんな事は気にしないのだが、彼女は海殊が思っている以上に不安定な存在だ。明穂の話から察する限り、朝起きたらいきなりいなくなっている、という事だって有り得るのである。
 それならば……彼女の望みを叶えてあげたい。それぐらいしか、今の自分にできる事など思い浮かばなかった。

「やった! どうせなら浴衣着たいな。おばさん、持ってないかな?」
「どうだろう? もしかしたら持ってるかも。訊いておくよ」

 人混みは嫌いだ。花火大会なんて死んでも行きたくないと思っていた。
 しかし、琴葉の楽しみにしている表情を見ていると、そんな花火大会にも行きたいと思えてしまう。
 それが不思議で、そんな自分の変化が面白くて、でもそんな時間はいつまでも続かないかもしれないと思うと、やっぱり寂しかった。