海殊(みこと)はとある家の前に来ていた。家の表札には『柚木』と書いてある。
 そう──ここは『柚木琴葉(ゆずきことは)』の実家だ。
 あの後、海殊は鈴本と細田の二人に出まかせを言いまくって、彼女の実家の住所を教えてもらったのである。琴葉には借りていたものがある、恩がある、その御礼だけでも言いたい、ととにかく出まかせだ。『水谷琴葉(みずたにことは)』と違う名前を聞き回っていた事や、どうして一年生の担任に訊いていたんだ、など、細かいツッコミを入れられたら切りがないのだが、それを尋ねさせない為に嘯きまくった。
 結果、「本当はこういうのはあんまり良くないんだが」と渋々ではあるが、鈴本が柚木琴葉の住所を調べて教えてくれたのだ。あまりに海殊が必死だったものだから、憐れみを感じたのかもしれない。
 深呼吸を数回繰り返してからインターフォンを押すと、『はい』とすぐに女性の声が聞こえてきた。おそらく、琴葉のお母さんだろう。優しそうな声色だった。

「あの……こと──いえ、柚木琴葉さんの、クラスメイトだった者です」

 海殊は用意していた言葉を言った。
 これも完全な嘘だ。海殊と琴葉は当時クラスメイトではなかったし、彼女の存在すら知らなかったのである。
 ただ、まだ『柚木琴葉』と『水谷琴葉』が同一人物だという確証は取れていない。それこそ、教師達の話と海殊がこれまで抱いてきた違和感がただ合致しているだけなのである。
 だが、ここでその確認が取れる。違ってくれと祈りながらも、海殊はほぼほぼ確信に近い気持ちをもっていた。
 琴葉のクラスメイトだった者だと伝えると、柚木琴葉の母は驚きはしたものの、家の中に上げてくれた。ご丁寧に、紅茶とお菓子まで出してくれた程だ。本当に良い人なのだろう。
 そしてリビングで座って部屋を見回した瞬間に、ほぼほぼここが琴葉の家であると確信が持ててしまった。
 ところどころにある雑貨やキャラ物の置物が、ここ数週間でうちに増えたものと同じ系統だったのだ。即ち、琴葉の趣味と完全に合致していたのである。余程お気に入りだったのか、同じものもあった程だ。
 そして、部屋の中から漂う香りというか、雰囲気。これも、彼女から感じるものと同じものがあった。

「まさか、娘に男の子の友達がいたなんて思いませんでした」

 琴葉とよく似た目元をした綺麗な女性がそう言った。青み掛かった瞳は母親譲りだった様だ。
 彼女の名は、柚木明穂(ゆずきあきほ)。明穂は春子より少し若いといった年齢で、琴葉とよく似た優しそうな雰囲気を纏っている。ただ、その容姿とは裏腹に、表情はだいぶやつれていた。

「入学してすぐに少し話して、勉強とか教えてもらったんです。それが、まさかあんな事になるなんて……」

 ここにくるまでの間に考えていた嘘を並び立てる。琴葉の事を嗅ぎまわる様になってから嘘ばかり積み重ねている気がするが、今回ばかりは仕方ない。

「それが……どうして今更? もう二年も経つのに。あの子の事を覚えていてくれる人がいるなんて、夢にも思っていませんでした」

 全く疑う様子もなく、明穂が海殊の前に座った。
 やつれてはいるものの、海殊が訪ねてきた事を本当に嬉しく思っている様子だった。その表情から本当に喜んでいる事が伝わってきて、嘘を吐いている事に罪悪感を感じた。

「昨夜……急に彼女が夢に出てきたんです。それで、居ても立っても居られなくなって、学校で先生から住所を半ば強引に訊いて、来ました」
「まあ、あの子が……!」

 明穂が顔を輝かせた。
 あれを夢といっていいのか、現実といっていいのかはわからない。ただ、後半に関して嘘は言っていないつもりだ。

「その……もしよかったら、琴葉さんの写真とか見せて頂けませんか? もう随分時が立ってしまったので、顔もうる憶えで」
「ええ、もちろんです! ちょっと待っていて下さいね」

 それから彼女は自分のスマートフォンを持ってきて、画像フォルダを見せてくれた。そのフォルダの名前は『琴葉』となっていて、娘専用の画像フォルダとなっている様だ。
 表示された一枚目の写真を見て、海殊は大きく溜め息を吐いた。身体中から力が抜けていく。

(まあ……そうだよな)

 諦めにもにた気持ちを込めて心の中で呟くと、もう一度そのスマートフォンに表示された画像をよく見る。
 それは、二年前の入学式の写真だった。海殊も通う海浜法青(かいひんほうせい)高校の入学式で、海殊が入学したのと同じ日付が記載されていた。
 入学式と大きく書かれた看板の横に、ひとりの女生徒が立っている。
 長く綺麗な髪は艶やかで、モデルの様に細くて控えめな笑顔が愛しくて……彼もよく知っている少女のそれに違いなかった。よく知るも何も、きっと今も家に帰れば子猫と遊んで彼の帰りを待っているに違いない。
 そう……水谷琴葉と名乗った女性は、やはり柚木琴葉に違いなかったのである。

「……もしよかったら琴葉さんの話、聞かせてくれませんか?」
「え?」
「その、仲良くなる前に事故に遭われてしまったので……実は、知らない事の方が多いんで。あ、もちろん、嫌じゃなければで構わないですから」
「嫌だなんてそんな……! 娘の事を覚えてくれていて、こうして知ろうとしてくれるだけで……ッ」

 明穂は瞳にじわりと涙を浮かばせると、慌てて顔を伏せてハンカチで目元を拭った。
 もしかして辛い思いをさせているのだろうかと思ったが、違った。琴葉の母は、本当にそれを嬉しく思ってくれていたのだ。
 それから、明穂は娘の事を話してくれた。明穂が語る琴葉は、海殊の知る琴葉よりも引っ込み思案で奥手だった。少なくとも、海殊に見せた様な強引さや大胆さは垣間見えなかった。
 容姿故に目立ってしまうものの、性格は大人しくて控えめ。成績は優秀で、中学時代は男子からもモテていた様だが、大人しい性格が災いしてか彼氏は作らなかったらしい。というより、現実の色恋よりも本の中の世界に浸る事の方が好きだったみたいだ。ジャンル問わず色々な本が好きで、同級生とは話が合わなくて面白くない、というのが口癖だったらしい。映画も好きで、よく新作映画の公開には付き合わされた、と懐かしむ様にして明穂は言った。

「インドアな子だったんですね」
「ええ。でも、そのくせ水泳だけは得意でね。小学生の時には大会で優勝した事もあるんですよ」
「へえ、意外ですね。文学少女は運動が苦手なイメージでしたが、何でもできたんですね、琴葉さんは」

 如何にも意外そうに驚いて見せたが、意外なものか、と心の中で海殊は思った。
 水泳が得意でなければ、子猫を救う為とは言え濁流の中を飛び込びやしない。もっとも、猫を抱えながら泳ぐというのは初めての経験で、溺れそうになっていたのだけれど。

「あと、猫が好きで、ずっと飼いたがってましたね……」
「飼わなかったんですか?」
「ええ……私が酷い猫アレルギーだったもので、飼えなかったんです」

 その言葉を聞いて、なるほど、と思った。今の琴葉は、その願い事を叶えているのだ。

「ただ、今にして思えば……」
「ん?」
「いえね。アレルギーなんて我慢して、無理にでも飼ってやればよかった、と……後悔しているんですよね」

 これまで楽しそうに娘について語っていた明穂の表情が、唐突に曇る。俯いて、肩を少し震わせていた。