琴葉(ことは)との初デートを終えてから、二週間の月日が経っていた。学期末の試験は既に終わり、テスト返却期間へと差し掛かっている。これが終われば、夏休みはもうすぐそこだ。
 この二週間で何かが大きく変わったわけではない。
 琴葉は相変わらず海殊(みこと)の家から学校に通っているし、昼休みは彼の教室に来て過ごしているし、登下校も一緒だ。生活そのものは特に変わっていない。
 ただ、変わった事もある。琴葉は海殊の友人達とも馴染んでいて、今では普通に祐樹(ゆうき)達三バカとも話す様になっていた。誰かが『もう敬語なんて使わなくていいよ』と言い始めた事から、いつしか同学年の友人の様になっていた。
 同じクラスの女子が『後輩にタメ語で話させるなんて』と祐樹達に文句を言い始めた事から(おそらく三バカが可愛い下級生をちやほやしているのが気に入らなかっただけだと思うのだが)、昼休みは教室以外で過ごす様になった事も、変わった事の一つだろう。
 それ以外では、家の中にあるものが少し変わった。
 洗面台には可愛らしい歯ブラシやコップがあるし、琴葉専用のスキンケア用品が置かれている。浴室の中には彼女の長く綺麗な髪をケアする為のトリートメントが加わった他、ファンシーな小物や十代女子が好きそうな小物がリビングに少しずつ増えていた。
 それに対して、海殊は一切の拒絶感を感じなかった。むしろ、嬉しさを感じていた程だ。
 海殊に物心がついた頃から、この家では春子(はるこ)と二人で暮らしていた。殆どが母の趣味で、その色が変わる事もなかった。そうして十七年間変わらなかったものが、少しずつ変わってきている気がして、それが嬉しかったのだ。
 きっと、他の誰かによる変化ならば、気に喰わない事も出ていたのだろう。しかし、今ある変化は琴葉によるもので、この家に彼女が住んでいるという実感を湧かせるものだった。嫌であるはずがない。
 今では毎朝起こしにくる彼女も、春子と三人でする食事も、テレビや映画を彼女と共に見る時間も、海殊にとっては必要不可欠なものとなっていた。無論、お風呂上りの琴葉を見てドキドキする気持ちも、彼女から漂う甘い香りも必要不可欠だ。
 刺激的でありながらも穏やかで、満たされた時間──これが、琴葉との同居生活で得たものだった。

「あんた、最近変わったわね」

 琴葉が先に風呂に入っている時だった。春子が唐突にそんな事を言い出した。

「変わったって?」
「んー? なんか、いい顔する様になったじゃんって」

 大きな氷の入ったグラスにウィスキーを注ぎながら、母が答えた。
 春子は翌日の出勤が遅い時間帯である日、こうしてウィスキーを一人で嗜んでいる。海殊はその際の話し相手になる時もあれば、ならない時もあった。最近では琴葉が話し相手になってくれているので、彼としてはそこも若干助かっていた。

「何だそれ。俺は何も変わってないよ」

 海殊はテレビのチャンネルを変えながら、小さく溜め息を吐いた。
 不倫ニュースに対してお金を貰っているであろうコメンテーターが、あまりに当たり前の事しか言わないので嫌気が指したのだ。本当にお茶の間はくだらないネタが好きだ。もっと報道すべき事などあるだろうに。

「言うなら、男の子から男になったって感じ?」
「まだ一杯目だろ。もう酔ってんのかよ」
「残念でした! まだひと口も飲んでませぇん」

 腹が立つ顔をしながら、母が言う。
 海殊も彼女が酔っていない事は知っていた。しかし、何だか悪戯げに息子を見るその顔が気に入らなくて、敢えてそんな物言いをしてしまったのだ。

「うぜえ」

 海殊はそう小さく漏らして、視線をテレビに送った。
 テレビはくだらない番組しかないし、目の前の母親はくだらない事で息子に絡んでくるしで、うざい事しかなかった。
 春子はくすくす笑って、グラスに口を付けた。

「……男が変わる理由は、良くも悪くも女よ」

 暫く無言で酒を嗜んでいたかと思えば、母が唐突にそんな事を言い出した。

「は?」
「男が変わる時には、必ず女がいるの。あなたのお父さんだって、そうだったんだから」

 どこか懐かしむ様にして、母は微笑んだ。
 海殊の父は、彼が物心つく前に病気で他界した。海殊にとって父の記憶はほぼ無いに等しく、生前に撮った写真や動画の中だけでしか見た事がなかった。

「あなたのお父さん、出会った頃は本当にダサくてさー。如何にも彼女いない歴=年齢ですって感じで、会話も面白くなくて。この人はないわーって思ったのよね」

 可笑しそうに言いながら、酷い事を言う。
 もし父の霊というものが存在してこの会話を聞いていたならば、ポルダーガイストでも起こしそうだ。

「でもね……そんなダサかったお父さんが、どんどんかっこよくなっていったの。そんで、いつかあたしの方が好きになっちゃってて、最終的に付き合ったってわけ」

 母は小さく息を吐いて、グラスのウィスキーをほんの少しだけ口に含んでから続けた。

「あの人はね、あたしと出会って変わったの。きっとあたしの気を惹く為に努力してたんでしょうね」

 堅物のくせに可愛いとこあったのよねえ、と母は目を細めた。
 その表情は穏やかで、青々として刺激的だった日々を懐かしむ様に微笑んでいた。
 その表情を見た時、海殊は母が再婚どころか新しい彼氏さえ作らなかった理由を悟った。きっと彼女は、今も尚亡き夫を愛しているのだ。新しい人など考えられない、という程に。

「ま、何せよ……そういう気持ちがあるなら、早めにね」

 春子は表情を神妙なものに変えると、息子を見据えてそう言った。

「え?」
「まさかあんた、いつまでもこの生活が続くと思ってるの? そんなわけないわ。遅かれ早かれ、この生活は終わるのよ」

 からん、と母のウィスキーグラスの中で氷が音を鳴らした。
 そのまま片手でグラスを持って、グラスをくるくると回す。からからと氷の音が、居間に響いていた。
 なるべく考えないようにしていた事だった。だが、それは現実問題として当然だ。
 琴葉は家出をしていて、一時的にうちで預かっているに過ぎない。そもそも、二週間以上何の音沙汰もなくこの生活が続いている事それ自体が奇跡的なのである。
 そして、その終わりはいつ訪れるかわからない。琴葉が帰ると決断した時、或いは彼女の両親が彼女を迎えに来れば、この生活はその瞬間に終わってしまう。
 今は奇跡の様な時間が続いているだけなのだ。

「もちろん、あたしだって琴葉ちゃんは大好きよ? 居てくれるっていうなら、ずっと居て欲しいと思ってるわ」

 少し氷が溶けて薄くなったウィスキーをぐびっと飲み干す。

「でも、そういうわけにもいかないでしょ? あの子にはあの子の帰るべき場所がある。いつかは帰る事になるわ。そこをしっかりと認識しておくべきよ」

 春子はそう言ってから立ち上がると、流しにグラスを置いて「酔ったからお風呂は明日入るわ」と寝室へと行ってしまった。

「そんな事……言われなくても、わかってるさ」

 誰もいなくなった居間で、海殊はそう独り言ちた。