「海殊くん、夕飯何がいい?」
「うーん、何でも」
「その返答が一番困るよ……」

 琴葉(ことは)海殊(みこと)の返事に溜め息を吐いて答えて、野菜を見比べる。
 二人は学校帰りにスーパーに寄っていた。今日は春子(はるこ)が夜勤で帰ってこないので、夕飯を琴葉が作る事になっているのだ。
 ちなみに、お昼のお弁当も琴葉がありあわせで作ったものだった。春子が母親らしさを見せられたのは初日だけで、今日はいつも通り寝ていたのだ。
 春子はプログラマーなのだが、日によっては会社で寝泊まりする事がある。何の仕事をしているのかは海殊もよくわかっていないが、それでも高校生が何不自由なく暮らしていけるだけのお金は稼いでいるので、海殊からすれば感謝する他ない。
 そんな母を慮って、大学は学費の少ない国公立を目指しているし、予備校費用も浮かせたいので、可能であれば推薦で決めたいと思っている。尤も、国公立の推薦枠はかなり少ないので、入試対策も平行して行っている次第だ。家でも夕飯を食べた後は勉強している事が多い。

「あ、そうだ。明日はデートだから、お弁当の材料も買わないといけないんだった」
「ほんとに行く気なのかよ」

 呆れ顔で、海殊が溜め息を吐く。
 どういうわけか、学校内では琴葉と付き合った事になっているし、明日デートをする事になっていた。もはや意味がわからなかった。

「うん、もちろんだよ。明日、午前中は下見にいくんでしょ?」
「そうだった……」

 海殊は項垂(うなだ)れて、スマートフォンのメッセージアプリを開いた。
 そこには『初デートの心得』なるものが長文で祐樹から送りつけられている。デートに行く際は下見にいくだの、予め先に回る予定の場所を見て様子を把握しておくだの、色々書いてあった。
 隣の琴葉も「そうなんだー」と感心しながらそのメッセージを見ていたので、半分くらい下見の意味がなくなっている。
 こういうものは下見をしている事を悟られずに楽しそうに過ごしてもらう事に意味があると思うのだけれども、それを見た琴葉は「じゃあ明日はお昼に駅前に集合しよ?」と提案してきたのだ。そこで海殊の下見をする未来は確定してしまったのである。
 ちなみに場所は『海殊くんの行きたい場所でいい』と全部任されてしまったのだが、それが一番困る解答だ。せめてどこに行きたいとか言ってくれれば、そこに行けばいいだけなのだけれど。

(あ、俺が今夕飯の献立を丸投げしたのも同じようなものか)

 悩まし気に野菜売り場で考えている琴葉の横顔を見て、ふとそう思い至る。

「……俺、今日冷しゃぶがいいな。暑かったし」

 そう言ってやると、琴葉はこちらを見て「わかった!」と顔を輝かせた。
 やはり、こちらから提案してあげた方が嬉しいらしい。

「お弁当のおかずもリクエストした方がいい?」
「うん、その方が嬉しいかも。それにしても、どうしたの?」
「え? 何が?」
「さっきまで『何でもいい』って言ってたのに」

 海殊は「ああ」と頷きながら、レタスを手に取って買い物かごに入れた。

「さっき、デートコースどこでもいいって言われて困ったからさ。夕飯の『何でもいい』ってそれと同じなのかもなって思って」
「確かに!」

 新たな発見だ、とでも言わんばかりに琴葉が手をぽんと叩いた。

「だから、明日どこ行きたいか教えて」

 そして、本題へと持っていく。
 そう、謂わばこの取引をする為の献立提案だ。献立を考える手助けをする代わりに、デートの行先を考えて欲しかったのである。

「それは、海殊くんに考えて欲しいなぁ」

 琴葉は不満げにそう言うと、困り顔で続けた。

「っていうか、ほんと言うと私もわからなかったりして」
「何だそれ」

 海殊が嘆息して琴葉を見ると、彼女はその視線から逃げる様にして野菜の商品棚へと視線を移した。

「だって……デートとか、した事ないし。正解なんてわからないよ」
「じゃあ何であんな事言ったんだよ」

 正解がわからない上に希望のデートもないというのであれば、わざわざ祐樹達の前でデート宣言などしなくても良かったのではないか。ただ海殊をからかう事だけが目的だったのならば、実際にデートをする必要もないはずである。

「ごめん。でも……してみたかったから」

 少しの間を置いて、琴葉がはっきりと言った。
 どうせまた濁されるだろうと思っていたので、海殊は少し驚いて彼女の横顔を見た。
 彼女の視線は商品棚に向けられていたが、その表情は真剣で、それは夕飯を考えている、というものではなかった。後悔や不安、緊張……そういった感情が、確かにそこにはあったのだ。

「……それなら、俺じゃない方が良いだろ。そういうのに疎いし、全然女の子の喜ばせ方なんて知らないし」
「ううん……海殊くんがいい」

 琴葉は恥ずかしそうにはにかむと、そう答えた。

「……そっか。じゃあ、頑張って考えるよ」

 海殊は覚悟を決めて、そう答えた。
 そんな笑顔を見せられたら、期待に応える以外に道はない。全く以てデートなど詳しくはないが、自分にできる精一杯の事をやるしかないだろう。

「うん。明日、楽しみにしてるね」

 琴葉はそんな海殊の返事に満足したのか、嫣然としてそう言ったのだった。
 その言葉と笑顔にむず痒い気持ちを抱きつつも、その甘酸っぱさに心地よさも感じていた。
 なんだかな、と思わないでもない。来年には受験が控えていて──推薦入試に至ってはもうすぐだ──高校最後の夏休みも目前に迫っている。
 そんな自分が、下級生の女の子に引っ張り回されていても良いのだろうか。ただ、どうしてか悪い気はしない。(あまつさ)え楽しいと思えてしまっている次第だ。

(ま……勉強なら別にちゃんとやればいいか)

 明日のお弁当の献立を楽しそうに考える琴葉の横顔を見ると、海殊はその様に考えてしまうのだった。