「紬……かい? 紬なのかい?」
 
 信じられないと言う風に呟く桔梗さまに、頭を強く縦に振る。
 わたしも信じられない。
 桔梗さまが目の前にいるってことが、未だに呑み込めない。

「なんで紬がここに……?」
「ずっと会いたかったんです。桔梗さまに。だから、ずっといい子にしてました。10年かけて、桔梗さまに会う方法を見つけて……、わたし、頑張ってここまで辿り着いたんですよ」

 わなわな震える唇で、言葉を紡ぐ。
 
「危ないと言ったろう? あやかしは、人を喰らう」
「それは十分分かってます。それでも桔梗さまに会いたかったんです」

 桔梗さまは、わたしをじっと見つめて、迷うように視線をそらす。
 そして、はぁっとため息をついて、

「直ぐにひとの世へ帰そう。それがぼくの役目だ。しかし……紬は怪我をしすぎている。しばらく、ぼくの家で休むとしようか」

仕方ないね、と笑った。

          *

「ここが、桔梗さまの家……!」

 案内された、木造造りの立派な家。
 大広間に茶室や居間、寝室、桔梗さま1人では広すぎるくらいの大きなお屋敷だ。
 居間を覗いてみると、机がひとつ。
 となりの部屋に至っては、物がない。
 生活感ゼロだけど、桔梗さま、ほんとに生きてらっしゃるのだろうか。
 となりを見上げると、彼はあぁ、と苦笑い。

「ぼく1人じゃ広すぎて、とても使えないよ。それに、ぼくはこの家に住めるほどのあやかしじゃない」
 
 どこか陰った彼の顔に、少し違和感を感じる。

「……桔梗さま、お疲れですか? 少し休んだ方がいいんじゃ……」
「じゃあ、縁側に行こうか。ぼくのお気に入りの場所だよ」

 縁側は、日が差し込んでぽかぽか暖かい。
 桔梗さまは縁側に座り込んで、庭の池で泳ぐ鯉を見つめる。
 その太陽の光を受けてきらめく姿があまりにも美しくて、うっとりしてしまう。
 桔梗さまに見惚れていたら、気付いてしまった。

「桔梗さま、怪我してますよ。わたしの心配より先に、自分のこと心配してください」

 手首を走る赤い線。
 桔梗さまは優しいから、自分のことを後回しにしてしまう。
 いつか大怪我してしまうんじゃないかって心配だ。

「あぁ、これはね。大丈夫だよ」
「大丈夫じゃないですよ! 絆創膏探してきますね。勝手に棚を漁ること、お許しくださいっ」
 
 残念ながら、常に絆創膏を携帯してるほど、わたしは女子力が高くない。
 縁側の後ろにある障子に手をかけると、

「紬、そこは開いてはならないよ」
「へっ?」

 桔梗さまに静止されるけど、そのまま障子は開いてしまう!

「こ、これは……」

 障子を開いたとたん、紙の雪崩が起こる。
 その紙を拾い上げると、幼いわたしの字。
 真ん中にある文机のまわりには、本や紙や筆、とにかくいろいろなものが転がっている。
 
「もしかして桔梗さま、ずっと置いてたんですか……!?」
「だめかい?」
「だめですっ! ちゃんとお片付けもしてください! 散らかり放題ですよ」
「あぁ、すまないね。まぁしかし、これでも生きていけるから大丈夫さ。えぇと、絆創膏だったかい? そこの棚のいちばん上に入っていたかな」

 大丈夫じゃないですよ、と返しながら物をのけて、棚までの道を作る。
 背伸びをして棚の上に手を伸ばす。
 だけど、桔梗さまサイズの棚、小柄なわたしの手が届くわけもない。
 思いきり背伸びをした瞬間、今日のためにと着てきた袴の裾を踏んづけた!
 そして、そのまま視界が傾いていく──っ!

「危ない!」

 思わずぎゅっと目を瞑る。
 衝撃を感じる──はずが、全然痛くない。
 強く閉じた目を開くと、目の前に、桔梗さまの真剣な瞳。

「こら。危ないだろう。頭を打つところだったよ」

 桔梗さまの腕の中で、お説教を受ける。

「ぼくは紬を守るけれど、あまりに危険なことをされては、守りきれない。お願いだから、ひやひやさせないでおくれ」

 わたしを抱きしめる手に、ぎゅっと力がこもる。
 こんなときに、思っちゃいけないことなのもしれないけど。
 桔梗さまの真剣なお顔は、とても美しい。
 そのお顔をわたしだけに向けてくださってると思うと、嬉しさがあふれてくる。

「しかし、今回はぼくにも非があるね。あんなに高い場所、紬に届くはずがないと気がつくべきだった。それに……部屋が散らかっていては、さらなる怪我をしかねない──って、ちゃんと聞いているだろうね?」
 
 桔梗さまは、わたしの表情を確認しようと、顔を寄せてくる。
 もう十分近いのに、これ以上近付いたら、わたしの心臓が持たない……っ!
 思わずのけぞるも、わたしは桔梗さまの腕の中。
 彼はわたしを逃さずに、まつ毛がふれそうな距離まで顔を近づけた。
 とたん、桔梗さまは苦い顔になる。
 そして、わたしから離れて、縁側へ戻ってしまった。

「ど、どうかしましたか?」
「……紬、なにか持っていないかい? 植物系の、何か」

 むせながら言う彼に、思考を巡らせ──あ、と思い当たった。
 提げたままだったがまぐちポシェットを開いて、“それ”を取り出す。

「渡し忘れてました! 柊の花束……というか、枝です。桔梗さま、植物が好きだとおっしゃっていたでしょう? ちょうど、鳥居の近くに咲いていて、桔梗さまにお渡ししようと思ってたんです」
「ありがたいんだけれど……遠くへやってくれないか。それは、魔除けの植物だ。つまり、あやかしを退けるもの。あやかしが苦手な香りだ。すまないね」
「すみません! よく知らないまま……」
「いや。紬がここまで辿り着けたのは、なぜかと不思議に思っていたが。柊を持っていたのなら、説明がつくね。きみは本当に運がいい」

 柊をごみ箱に放ると、桔梗さまは、ほっとしたような笑みを浮かべてわたしを手招いた。

「少し疲れたね。しっぽ、まくら代わりにするかい?」
「いいんですか!? ありがとうございます」

 久しぶりに触れた桔梗さまのしっぽは、やっぱりもふもふで、あたたかかった。