*
あまりの暴風に、桔梗さまと雪さんがじりりと引き下がる。
渦巻く風に舞う木の葉。あたり一面に立ちこめる砂埃。
それに覆われ、隠されるように迫ってくる監視人はすごく不気味だ。
「やぁ。何年振りかね。すっかりひとに染まってしまったな」
「983年振りだ。あぁ、ただひとを喰う冷酷なあやかしより、あたたかな心を持つひとに染まる方が本望だよ」
「そうか。ならば、ひとであるお前も殺さなければ」
983年振り。
つまり、いま目の前にいるのは。
桔梗さまを苦しめ続けた、彼女を殺した、元凶──!
心なしか、桔梗さまの声が震えているような気がする。
桔梗さまの心を想像するだけで、胸が締め付けられる。
「ひとはどこへ行ったのだ。早くよこせ」
「さぁ? そう簡単に手渡すものか。彼女はとうに帰ったよ」
「嘘をつくな。ひとの匂いがするぞ」
「それより先に、姿を現したらどう? もしかして、怖気付いてるのかしら」
「わしを馬鹿にするとは、殺されたいのか!」
ぴたりと止んだ砂埃の代わりに、空気が肌に突き刺さる。
月明かりに照らされて、こちらへ歩み出てきた天狗。
話に聞いた通り、桔梗さまと雪さんが小さく見えるほどの大きさだ。
天狗が姿を現した途端、空が白く光る。
その数秒後、雷鳴が轟いてすぐそこの木の幹が燃え上がった。
「わしは天気をも操れる。自然などわしの手の中だ。いっその事、全て焼き尽くしてしまうか。小娘も死に、お前たちも片付けられる。一石二鳥じゃないか」
天狗の大きな団扇に火が灯る。
その団扇を振り回し、あたりの草木を燃やしていく天狗。
遠く離れていても、燃え盛る火の熱気を感じる。
すると、雪さんが力なく座り込んだ。
「すみません、送り犬さま。わたし、火に弱く……」
「雪女なのだから、仕方がないよ。回復したら、火を止められるかい? このままでは山火事になりかねない」
「承知いたしました」
2人は背中を預けあい、桔梗さまは天狗に、雪さんは炎に向かう。
雪さんはまだ本調子ではないけれど、それでも火を消していっている。
桔梗さまは天狗に飛びかかり、団扇を引き裂いた!
その瞳は、ギラギラと強く紅い色に染まっている。
怒っているのかもしれない。
彼女を殺した監視人に。そして、彼女を守りきれなかった自分自身に。
その怒りが身体を突き動かすのか、山の神の大天狗と互角に戦っている。
大天狗が苦い顔を見せたとたん、パチンと指を鳴らす音。
この音、どこかで聞いた。
烏天狗が桔梗さまを空に放り投げたときだって思い出した瞬間、あたりが暗く陰った。
「……え……?」
見上げると、そびえ立つ巨人。
大きな目が、ぎょろりとわたしを見つめた──ような気がした。
どうして巨人がいるのか、天狗が消えたのは何故か。そして、桔梗さまはどこに行ったのか。
頭の中をたくさんの疑問が渦巻いて、何も考えられない。
「送り犬さま!」
雪さんは鋭い声を上げて、巨人に向かって走り寄っていく。
そして、身体を小さくかがめ、巨人の腕に飛び乗った!
彼女が駆け行く先には──巨人の手の中でもがく桔梗さま。
彼女は細い腕をあたりに伸ばし、巨人の身体を凍らせていく。
だけど、大きな巨人の身体少しを凍らせたところで、どうにもならなくて。
それどころか、桔梗さまを握る手に力がこもっていくように見える。
「ゆ……な、や…ろ、きて……ない!」
桔梗さまが悲痛な叫び声を上げる。
はっきりと聞き取れなかったけど、相当焦ってる?
2人の痛ましい表情を見ると、心臓が潰れそうなほど苦しい。
と、視界を赤いカーテンが覆った。
違う。カーテンなんかじゃない。
炎だ。巨人の身体自体が燃えてるんだ。
つまり、火を操れるこの巨人は、大天狗──!
突然の炎によろめき、雪さんが地面に叩きつけられる。
彼女をかばおうと、桔梗さまは鋭い歯を見せ巨人に噛み付く。
桔梗さまは、思わず手を緩めたその隙間から地面に着地!
でも、雪さんに気を取られたその僅かな時間、天狗が桔梗さまの足を引き裂かれたはずの団扇で鋭く切り裂いた!
うめき、地面にうずくまる桔梗さま。
血だらけになった2人を見ると、身体がわななく。
2人が倒れて動けないのを狙って、大天狗が団扇を振り下ろす!
見覚えのある景色。
桔梗さまの心に深く傷をつけた、あの時とまったく同じだ──!
桔梗さまの怯えて絶望した表情に、呼吸が浅くなる。
2人が目の前で殺される恐怖と、わたしが死ぬ恐怖。
その2つを天秤にかけたら、2人が殺されてしまう方が、ずっとずっと重い。
自分だけ安全なところで隠れてるなんて、我慢できません、桔梗さま。
震える足を叩いて、自分を鼓舞する。
そこからは、自分じゃない誰かが動いてるような、不思議な気分だった。
2人の前にかばい立つ。
ぐんぐんと迫ってくる団扇。
「もうやめて! 桔梗さまと雪さんはなんにも悪くない! あなたが殺すのは、幾見紬、わたしだけだっ!」
神さま、どうか聞いてください。
お願いします。
桔梗さまと雪さんを、生かして……!
わたしはどうなったっていいから。この願いを叶えてもらったら、なんだってするから!
団扇がわたしに届くまで、3m、2m……
ぎゅっと目を閉じて、衝撃に備える。
真っ暗な視界の中、浮かんでくる桔梗さまの笑顔。
最期に、もう1回名前を呼んでほしかったなぁ。
暴風で前髪が乱れる。
もう死ぬと思ったその瞬間。
またパチンと音が鳴り、目を開けると小さくなった天狗がわたしの首筋に団扇を突きつけていた。
「面白いことを思いついたぞ、送り犬。こいつを守り抜くんだろう? そう言うなら、やってみろ」
そう言った天狗に肩を強く押され、尻餅をつく。
桔梗さまがわたしの上に覆いかぶさる。
雪さんの悲鳴が耳に飛び込んでくる。
桔梗さまがわたしを捉える紅い瞳からは、優しい色なんて消え去っていて。
鋭い牙を見せ、光を失った目がわたしを睨む。
ふと、頭の中を送り犬の伝承がよぎった。
──送り犬は、家に帰ろうとするひとに着いてきて守ってきてくれる。しかし、そのひとが転けた場合は喰い殺す。
天狗の言った『面白いこと』は、わたしを転かして桔梗さまに喰わせること……!?
「お願いです、落ち着いて! わたしだよ。紬だよ……!」
桔梗さまが、わたしの腕を強く掴む。
力加減なしに握りしめられて、腕が千切れてしまうんじゃないかってほど痛い。
「やはりお前もひとを喰う冷酷なあやかしだな。本能には抗えまい」
「あなたより、桔梗さまの方が何倍も何倍も優しい! 桔梗さまを馬鹿にしないで!」
「お前がなんと言おうと、そこにいる化け物が全てを表しているだろう」
桔梗さまのよだれが滴る。
彼に押さえつけられて、息が苦しい。
手を押し返そうとしたけど、桔梗さまの力強さには勝てず、力無く手を下ろす。
「お願い、負けないで……! いつもの優しいあなたに戻って! お願い、桔梗さま……っ!」
ぼろぼろと零れ落ちたのは、よだれじゃなくて、桔梗さまの涙。
涙でうるんだ瞳は、禍々しくて、悲しげで。
彼は苦しそうにうなり、胸の辺りを握りしめる。
桔梗さま、抗っているんですか。
あやかしとしての“本能”と、桔梗さまとしての“感情”と。
「桔梗さま、耐えて……!」
桔梗さまは、わたしを掴んでただ涙を流す。
その手を掴んだ瞬間、桔梗さまはわたしの手を振り払った。
そしてそのまま、わたしを突き放す。
大きな水の音がした。
ごぽっと口から溢れていく泡。
視界が全部、青い。
嘘でしょ、桔梗さま。
わたしのこと、川へ放り投げたんですか……?
袴が水を含んで重い。
どうもがいても、身体が水に沈んでいく。
どんどん遠のいていく意識の中、小さな葉っぱのようなものが舞い降りてくる。
手を伸ばすけど、あぁ、だめだ。届かない。
深い深い川の底でさいごに聞こえたのは、すまない……という低く呟く声だった。
あまりの暴風に、桔梗さまと雪さんがじりりと引き下がる。
渦巻く風に舞う木の葉。あたり一面に立ちこめる砂埃。
それに覆われ、隠されるように迫ってくる監視人はすごく不気味だ。
「やぁ。何年振りかね。すっかりひとに染まってしまったな」
「983年振りだ。あぁ、ただひとを喰う冷酷なあやかしより、あたたかな心を持つひとに染まる方が本望だよ」
「そうか。ならば、ひとであるお前も殺さなければ」
983年振り。
つまり、いま目の前にいるのは。
桔梗さまを苦しめ続けた、彼女を殺した、元凶──!
心なしか、桔梗さまの声が震えているような気がする。
桔梗さまの心を想像するだけで、胸が締め付けられる。
「ひとはどこへ行ったのだ。早くよこせ」
「さぁ? そう簡単に手渡すものか。彼女はとうに帰ったよ」
「嘘をつくな。ひとの匂いがするぞ」
「それより先に、姿を現したらどう? もしかして、怖気付いてるのかしら」
「わしを馬鹿にするとは、殺されたいのか!」
ぴたりと止んだ砂埃の代わりに、空気が肌に突き刺さる。
月明かりに照らされて、こちらへ歩み出てきた天狗。
話に聞いた通り、桔梗さまと雪さんが小さく見えるほどの大きさだ。
天狗が姿を現した途端、空が白く光る。
その数秒後、雷鳴が轟いてすぐそこの木の幹が燃え上がった。
「わしは天気をも操れる。自然などわしの手の中だ。いっその事、全て焼き尽くしてしまうか。小娘も死に、お前たちも片付けられる。一石二鳥じゃないか」
天狗の大きな団扇に火が灯る。
その団扇を振り回し、あたりの草木を燃やしていく天狗。
遠く離れていても、燃え盛る火の熱気を感じる。
すると、雪さんが力なく座り込んだ。
「すみません、送り犬さま。わたし、火に弱く……」
「雪女なのだから、仕方がないよ。回復したら、火を止められるかい? このままでは山火事になりかねない」
「承知いたしました」
2人は背中を預けあい、桔梗さまは天狗に、雪さんは炎に向かう。
雪さんはまだ本調子ではないけれど、それでも火を消していっている。
桔梗さまは天狗に飛びかかり、団扇を引き裂いた!
その瞳は、ギラギラと強く紅い色に染まっている。
怒っているのかもしれない。
彼女を殺した監視人に。そして、彼女を守りきれなかった自分自身に。
その怒りが身体を突き動かすのか、山の神の大天狗と互角に戦っている。
大天狗が苦い顔を見せたとたん、パチンと指を鳴らす音。
この音、どこかで聞いた。
烏天狗が桔梗さまを空に放り投げたときだって思い出した瞬間、あたりが暗く陰った。
「……え……?」
見上げると、そびえ立つ巨人。
大きな目が、ぎょろりとわたしを見つめた──ような気がした。
どうして巨人がいるのか、天狗が消えたのは何故か。そして、桔梗さまはどこに行ったのか。
頭の中をたくさんの疑問が渦巻いて、何も考えられない。
「送り犬さま!」
雪さんは鋭い声を上げて、巨人に向かって走り寄っていく。
そして、身体を小さくかがめ、巨人の腕に飛び乗った!
彼女が駆け行く先には──巨人の手の中でもがく桔梗さま。
彼女は細い腕をあたりに伸ばし、巨人の身体を凍らせていく。
だけど、大きな巨人の身体少しを凍らせたところで、どうにもならなくて。
それどころか、桔梗さまを握る手に力がこもっていくように見える。
「ゆ……な、や…ろ、きて……ない!」
桔梗さまが悲痛な叫び声を上げる。
はっきりと聞き取れなかったけど、相当焦ってる?
2人の痛ましい表情を見ると、心臓が潰れそうなほど苦しい。
と、視界を赤いカーテンが覆った。
違う。カーテンなんかじゃない。
炎だ。巨人の身体自体が燃えてるんだ。
つまり、火を操れるこの巨人は、大天狗──!
突然の炎によろめき、雪さんが地面に叩きつけられる。
彼女をかばおうと、桔梗さまは鋭い歯を見せ巨人に噛み付く。
桔梗さまは、思わず手を緩めたその隙間から地面に着地!
でも、雪さんに気を取られたその僅かな時間、天狗が桔梗さまの足を引き裂かれたはずの団扇で鋭く切り裂いた!
うめき、地面にうずくまる桔梗さま。
血だらけになった2人を見ると、身体がわななく。
2人が倒れて動けないのを狙って、大天狗が団扇を振り下ろす!
見覚えのある景色。
桔梗さまの心に深く傷をつけた、あの時とまったく同じだ──!
桔梗さまの怯えて絶望した表情に、呼吸が浅くなる。
2人が目の前で殺される恐怖と、わたしが死ぬ恐怖。
その2つを天秤にかけたら、2人が殺されてしまう方が、ずっとずっと重い。
自分だけ安全なところで隠れてるなんて、我慢できません、桔梗さま。
震える足を叩いて、自分を鼓舞する。
そこからは、自分じゃない誰かが動いてるような、不思議な気分だった。
2人の前にかばい立つ。
ぐんぐんと迫ってくる団扇。
「もうやめて! 桔梗さまと雪さんはなんにも悪くない! あなたが殺すのは、幾見紬、わたしだけだっ!」
神さま、どうか聞いてください。
お願いします。
桔梗さまと雪さんを、生かして……!
わたしはどうなったっていいから。この願いを叶えてもらったら、なんだってするから!
団扇がわたしに届くまで、3m、2m……
ぎゅっと目を閉じて、衝撃に備える。
真っ暗な視界の中、浮かんでくる桔梗さまの笑顔。
最期に、もう1回名前を呼んでほしかったなぁ。
暴風で前髪が乱れる。
もう死ぬと思ったその瞬間。
またパチンと音が鳴り、目を開けると小さくなった天狗がわたしの首筋に団扇を突きつけていた。
「面白いことを思いついたぞ、送り犬。こいつを守り抜くんだろう? そう言うなら、やってみろ」
そう言った天狗に肩を強く押され、尻餅をつく。
桔梗さまがわたしの上に覆いかぶさる。
雪さんの悲鳴が耳に飛び込んでくる。
桔梗さまがわたしを捉える紅い瞳からは、優しい色なんて消え去っていて。
鋭い牙を見せ、光を失った目がわたしを睨む。
ふと、頭の中を送り犬の伝承がよぎった。
──送り犬は、家に帰ろうとするひとに着いてきて守ってきてくれる。しかし、そのひとが転けた場合は喰い殺す。
天狗の言った『面白いこと』は、わたしを転かして桔梗さまに喰わせること……!?
「お願いです、落ち着いて! わたしだよ。紬だよ……!」
桔梗さまが、わたしの腕を強く掴む。
力加減なしに握りしめられて、腕が千切れてしまうんじゃないかってほど痛い。
「やはりお前もひとを喰う冷酷なあやかしだな。本能には抗えまい」
「あなたより、桔梗さまの方が何倍も何倍も優しい! 桔梗さまを馬鹿にしないで!」
「お前がなんと言おうと、そこにいる化け物が全てを表しているだろう」
桔梗さまのよだれが滴る。
彼に押さえつけられて、息が苦しい。
手を押し返そうとしたけど、桔梗さまの力強さには勝てず、力無く手を下ろす。
「お願い、負けないで……! いつもの優しいあなたに戻って! お願い、桔梗さま……っ!」
ぼろぼろと零れ落ちたのは、よだれじゃなくて、桔梗さまの涙。
涙でうるんだ瞳は、禍々しくて、悲しげで。
彼は苦しそうにうなり、胸の辺りを握りしめる。
桔梗さま、抗っているんですか。
あやかしとしての“本能”と、桔梗さまとしての“感情”と。
「桔梗さま、耐えて……!」
桔梗さまは、わたしを掴んでただ涙を流す。
その手を掴んだ瞬間、桔梗さまはわたしの手を振り払った。
そしてそのまま、わたしを突き放す。
大きな水の音がした。
ごぽっと口から溢れていく泡。
視界が全部、青い。
嘘でしょ、桔梗さま。
わたしのこと、川へ放り投げたんですか……?
袴が水を含んで重い。
どうもがいても、身体が水に沈んでいく。
どんどん遠のいていく意識の中、小さな葉っぱのようなものが舞い降りてくる。
手を伸ばすけど、あぁ、だめだ。届かない。
深い深い川の底でさいごに聞こえたのは、すまない……という低く呟く声だった。