3人で山道を駆け降りる。
 わたしの手を強く掴んだ桔梗さまは、何かを覚悟した、ひどく険しい顔。
 雪さんも唇を噛み締めている。
 そんな2人を見ていたら、宿でのことを思い出してしまった。


『追手……監視人か』
 
 桔梗さまの笑顔は、すとんと抜け落ちた。
 その後すぐ、わたしを安心させるように笑ってくださったけれど、偽物の笑みだった。
 無理やり上げた口角が引きつって、唇が震えていたから。

『なぜ監視人などが出てくるのですか。紬はこの世を乱してないわ』

 わたしに聞こえないように、彼は雪さんに耳打ちした。
 紬は、当選者だ──と。
 聞かないようにしていたけど、聞こえてしまったその声。
 それを聞いた雪さんは、そんな……と呆然と呟いた。
 当選者は。あのチケットを手にした者は。
 ただ、あやかしの世に来られるだけだと思っていたけど、違ったみたいだ。
 危険な何かが迫っているんだと、悟ってしまった。
 
『行こうか。善は急げだ』

 暗い顔のわたしに、桔梗さまは笑いかけた。だけど、それも偽物の笑顔だった。


「紬、そんなに気に病むな。ぼくが守ると言ったろう?」
「そうよ。送り犬さまは、強いあやかしだから。それに私もいるわ。安心していいのよ」

 2人は、わたしを元気付けるように優しい言葉をかけてくれる。
 でも、宿でいたときみたいに、心からのあたたかさじゃない気がして。
 いろんな感情が一気に襲って来て、胸をチクチク突き刺す。

「桔梗さま、わたしにも──」
「伏せろ!」
 
 桔梗さまの鋭い声が響く。
 彼の腕の中に引き込まれる。
 風を切り裂いて、金属の細長い何かが木に突き刺さった。
 桔梗さまが助けてくださらなかったら、わたしに突き刺さっていたと思うとゾッとする。

 バサバサと羽音が聞こえる。
 あたりが陰る。
 木の下の陰り方じゃない、恐怖心を煽るような鈍い黒色の影。
 心なしか、空気がピリピリして、息を吸うのが苦しい気がする。

「雪女。紬のことは頼んだよ」
「承りました。紬のことは守ります」

 桔梗さまの腕が離れていく。
 代わりに、雪さんがわたしを抱きしめた。
 桔梗さまはあいた腕で、木に刺さった棒を引き抜く。

錫杖(しゃくじょう)……やはり、烏天狗か」

 桔梗さまの視線を追って、空を見上げると、長い鼻をした赤い顔が、わたしをギロリと睨みつけた。
 羽音の正体は、彼の大きな翼だったみたいだ。
 
「天狗に襲われるなんて、運が悪いわ」
「天狗ってそんなに強いんですか?」
「天狗は山の神よ。いくら山の長の送り犬さまでも、歯が立たない」

 桔梗さまに目をやると、彼は錫杖を手に、身体をかがめた。
 まさか、空を飛ぶ烏天狗のところまで行く気なの?
 桔梗さまは、羽を持っていないのに──!
 
「桔梗さまっ! お願いです。無理だけはしないで」
「あぁ、大丈夫だ。すぐ片付ける」

 彼は、かがめた身体をバネにして、木の枝に飛び移る。
 背中に羽が見えるほど、軽やかに、舞うように。
 一瞬の間で、桔梗さまは烏天狗の近くの枝に飛び乗った。
 そして、錫杖を烏天狗の首に突き付ける!

「さぁ、今すぐ失せろ」
「失せろと言われても、俺はお前たちを殺せと命じられている。お前、本調子ではないな? 俺の事を舐めておるのか!」

 烏天狗が葉の団扇を一振り!
 すると、暴風が吹き荒ぶ!
 あまりの強さに、桔梗さまが体制を崩した。
 このままじゃ、頭から地面に叩きつけられる──!
 飛び出そうとしたわたしを、雪さんが手で抑えた。

「雪さんっ!? 離してください! このままじゃ桔梗さまが!」
「私に任せて」

 雪さんが空に手を掲げる。
 すると、ヒュウヒュウと風が鳴りだして、吹雪の渦が生まれた。

「送り犬さまっ! 少し冷たいですが、辛抱くださいませ!」

 地面に迫る桔梗さまの背中が、ぐいっと押し上げられた。
 そしてそのまま、桔梗さまは木の枝につかまった。

「ありがとう、雪女」

 彼は一瞬だけ穏やかな表情を浮かべて、また冷ややかな目で敵を眺める。

「よくも突き落としてくれたね」
「殺しにかかっているのだ。吹き飛ばされたくらいでほざくな」
「じゃあ、ぼくも本気でいかせてもらおうか」

 桔梗さまの目が紅く染まった。
 鳥肌が立つような、禍々しい色。
 温度のない瞳が、烏天狗を睨む。
 そして、大きく飛びかかり、烏天狗の胸ぐらを掴む!
 桔梗さまが、鋭い爪で烏天狗を引っかく。
 ──その直前で、桔梗さまの体が宙に浮いた。

「あいつ、仲間を呼んだのね……! なんてずるい奴……!」

 雪さんの言葉で、何が起こったのか、やっと理解できた。
 もう1匹の烏天狗がやって来て、足で桔梗さまを掴んでいる……!
 鳥の足の尖った爪が食い込んで、桔梗さまがうめく。

 雪さんが凍てつくような氷の風を烏天狗に浴びせる。
 でも、羽先を掠っただけだ。
 わたしが目を逸らしたその隙に、団扇で遠くまで吹き飛ばされる!
 そのままの勢いで、強く木の幹にぶつかった。

「痛っ……!」

 目を開けると、雪さんが遠くの木の側でぐったりしているのが見えた。
 真っ白な着物が土で擦れてぼろぼろだ。
 烏天狗たちは、桔梗さまを爪で引っ掻き、くちばしで髪を引っ張り、暴風を浴びせる。
 桔梗さまを助けたいのに、わたしはただ、それを見つめることしかできない。
 わたしに妖術が使えたら……!
 無力感に苛まれながら、手を握りしめる。
 
 と、抵抗していた桔梗さまの手が、力無く垂れ下がった。
 烏天狗を睨んでいた顔も、かくんと下を向く。

「もう気を失ったのか? 弱々しい奴め。面白くないな。捨ててしまえ」

 烏天狗が桔梗さまを掴む足を離す。
 同時に、パチンと指を鳴らすような音が聞こえた。

「桔梗さまっ!」

 気付けば、駆け込んで宙へ投げ出された桔梗さまを受け止めていた。
 身体に大きな衝撃。
 落ちて来た彼は、ひとの姿ではなく、犬の姿。
 白い毛並みが所々血で赤く染まっている。
 桔梗さまは、目を開けない。
 声も出さない。身体も動かさない。
 そんな彼の様子を見て、烏天狗は飛び去っていく。

「すみません、桔梗さま……」

 ──わたしのせいで。
 わたしのせいで、桔梗さまも雪さんもボロボロだ。
 地面に倒れ伏す彼らの姿は痛々しい。
 だけど、自分を見下ろしても、ほぼ無傷。
 わたしを守らなかったら、2人はあんなに傷付かなかったよね。

 きゅっと握りしめていた桔梗さまの手を離して、地面に置く。

「さよなら、桔梗さま」

 わたしは、もうあなたの元を去ります。
 人間なんて、足手まといでしかないんだから。
 せめて、わたしに妖術が使えたらなぁ。
 なんて、叶うはずのない願いを胸に抱きながら。
 もう最後になるであろう、2人の顔を見つめて、山の麓へ向かった。