② 

わたしは目の前にある素敵な靴をじっと見ていた。

さっき欲しいなと思いながら買わずに通り過ぎた。やっぱり欲しくなって無意識にこの店に戻ってきたのだろうか。

母と別れて車に荷物を置きに行ったあと、リピートの更新通知が来て、それから……。続きが気になりすぎてぼうっとしていたのか、少し記憶が飛んでいるような気がする。

でも目の前にある靴はやっぱり魅力的で、さっきもさんざん悩んで保留にしたところだった。試着してみて決めよう。わたしは履いていたスニーカーを脱いで、その靴に足を入れようとして違和感を感じた。

全く入る気がしない。

足が大き過ぎるのだ。サイズは23.5。いつも買っているサイズなのに、よく見れば履いていたスニーカーにも見覚えがない。

試着用のスツールに座っていたわたしは思わず立ち上がって自分の足を見下ろした。その視点に軽くめまいを覚えた。

「サトシ、何やってんの? それ、女物だけど……。まさか女装癖に目覚めたとか……?」

声がした方を向いて、知らない男性と目があった。

「えっ」

 思わず口から漏れた声の低さにも驚いて、口を両手で抑えた。

「どうした? 気分でも悪いのか?」

心配そうに覗き込んでくるその人は、どうもわたしをサトシさんだと思っているようだ。

人違いです、そう言おうとした時、視界に入ったものが鏡に映った自分の姿だと、わたしは何故思ったのだろう。

驚きに目を見張る男性(・・)がそこにいた。
短い髪、日に焼けた肌、黒いTシャツに七分丈のカーゴパンツ。

がっしりした肩や二の腕は、アメフトとかラグビーの選手のようだ。

思わず腰が抜けて後ろに倒れそうになった。再び試着用のスツールに座り込む形になって転ばずに済んだけれど、心臓はバクバクと暴れるし頭が混乱して何が何か分からない。

「おい、本当に大丈夫かよ。顔色悪いぞ」

尚も心配そうに近付いてくる相手を、わたしは呆然と見上げる。

そしてはっと気が付いて通路へ走り出た。実際にはフラフラと慣れないコントローラーで操るゲームのキャラクターみたいな動きで。

「おい、サトシ! どうしたんだよ?」

この体の持ち主の友人らしいその人に、わたしはすがるような目を向けた。

「さっき、誰か落ちなかった?」

「は?」

「だから、さっき三階から人が落ちなかった?」

「何変なこと言ってんの? さっきから変だぞ、おまえ」

その時、わっと巻き起こる拍手が聞こえ、一階では今もご当地アイドルのイベントが何事もなかったように行われていることを知った。

震える足を引きずって手すりに掴まる。

ステージを取り囲む人々の群れは一様にステージを向いている。

わたしが落ちたであろうと思われる場所にも、横たわる人の姿は見えない。

さっきと同じ曲のサビを聴きながら、足はエスカレーターへ向かう。

三階の自分がいた場所へ行って確認しなきゃ。
自分のではない大きな足はふわふわと雲を踏むように覚束無い。

それでも走った。

人混みをかき分けて、たどり着いたその場所で。
わたしの体は手すりのこちら側に倒れていた。

数歩手前で足が止まる。

あれは本当に自分だろうか。

わたしの意識は今、この名前も知らない男性の中にあって、自分を見ている。

こんなおかしな状況に、いったいどう対応したらいいのか、何かを考える余裕なんてとっくに失っている。

その時わたしの横をすり抜けて、わたしに駆け寄る母を見ていた。

(よう)ちゃん、燿ちゃん……!」

わたしを呼ぶ母の声。

抱き起こされても、目を閉じたままぐったりしたわたしの体。

花巻 燿子。それがわたしの名前。

「お、おい、サトシ!」

後ろでこの体の持ち主の名前を呼んでいる声がする。

自分の体の傍にゆっくりとしゃがみこむ。母と向かい合う位置で、いつもより小さく見えるその姿に、

「お母さん」

……お母さん、わたしはここにいるよ。

内心で叫んでみても、母に伝わるはずはない。

ぐったりとして目を閉じている自分の顔は、いつも鏡で見ている顔よりずっと他人のようだった。

サトシさんがどこの誰かは分からないけれど、花巻燿子のことは誰よりも知っている。

わたしは咄嗟に友人のフリをした。

そのまま病院へ付き添い、母の隣で検査結果を待っている。

医学的に今の状態が解明できるのなら、是非教えて欲しい。わたしがわたしの体に戻る方法を。

自分の体にこれといって好きなところなんかない。

自分の体に戻りたいと思うようなスペックは何一つ持っていないのに。

目の前の体が何故か愛おしくて、体から追い出されてしまったわたしは悲しくて、泣きたい気持ちでいっぱいだった。

母に名前を呼んでもらってる自分に嫉妬してしまいそうなほどだった。

戻る方法が分からなければ、どうすればいいんだろう。

このまま、このマッチョなサトシという人の体で生きていくんだろうか。

それとも、体が死んでしまったら、わたしも消えてなくなるのかな。

もう、母と話すことはできないのだろうか。

今、この現状を母に打ち明けようかと、さっきから何度も考えている。

でも、きっと信じられないだろう。

それに、わたしはいったいどこに帰ればいいんだろう。

その時、ズボンのポケットでスマホが振動しているのに気付いた。

慌てて病室を出る。

ディスプレイには「あけのん」と表示されている。

自分のスマホじゃないんだから、あけのんが誰のことか分かるはずもない。

しばらくすると振動が止まった。

数秒後、メッセージが届いた。
『大丈夫か? 車どうする? 』

廊下の白い空間に弱々しく充ちた蛍光灯の光に、外が暗くなっていることに気付いた。

のろのろと握りしめていたスマホの時計を確認すれば、もう夜の八時を回っている。

消灯時間になったら病院(ここ)を出ていかなくてはいけない。

母はどうするのだろう。一度家に帰るにしても、車はショッピングセンターに置きっぱなしだった。

一人で運転、大丈夫だろうか。ぼんやりして母まで事故にあったらどうしよう。

とめどなく浮かぶいろいろな考えに耽っているうちに、返信していなかった(あけのん)から再びメッセージが届いた。

『今からそっち迎えに行く』

サトシさんの手から投げられたキーホルダーが、あの時一緒にいた男性の手にキャッチされる映像が浮かぶ。

(じょう)、心肺停止だ! AEDを頼む!」

「店員の方いますか! 救急車お願いします」

母の腕の中のわたしは、その時息をしていなかった。

わたし、死んだんだ……。

「退いてろっ!」

自分が幽霊になったことを悟った瞬間、ふわりと体が浮いてサトシさんの頭上にいた。

サトシさんがわたしの胸に手を置く。軽く重ねた手がリズミカルに心臓マッサージをする様子をわたしは上から見ていた。

星さんが赤いバッグを持って駆け戻ってくると、サトシさんは店員さんに試着室のカーテンを取って来させ、それでわたしの周りを覆う。

そして女性の店員さんにわたしにAEDを施すように指示を与えた。カーテン越しにサトシさんが的確に指示を出す。わたしは、さらけだされた胸が恥ずかしく、使い古した下着にも自分のことを呪わずにはいられない心境だった。

けれど、どんなに叫んでも暴れても誰一人、空中を漂う透明人間のわたしに気付く人はいない。

 ふわりと浮かびながら、幽霊のわたしはその掌を胸に当てる。

今はそこにない心臓は鼓動を刻むこともなく、ただ波のような感情が揺らめいているだけだった。

やがて小さな機械が、わたしが心拍を取り戻したことを告げた。