年季の入った猪口に透明な清酒を注ぐと、朧は誰も座っていない、盆を挟んだ反対側に置く。
 弥生の着替えを用意した朧は清酒を入れた徳利と()()()の猪口を用意すると、全ての明かりを消した暗い縁側に座って一人酒を嗜んでいたのであった。

(あの娘はもう寝たのか?)

 離れたところで襖の開閉音が聞こえてくる。耳を澄ませながら猪口を傾けていると、床板が軋む音と共に足音が近づいて来たのであった。

「眠れないのか。それならお前も月見酒でもどう……」
「相変わらずしけた顔をしているな、朧」

 弥生だと思って振り返らず話していた朧だったが、二度と聞けないはずの声が聞こえてきて手が止まる。振り向くと、そこには亡き親友が最後に会った時と同じ姿のまま、何食わぬ顔をして立っていたのであった。

「弥彦! お前は死んだはずじゃ……」
「死んだよ。今のおれはやよちゃんに宿っている風鬼の魂に残った意識。やよちゃんの身体を借りて実体化したんだ」
「やよって……あの娘はどうした?」
「疲れて眠っているよ。死んで鬼になって、力が暴走して散々な目に遭ったからな。布団で横になったらすぐ寝落ちしたよ……。で、いつやよちゃんが目を覚ますか分からないから単刀直入に言う。朧、今すぐ脱げ」
「脱げってなんだ。まさかお前そっちの気があったのか。それとも死んでようやく本性が……」
「ちがうちがう。勘違いするな! お前の背中の傷が心配なんだ。落ちてきた瓦からやよちゃんを庇った時に背中を怪我しただろう。隠しているみたいだがバレバレだぜ」

 弥彦の言う通りだった。廃社となった社の屋根瓦から弥生を庇った時に割れた瓦や瓦の欠片が礫のように朧の背中に当たっていた。幸いにも頭に当たらなかったが、鬼の力どころか妖力も無い、人間も同然の今の状態で当たっていたら、命は無かったかもしれない。
 湧き水を汲みに行った時に軽く背中を冷やしたが痛みは引かず、弥生と話している間もずっと痛み続けていた。それもあって弥生が靴を履いていないことに気づいていながらも、朧は弥生を背負うことも手を貸すことも出来ないどころか、怪我を悟られないようにして、どうにか平静な振りをして歩くのが精一杯であった。
 歩いている間も傷口は疼き続けていたので、朧は背中を丸めて歩いていたが、いつ弥生が気付くか気が気じゃなかった。家に着くまで弥生と話すことで、どうにか自分から弥生の目を逸らさせたのであった。

「お前のことだから、力を暴走させたやよちゃんに気を遣ったつもりだろう。でもおれは気づいてたぜ」
「気づいていたのか……」
 
 朧は深いため息をついてしまう。 やはり弥彦には気付かれていた。もしかしたら弥生にも気付かれていたかもしれない。落ち込んでなければいいが……。
 頭を押さえて苦い顔をしていると弥彦に一笑される。

「でもお前が隠していたからおれが出て来られたんだ。もしやよちゃんに正直に話していたらおれの出る幕は無かった。こうして過去の人間が出て来て話しをするつもりはなかったさ」
「過去の人間って言うなよ。お前は今もあの娘の中で生きているだろう」
「死んだ以上、もう過去の人間だよ。ほら、早く背中を見せてくれ」

 渋々、朧は羽織を脱いで帯を緩めると上半身を脱ぐ。その間に軟膏を持って来た弥彦が後ろに座ったのだった。
 
「こいつは酷いな。あちこち痣だらけだ」
 
 自分では背中が見えないので分からないが、そこまで酷いのだろうか。
 そんなことを考えていると、急に痛いところを押されて、朧は声にならない悲鳴を上げる。

「痛かったか?」
「……ああ」
「痣になっているからな」

 分かっていながら押してきた弥彦を睨みつけると、弥彦は失笑しながら軟膏を指に取って痣に塗ってくれる。
 子供の頃は弥彦とあちこち遊び回り、時には喧嘩をして怪我を負う度に、こうして母親に塗ってもらったことがあった。
 母親が亡くなり、弥彦も死んだ以上、もう背中に軟膏を塗ってくれるような家族も心友もいないと思っていた。今回の怪我も自分の手の届く範囲にない傷は何の手当てをしないつもりだった。
 それなのに心配した亡き親友が、巻き込まれただけの人間の身体を媒介に現れてしまった。昔と同じように傷口に軟膏を塗って、寝間着を着直すのさえ手を貸してくれたのであった。