「少しは落ち着いたか?」

 埃だらけの社の階段に座って屋根から落ちてくる雨垂れを眺めていると、どこかに行っていた男が両手にラムネ瓶を持って戻ってくる。
 男の着物と草履は雨と泥ですっかり汚れて見るも無残な姿になっていたが、それは弥生も同じだろう。服は雨で濡れて、靴下は泥だらけであった。きっと化粧も落ちて、髪も乱れている。

「近くの湧き水を汲んでこようとここを出たら、丁度ラムネ売りが売り歩きをしていた」
「ありがとうございます……」

 男からラムネ瓶を受け取ると、月明りが反射して瓶に自分の姿が映っていた。服や化粧が乱れていたのは思っていた通りだが、それよりも驚いたのはその姿であった。

「あれだけ妖力を暴走させたんだ。しばらく目はそのままだろうな」

 ラムネ瓶を見たまま固まった弥生に気付いたのか、隣に座った男が自分のラムネの飲みながら答えてくれる。
 弥生の目は男が火球や水球を放った時と同じような金色に染まっており、頭の中心には小さな角が一本生えていた。顔の輪郭は人間だった頃より細くなり、目鼻立ちがはっきりしているような気がした。肩まで伸ばしていた黒い髪も胸元まで伸びており、心なしか胸元が窮屈に感じられた。
 自分でありながら自分じゃない姿に、戸惑いを隠せなかった。

「道理で行く先々で女鬼って言われた訳ですね……」

 カラーコンタクトを入れたような鮮やかな金色の目と頭から生えた角。逃げていた時に女鬼と言われて恐れられた意味がようやく分かった気がした。
 こんな姿は鬼以外の何者でもない。人間だと言っても誰も信じてくれるはずがなかった。

「怖がられたのか?」
「化け物って言われて石を投げられました。当たらなかったんですが、ショックが大きくて……」

 ラムネ瓶を開けると弥生も口をつける。乾いた喉に染みる冷たさと炭酸が気持ち良い。瓶を傾ける度に中のビー玉が音を立てるのも懐かしかった。
 
(美味しい……)
 
 ラムネ自体飲んだのは数年ぶりだった。祭りの縁日で飲んだのが最後なのでもう数年以上前だろう。
 祭り会場には人間だけではなく、あやかしも沢山集まる。祖母が亡くなってあやかしと関わらないようにしてからは祭りにも行かなくなった。
 ラムネに意識を向けていた弥生だったが、隣から視線を感じて目線を向ける。そこには空のラムネ瓶を手に男が弥生を見つめていたのであった。

「顔についていますか?」
「何となく、弥彦に……横顔が亡くなった知人に似ている気がしてな」

 男は弥生の角に触れると指先で軽く擦る。くすぐったいようなむず痒い感覚に、弥生は「ひゃ!?」と声を上げてしまう。

「これならもう石は投げられないだろう。今の姿なら人間や他のあやかしと見分けも付かない」

 ラムネ瓶を鏡代わりにして覗き込むと、弥生の頭から角が消えていた。どんな手品を使ったのかと男を見るが、男はただ端的に「角が戻らない時はただ軽く刺激を与えれば身体の中に引っ込む」と教えてくれたのであった。

「生まれたばかりの鬼の子供は角が出ているからな。自分の意思で出し入れ出来るようになるまでこうして誰かに触ってもらう。子供に限らず、興奮して自分の意思で角が戻らなくなった時も同じだ」
「ありがとうございます……。気を遣っていただいて……」
「これで分かっただろう。鬼の力は人間には過ぎた代物なんだ。そろそろ返してくれないか?」
「どうやって返せばいいんですか?」
「鬼の力の取り出し方は鬼ごとに違う。自分が持つ鬼の力に聞いてくれ。誰かが強い力を使って強引に奪おうとしない限りは、本人が死ぬまで取り出せない。鬼の力が無い今の俺には強引に取り出すことも敵わない。お前が返してくれない限りは」
 
 懇願するような男の顔を見ていられなくて弥生は目を逸らす。返せるものなら返したいが、返し方が分からなかった。さっきの暴風雨が止んだ後から鬼の力は鳴りを潜めてしまい、今は物音一つ立てていなかった。

「すみません。取り出し方が分からないんです。鬼の力も何も言っていなくて……」

 ラムネ瓶を両手で強く握りしめていると、「そうか」と男は嘆息する。

「俺の力は別として、最初に取り込んだ風鬼の力が何も言っていないのなら仕方がない。明日まで待ってみるか」
「すみません……」
「そう何度も謝らなくていい。人間とはそういう生き物なのか。それとも弥彦の魂がそうさせるのか?」
「弥彦さん?」
「亡くなった風鬼の名前だ。割れたガラス瓶の中に入れていた風鬼の魂だ」

 ガラス瓶の中に入っていた緑色の光を思い出す。蛍のように暗い部屋で輝いていた緑の球体。それを男は「亡くなった風鬼の魂」と呼んでいた。あれが弥彦の魂なのだろう。

「死んだばかりの鬼の魂には生前の人格や意思が残っていることがあると言われている。鬼の力も魂に触れたからといって、自分のものとして受け継げる訳じゃない。生前の人格が誰に自分の受け継がせたいか決めている必要がある。その相手は必ずしも同族じゃなくていい。他のあやかしでも人間でもいいんだ。ただその為には一度相手をかくりよに連れて来なければならない」
「弥彦さんが私に力を受け継がせたいと考えて、私をかくりよに連れて来たのでしょうか……」
「さあな」

 その時、石段を登ってくる複数の音が聞こえてきた。男も気づいたようで、顔を上げると石段に顔を向けたのであった。