息を切らせながらなんとか石段を登り終えると、目の前には朽ち果てた社が現れた。屋根瓦はところどころ落ち、障子は穴だらけ、木の扉は風で飛ばされたのか影も形も無くなっていた。
 誰もが住んでいないどころか、久しく手入れをされていないのは一目瞭然だった。

「ここなら誰にも迷惑をかけないよね……」

 それだけ呟くと、弥生は直接地面に座り込む。空を見上げれば、弥生を軸に社の辺りにだけ暗雲がかかっていた。弥生の顔に雨雲から落ちてきた雫が当たると雨が振り始め、やがて風を伴う嵐となった。

(どうしてこんなことになったんだろう……。バイトを終えて、ただ帰るだけだったのに……)

 いつもだったら今頃自宅に着いて寛いでいる時間だろう。夕食を食べながらテレビを観ているか、もしかしたら外食をしていたかもしれない。
 それがどうして誰かに追われて車に轢かれて、かくりよに迷い込んで鬼の力を手に入れてしまった。
 水鬼だというあの男は「早く鬼の力を返さないと鬼になってしまう」と言っていた。今ならまだ人間に戻れるのだろうか、それとももう鬼になってしまったのだろうか。

「分からない。何もかも分からない! 何でこんなことになったの……。私はただ平穏に暮らしたかっただけなのに……!」

 弥生の目から涙が零れる。子供の頃からあやかしが見えてしまうが為に苦労してきた。怖いあやかしがいると言っても誰も信じてくれなかった。
 両親には気味悪がられ、せっかく出来た友人からは変人として白い目で見られてしまう。弥生の話を唯一信じてくれた祖母はもうどこにもいない。
 孤独の二文字に押し潰されそうになる度に、どうして自分はこの世界に生まれてきてしまったのかと考えてしまう。

 ――せっかくあやかしが見えるのなら、人間側ではなく、あやかし側に生まれたかったとも。

 それならせめて静かに暮らしたかった。人もあやかしも何もかも関係ない、自分が自分でいられる場所で……。

 強風に煽られた社の屋根瓦がとうとう音を立てながら崩れ落ちてきた。落下地点には地面に座り込んだ弥生がいた。
 避けないと大量の屋根瓦で圧死してしまうのは分かっていた。それでも身体が動かなかった。
 自分が死ぬことでこの暴風雨が収まるのなら――鬼の力を返せるのならそれでいいと思った。
 顔を上げれば滝のような雨粒が顔に当たり、台風の時に吹くような大風が髪を揺らして巻き上げる。乱雲から降ってくる雨雫はこんなに冷たいものだっただろうか。
 目前に迫る屋根瓦を見つめながらその時を待っていた時、怒声が聞こえてきた。

「馬鹿が! ここで死ぬつもりか!?」

 弾かれたように振り向いた弥生の視界で、紺と青の縞模様が動いた。
 ほんの瞬きをする間に、弥生は引き摺られると地面に倒される。さっきまで弥生が座っていた場所に無数の屋根瓦が降り注ぎ、砕けた屋根瓦の破片や泥が辺りを舞ったのだった。

「くうぅ……うぅ……」

 土と雨の臭いが辺りを漂う中、近くで声が聞こえてきて弥生は閉じていた目を開ける。
 目の前には崩れ落ちてきた屋根瓦から弥生を庇うように男が覆い被さっており、屋根瓦の破片が当たったのか苦痛で顔を歪めながら小さく呻いていたのであった。

「あっ……」
「命を……粗末にするな……」

 男はそれだけ呟くと弥生の上からそっと身を引く。やはり痛かったのか身体を押さえたので、弥生も起き上がると男に手を貸そうとする。

「ごめんなさい……私のせいで……」

 涙声になりながら手を伸ばして男の身体を支えようとするが、今度は社を囲む木々から嫌な音が聞こえてくる。この狂風で限界が来たのかもしれない。ここにいたら今度は倒木の下敷きになってしまう。

(自分はどうなってもいい。せめてこの人だけでも)
 
 腕を引っ込めて距離を取ろうとした時、男は片腕を回すと弥生を引き寄せた。
 腰を掴まれて身動きが取れずにいると、頭上からは安心させるような静かな声音が聞こえてきたのであった。

「大丈夫だ。大丈夫だから落ち着け。ゆっくり深呼吸をするんだ。そうしたらこの嵐は収まる」
「で、でも、その前に木が倒れてくるかも……」
「何があっても俺が側についている。木が倒れてきても俺が庇う。もっと肩の力を抜いた方がいい。俺に呼吸を合わせろ。気持ちを落ち着けるんだ」

 言われた通りに何度も息を吸っては吐いてを繰り返す。その間も男は弥生の背中を擦り続けた。まるで泣きじゃくった幼子を落ち着かせるような優しい手つきに弥生の心が落ち着いてくる。
 そんな弥生に呼応するかのように風雨は弱まり、雨雲が霧散する。やがて無数の糠星が輝く宵の空へと姿を変えたのであった。

「収まった……」
「そのようだな」
「もう二度と星空を見られないと思っていたから……」

 男の腕の中から呆けたように空を眺めていると、緊張の糸が緩んだのか力が抜けて、両目から涙が溢れてしまう。
 男に身を委ねて泣いていると、そんな弥生を慰めるように男がそっと抱き上げたのであった。