「目を覚ませ! おい!」

 何度か軽く頬を叩かれて弥生は目を開ける。意識が覚醒してくると、目の前には見目麗しい男の顔があり、弥生は跳ね起きたのであった。

「うわっ!」
「いてっ!」

 勢いよく身体を起こしたからか、弥生の額が男の額にぶつかってしまう。お互いに額を押さえて悶絶していると、男が声を発したのであった。

「こっちの気も知らないで熟睡して……。その上、頭突きをしてくるとはいい度胸じゃないか……」

 その声に振り返れば、男は正座を崩して片膝を立てる。どうやら男は倒れた弥生を気遣って膝枕をしてくれたらしい。男が着ている着物の膝辺りに皺が寄っていた。

「すみません……」
「で、どこから紛れ込んだのかは知れないが、風鬼の力を返してくれないか。返してくれたのなら、獄卒に頼んで黄泉の国まで案内させる」
「黄泉の国? あの、ここが黄泉の国じゃないんですか? 私は死んで黄泉の国に来たのだとばかり……」
「ここはあやかしたちが住まう世界だ。影のように現世――人間世界の裏側に存在している。人間たちが言うところのかくりよだな」
「あやかし、かくりよ……。貴方もあやかしなんですか?」
「俺は水鬼だ。水を操る鬼と思ってくれていい」

 鬼と言われても、弥生が想像するのは昔話や節分の季節に見かける、口からは長い牙、頭からは角を生やし、手には無数の針が付いた棍棒を持った虎柄のパンツ姿の大男であった。
 少なくとも、目の前にいる肩より長い黒髪と宵闇のような黒目、紺と青の縞柄の着物を纏った美丈夫ではなかった。

「角は生えていないんですか?」
「生えているが普段は出さないようにしている。他のあやかしを不安にさせない為にな」
「虎柄のパンツは……?」
「初対面の相手に聞く質問とは思えないが」

 弥生は羞恥で顔を赤くするが、男は鼻を鳴らすと不機嫌そうに眉を寄せる。

「そっちの質問には答えてやった。今度はこっちの望みを叶えてもらおう。お前が吸収した風鬼の力を返してくれ。人間には過ぎた代物だ」
「風鬼の力って、さっきの緑色の光ですか? ガラスの瓶に入っていた」
「そうだ。あの中に入っていたのは先日亡くなった風鬼の魂だ。俺たちあやかしの魂には妖力が宿っている。あやかしが亡くなった時はその妖力を魂ごと預かり、次代のあやかしへと繋げる。そうして妖力を絶やさないようにしてきたんだ」
「妖力って生まれつき持っているものじゃないんですか?」
「あやかしも年々数を減らして、妖力も衰えているからな。生まれつき妖力を持っていても、あまりにも弱くて無いに等しい時もある。例えるなら蝋燭に灯る小さな火だ」

 男が立てた指先に小さな青い火が灯る。小指の爪ほどの小さな炎はわずかに揺れたかと思うとすぐに消えてしまう。
 
「妖力はいわばあやかしとしての力そのものだ。あやかしの力は妖力の大きさに比例する。妖力が無くなれば、あやかしも人間と何も変わらない。反対に多くの妖力を取り込んだあやかしの力は強大なものとなる。取り込んだあやかしの能力さえも自分の力として扱えるようになるんだ」

 人間が持つ霊力を取り込んだあやかしは妖力が強くなると聞いていたが、あやかしが持つ妖力を他のあやかしが取り込んでも同じなのだろう。
 自分が持っている妖力という火に他のあやかしの妖力を足して火を大きくする。取り込んだ火は自分の火の一部と化して、自在に操れるようになる。

「あやかしとその能力。それらの火種を絶やさない為に亡くなった同族の力を取り込んで、火を大きくする。これは種族を絶やさない為に行っている儀式だ」
「ということは、その風鬼の力も誰かが貰うつもりだったんですよね……。風鬼の力を貰う方ってどういう方なんですか? 早く返さないと……」
「俺だ」
「え……。さっき、水鬼と聞きましたが……」
「水鬼も風鬼も同じ鬼だ。鬼の力は鬼が受け継ぐ。さっき見せた火も火鬼から受け継いだ力だ。水鬼である俺本来の力は水を操る力だ」

 そして、男は自らの掌の上にバスケットボールほどの水の球を浮かべる。澄んだ水球越しに見た男の目は宵闇のような黒から怪しげな金に変わっていた。

「事情は分かっただろう。手荒な真似はしたくないが、多少強引でも風鬼の力は返してもらう。少し痛いかもしれないが我慢するんだな」

 最後は囁くように呟くと、男の掌から水球が放たれる。迷いなく一直線に飛んでくる水球から身を守ろうと弥生は両腕で身体を庇う。
 衝撃を覚悟して目を瞑った時、弥生を中心にして緑色の光が展開される。弥生を包む柔らかな緑色の光に触れた瞬間、水球は霧散したのであった。

「何っ!?」

 男の動揺する声で腕の間から様子を見た弥生も、自分が緑色の幕に覆われていることに気づく。

「これは……?」

 今度は掌に青い炎の火球を作ると男は放ってくるが、またしても弥生に届く前に緑色の光が防いでしまう。

「邪魔をするつもりか!? 弥彦(やひこ)!」
「弥彦……さん?」

 男が唸るように低く呟いた言葉に弥生が反応するが、男に答える気は無いようだった。
 男の金色の瞳がますます光ったかと思うと、水と火の球が男の掌に生じた。

「これなら避けられないだろう」

 青い炎を纏った水の球は今までの水球や火球とは違い、見るからに強く激しいものだった。
 男が放った青い球は弥生を守る緑の光に触れると、近くに雷が落ちた時のような大きな音を立てた。

「きゃあ!」
 
 耳をつん裂く音に弥生が悲鳴を上げると、緑の光はひと際強く輝く。そして、青い球を弾き返したのであった。

「馬鹿な!? 弾き返しただと!」
 
 球が跳ね返った先には金の目を丸く見開いた男がいた。火と水の青い球は男の身体にぶつかると、青い光をまき散らしながら吸い込まれるように消えたのであった。

「ぐぅ……!」

 男が胸元を押さえながら唸った瞬間、男の身体から青い煙が立ち昇る。煙は男の上に集まると青い光の球となったのであった。

「綺麗……」

 先程弥生が取り込んでしまった風鬼の力のように淡い光を放つ青い球は、ふわふわと飛んできたかと思うと弥生の側で浮かぶ。

「それはっ……!」

 男は青い光を捕まえようとするが、青い光はするりと男の手からすり抜けてしまう。

「待て!」

 弥生が男の邪魔をしないように後ろに下がったのと、手を伸ばした男が近づいてきたのが同時だった。
 振り向いた時には男が目前に迫っていたのであった。

「きゃあ!」
「うわぁ!」

 男とぶつかった弥生は畳の上に転ぶ衝撃を覚悟して目を瞑る。いつまで経っても衝撃がこないので弥生がそっと目を開けると、男が片手で弥生を抱いて反対の手で壁を支えていたのであった。

「あっ……」
「無事か?」

 元の宵闇色に戻った目を向けながら男が尋ねてくる。これまであやかしが見える体質の為、特定の男とこういった経験が無い弥生には端麗な顔立ちの男の顔が眩しく見えた。

「は、はい……」
 
 弥生はなんとか頷くと、男の腕の中から抜け出そうとする。そんな弥生と男の間に青い光の球が入ってきたのであった。

「これって……」

 青い球が弥生の中に消えると、弥生の身体が燃え上がるように再び熱くなる。身体の内側がむず痒くなる感覚に、弥生は男を突き飛ばすと腕の中から逃れたのであった。