「今ので軟膏も結構減ったな。明日にでも買い足しておいた方がいい。そして明日はやよちゃんに塗ってもらえ」
「いや。あの娘は明日中に獄卒に引き渡す。俺とお前の力も他の鬼に頼んで強制的に出してもらう」
「何だと?」
「言葉通りの意味だ。人間には人間の理がある。あの娘は人間の元に帰すべきだ。そうすれば輪廻転生の輪に戻って、また次の生を得られる」
「やよちゃんはそれでいいとしてお前はどうする。この先ずっと一人で生きていくつもりか。自宅の縁側で居るはずのない俺の席まで用意して……。現実から目を逸らして、一人で飲み続けるのか?」

 空になった自分の猪口に透明な清酒を注ぎながら、朧は「ああ」と肯定する。

「それが俺の運命だったんだ。生まれつき鬼の力が強かったが為に、母親共々一族を追い出された俺の宿命なんだ」
「それはおれも同じだ。力が強いだけの風鬼――それも風鬼一族にとっては不要な男鬼として生まれた。これが女鬼だったら子孫繫栄の為の子種として重宝されたんだけどな……」

 朧も弥彦も妖力が弱いはずのあやかしの中で桁外れの妖力と鬼の力を持って生まれてしまったが為に、一族が住む上町を追われて下町で息を潜めて暮らすことになった。母親が一緒だった朧はまだ衣食住もあったが、身一つで捨てられた弥彦は浮浪児のような生活を送っていた。
 それが朧と出会い、母親の勧めもあって、やがて三人で共に暮らすようになった。弥彦は朧の親友であると同時に、共に育った兄弟のような間柄でもあった。
 母親が他界した後も弥彦がいる内は良かった。だがその弥彦も亡くなってしまった。もう朧には何も残っていない。
 亡友を想いながら月を眺めて、過去に縋りつく以外は――。

「でも朧。人もあやかしも一人では生きていけない。お前にはやよちゃんが必要だし、やよちゃんにはお前が必要だ」
「それならあの娘じゃなくてもいいだろう。どうしてあの娘なんだ。あやかしが見えるからか?」
「やよちゃんは他のどのあやかしよりも霊力が強い。今のままだと輪廻転生の輪に辿り着く前にあやかしに喰われる可能性の方が高い。現に彼女はあやかしが原因で命を落としている」
「そうなのか?」
「死ぬ直前、やよちゃんは霊力を狙ったあやかしに追われていた。そいつに喰われる前におれがやよちゃんの魂をお前のところに送った。お前ならやよちゃんを悪いようにはしないと思ってな」
「あの娘がここに居たのはお前のせいだったのか……!」
 
 普通の人間は死した後、黄泉の国に行く。悪人は地獄に善人は極楽に行き、それぞれの魂をまっさらな状態に戻す。そうして輪廻転生の輪に戻って、また新たな生を全うする。
 まれにかくりよに迷い込んでしまう魂もあるが、その魂も獄卒によって黄泉の国に連れて行かれる。もしあやかしに魂を喰われてしまえば、その魂は二度と輪廻転生の輪に戻れず、永遠に深淵を彷徨うと言われていた。

「それにやよちゃんの高い霊力なら、おれの魂に宿った妖力と風鬼の力による鬼化にも耐えられる。他の人間やお前以外のあやかしにはおれの力は強すぎて耐えられない。後は名前も気に入った。弥生だぞ。『()彦から()まれた()()』って語呂がいいだろう」
「だが彼女は人間だ。これからも人間としての生を全うさせてやれ」
「あれだけ霊力が強ければ、転生しても霊力は完全に消えないだろう。それなら最初からあやかし側に居た方がいい。欠点を美点に変えるんだ」
「だからって何も俺の側にじゃなくてもいいだろう」
「そんなことをしたら、お前、今度こそ孤独になるぞ。耐えられるのかよ。あやかしの長い人生を一人で過ごすんだ。気が狂ってもおかしくない」

 弥彦の冷たい声に朧は言葉を詰まらせる。
 弥彦の言っていることは間違っていない。あやかしの長い人生に耐え切れなくなり、狂人と化して自死を選んだあやかしも少なからずいる。
 そういったあやかしと生涯を全うしたあやかしの違いは、身近に支えてくれるあやかしがいたかどうかだと言われていた。

「俺にはお前と母と三人で過ごした思い出だけがあればいい」
「お前には未来があるだろう。死んだおれたちには過去しかない。だがお前と鬼になったやよちゃんには未来がある。過去じゃなくて未来に目を向けてくれ。そうすればおれの心残りもなくなるから」

 弥彦はもう一つの猪口を一気飲みする。こうしていると、共に月見酒をしていた日が昨日のことのように思える。それなのに未来を生きる朧と過去でしか生きられない弥彦はもう同じ時間を過ごせない。
 なんともどかしくて……残酷なことだろう。

「お前の心残りは俺だけか?」
「他にもあるよ。例えば、現世の菓子をもっと食べてみたかったとか」
「くだらないな」
「現世で用心棒をやっていた時に必ず守ると誓った人間を守ってあげられなかったとか。それも二人……」

 その時、弥彦の身体が傾いだので朧は慌てて支える。夢現のように弥彦は呟く。

「俺さ……先に逝く悲しみと置いて行かれる悲しみ、どっちがより悲しいのかずっと考えていた」
「……答えは見つかったのか?」
「答えは出なかった。どっちも同じくらい悲しくて……辛いな。おれだって本当はお前ややよちゃんともっと同じ時間を過ごしてみたかったよ……」

 弥彦の身体から力が抜けると、その姿は弥生に戻っていた。弥彦は弥生の中に戻ったのだろう。
 弥生の頭を膝の上に乗せると、身体を冷やさないようにそっと羽織を掛ける。寝顔もどことなく弥彦に似ている気がした。弥彦の魂がそうさせるのだろうか。

「んっ……」

 しばらく弥生の寝顔を見つめていると、弥生が呻いたので朧は慌てて目を逸らす。ここで寝ていたら風邪を引いてしまう。
 朧は弥生の身体に手を回すと、そっと身体を持ち上げる。背中の傷は痛むが、部屋までの短い距離なら我慢できなくない。
 弥生を抱いて縁側を歩いていると、弥生が身じろぎする。

「おばあちゃん……」

 小さく聞こえた寝言に朧は確信する。やはり人間である弥生とあやかしである自分が住む世界は違う。
 弥生は人間として死して、次の生も全うさせるべきだと。